いくらか気が軽くなったところで、高遠家が創業した第九銀行に到着した。
黒木とは銀行の前で別れた。彼には引き続き玉森家について調べるよう指示してある。
伽夜が両親と暮らした場所が知りたい。
それだけでもわかれば、父親について検討がつくかもしれない。
先代の公爵夫妻は、伽夜と母親を迎えに行ったときに、必ず使用人を伴っているはずだ。フミの後に雇った元玉森の使用人、守三から、心当たりがある人物を聞いてある。
黒木は彼らに会いに行く。
伽夜が無くした記憶の片鱗が、その場所にあるはずだ。
「遅くなった」
「お待ちしておりました。高遠様」
さあこちらへと急かされるように廊下を進む。
会議室に入って間もなく、説明を受けた涼月はうんざりとした溜め息をついた。
忌々しさを隠さず、席につく面々を睨めつける。
「相手が誰であろうと相応の担保がなければ貸さない。それだけじゃないのか?」
静まり返った会議室で、涼月の声だけが冷ややかに響く。
彼を待っていたのは大口の融資決済だ。
長いテーブルには両側に五人ずつ並んでいて、半数以上は涼月よりも年上の役員や幹部だが、皆気配を消さんばかりに俯いている。
鶴の一声を待っていると言わんばかりの彼らの態度を、涼月は冷ややかに見回す。
規定通り突っぱねればいいだけのはずが、誰もそれをできない。頭取以下、保身に走るばかりで責任を取りたくないのだろう。
書類の上に置いた指先で、コツコツとテーブルを叩き、涼月は瞼を閉じた。
第九銀行は涼月の祖父が総監役として設立から関わっているため、今もって取締役会長として名を連ねている。
だが、涼月には時間的余裕がない。すべての役職から降り、完全に身を引きたいというのが、一貫して変わらぬ姿勢である。
これを機に手を引こうかと思いかけたとき。
「相手が侯爵家なので……」
ようやく頭取が口を開いた。
負債の申し込みは 公家 (くげ)の出身の堀ノ内侯爵。
「当行には関係ない。融資を受けられなければ爵位が保てぬというなら、返上しろと言えばいい」
「で、ですが」
堀ノ内は宮家に近しい家である。たとえ間接的でも宮家が関わってくるとなると、気が重いのだろう。ぴたりと口を閉ざしてしまう気持ちもわからなくもない。
だが、それを盾にするような朽ちた土壌は崩さなければならない。銀行は華族のための慈善事業ではないのだ。
「あの家には曜変天目茶碗がある」
堀ノ内侯爵家自慢の家宝だ。国宝とも言われている。残る担保はそれくらいしかない、
「それを担保に一年という期限をつければ妥当だろう」
曜変天目というつぶやきとともに会議室がざわつくが、構わず涼月は席を立った。
「あ、あの。それは厳しすぎるのでは」
ドアノブに掛けた手を止め、振り返る涼月の目は、より一層氷のように冷たく光った。
一同は凍りついたように固まる。
「何度煮え湯を飲まされたら気が済むんだ? 堀ノ内自動車には優秀な社員がいる。彼らに実権を渡せば半年でめどが立つだろう。それができないなら倒産の道をひた走るしかないのは明白だ」
堀ノ内自動車を私物化している堀ノ内伯爵が悪の根源である。どんなに手を差し伸べても根元が腐っていればどうにもならない。
「それができないようなら、金輪際、高遠家は手を引く」
言うだけ言って扉を閉じた。
玄関に向かって廊下を進むと「会長」と呼びながら慌てたように秘書が走ってくる。
「今日はこちらに?」
「いや、帰る」
「そうですか……」
彼は今年三十になる。帝国大学を主席で卒業した優秀な人材だ。普段から冷静沈着な彼が眉を歪ませるには、それなりの理由があるはず。
「どうした?」
「実は、鬼束伯爵の周辺で少し気になる話を耳にしまして」
鬼束と聞いて、涼月は束の間考え込む。
昨夜、邪悪な鬼を捕り逃したが、鬼が消えたその先にある屋敷は、鬼束伯爵邸だ。
「当行に限らず融資を断られた華族は、鬼束伯爵を頼っているらしいんです。どうやら伯爵の方から積極的に接触してくるとか」
聞き捨てならない報告だった。
「わかった。詳しく話を聞こう」 廊下を戻り、会議室の前を通ると、微かだが声が聞こえた。
『高遠会長には心がない』
『わたしはあの人が鬼に見える』
秘書にも聞こえたらしい。気まずそうにちらりと涼月を見た。
「あ、あの……。お気になさらないでください」
涼月は口角をうっすらと上げる。
(心がない、か)
ちらりと秘書を見た涼月は、淡々とうなずく。
「彼らが言う通りだ。気にするまでもない」
自嘲するわけでなく、確かにそうだと思う。
妻をも嘘の囁きで誘惑しようというのだから、心などないのだと。
自分の心の在処など考えたこともないが――。
(人の心を覗くうち、俺は自分の心を無くしたんだ)
黒木とは銀行の前で別れた。彼には引き続き玉森家について調べるよう指示してある。
伽夜が両親と暮らした場所が知りたい。
それだけでもわかれば、父親について検討がつくかもしれない。
先代の公爵夫妻は、伽夜と母親を迎えに行ったときに、必ず使用人を伴っているはずだ。フミの後に雇った元玉森の使用人、守三から、心当たりがある人物を聞いてある。
黒木は彼らに会いに行く。
伽夜が無くした記憶の片鱗が、その場所にあるはずだ。
「遅くなった」
「お待ちしておりました。高遠様」
さあこちらへと急かされるように廊下を進む。
会議室に入って間もなく、説明を受けた涼月はうんざりとした溜め息をついた。
忌々しさを隠さず、席につく面々を睨めつける。
「相手が誰であろうと相応の担保がなければ貸さない。それだけじゃないのか?」
静まり返った会議室で、涼月の声だけが冷ややかに響く。
彼を待っていたのは大口の融資決済だ。
長いテーブルには両側に五人ずつ並んでいて、半数以上は涼月よりも年上の役員や幹部だが、皆気配を消さんばかりに俯いている。
鶴の一声を待っていると言わんばかりの彼らの態度を、涼月は冷ややかに見回す。
規定通り突っぱねればいいだけのはずが、誰もそれをできない。頭取以下、保身に走るばかりで責任を取りたくないのだろう。
書類の上に置いた指先で、コツコツとテーブルを叩き、涼月は瞼を閉じた。
第九銀行は涼月の祖父が総監役として設立から関わっているため、今もって取締役会長として名を連ねている。
だが、涼月には時間的余裕がない。すべての役職から降り、完全に身を引きたいというのが、一貫して変わらぬ姿勢である。
これを機に手を引こうかと思いかけたとき。
「相手が侯爵家なので……」
ようやく頭取が口を開いた。
負債の申し込みは 公家 (くげ)の出身の堀ノ内侯爵。
「当行には関係ない。融資を受けられなければ爵位が保てぬというなら、返上しろと言えばいい」
「で、ですが」
堀ノ内は宮家に近しい家である。たとえ間接的でも宮家が関わってくるとなると、気が重いのだろう。ぴたりと口を閉ざしてしまう気持ちもわからなくもない。
だが、それを盾にするような朽ちた土壌は崩さなければならない。銀行は華族のための慈善事業ではないのだ。
「あの家には曜変天目茶碗がある」
堀ノ内侯爵家自慢の家宝だ。国宝とも言われている。残る担保はそれくらいしかない、
「それを担保に一年という期限をつければ妥当だろう」
曜変天目というつぶやきとともに会議室がざわつくが、構わず涼月は席を立った。
「あ、あの。それは厳しすぎるのでは」
ドアノブに掛けた手を止め、振り返る涼月の目は、より一層氷のように冷たく光った。
一同は凍りついたように固まる。
「何度煮え湯を飲まされたら気が済むんだ? 堀ノ内自動車には優秀な社員がいる。彼らに実権を渡せば半年でめどが立つだろう。それができないなら倒産の道をひた走るしかないのは明白だ」
堀ノ内自動車を私物化している堀ノ内伯爵が悪の根源である。どんなに手を差し伸べても根元が腐っていればどうにもならない。
「それができないようなら、金輪際、高遠家は手を引く」
言うだけ言って扉を閉じた。
玄関に向かって廊下を進むと「会長」と呼びながら慌てたように秘書が走ってくる。
「今日はこちらに?」
「いや、帰る」
「そうですか……」
彼は今年三十になる。帝国大学を主席で卒業した優秀な人材だ。普段から冷静沈着な彼が眉を歪ませるには、それなりの理由があるはず。
「どうした?」
「実は、鬼束伯爵の周辺で少し気になる話を耳にしまして」
鬼束と聞いて、涼月は束の間考え込む。
昨夜、邪悪な鬼を捕り逃したが、鬼が消えたその先にある屋敷は、鬼束伯爵邸だ。
「当行に限らず融資を断られた華族は、鬼束伯爵を頼っているらしいんです。どうやら伯爵の方から積極的に接触してくるとか」
聞き捨てならない報告だった。
「わかった。詳しく話を聞こう」 廊下を戻り、会議室の前を通ると、微かだが声が聞こえた。
『高遠会長には心がない』
『わたしはあの人が鬼に見える』
秘書にも聞こえたらしい。気まずそうにちらりと涼月を見た。
「あ、あの……。お気になさらないでください」
涼月は口角をうっすらと上げる。
(心がない、か)
ちらりと秘書を見た涼月は、淡々とうなずく。
「彼らが言う通りだ。気にするまでもない」
自嘲するわけでなく、確かにそうだと思う。
妻をも嘘の囁きで誘惑しようというのだから、心などないのだと。
自分の心の在処など考えたこともないが――。
(人の心を覗くうち、俺は自分の心を無くしたんだ)