気が抜けない。
「伽夜様がですか?」
 涼月は半ば上の空のまま、うなずく。
 伽夜の記憶の封印が解けない方がいいのか。封印が解けて、力を自覚させた方がいいのか。それもわからない。
 おまけに伽夜の心は、どうしても覗けないのだ。
 抱いて本当の夫婦になればあるいはと思ったが気が引けてやめた。結婚したとはいえ伽夜の心を無視するわけにはいかない。
(約束の一年のうちに、心を開いてくれればいいが……)
 左右に首を振った涼月は、長い息を吐く。

「厄介なだけですか?」
 怪訝そうに、涼月は黒木を振り向いた。
「どういう意味だ」

「伽夜様は純粋な方ですね。そして、とても優しい」
 なにが言いたいのかと、視線の端で黒木を見た。
「それで?」
「我慢強さが気になります」
「どう気になる?」
 苛立たしげに性急に聞いた涼月は、体ごと黒木を向く。
 先ほどからずっと、彼はなにか言いたげだ。
「あくまで私見ですが、伽夜様はいつか出ていくつもりなのではないでしょうか」
(なに?)

 一年の約束はふたりだけの秘密であるはず。
「なぜそう思う?」
「人は居場所を見つけたら少しずつ物を増やすと思うのですが、伽夜様はなにも欲しがらないのです」
 それは確かにそうだ。必要なものはないかと聞いても、伽夜は『なにも』とにっこり微笑むだけである。
 でも、だからといって。
「風呂敷ひと包みで、そのままふらりと出ていってしまうような……。涼月様はそうは思われませんか?」
 ひとまずそれを止めるために契約結婚という方法をとったというのに。
 フミも呼んで気持ちはいくらか落ち着いたとばかり思っていた。
 伽夜の夢がなにかはわからないが、邸を出て行かなければ叶えられない夢なのか。
 出ていく時期を一年先送りにしただけなのか。

 心を開いてもらおうと涼月なりに努力している。緊張感が解けるよう、優しく声をかけているつもりだ。
(これ以上どうしろと?)
 もとより涼月は華族のなかでも最高位の公爵家に生まれ、人に気を使う立場にないのである。
 人々は、向こうから寄ってきて心を見せた。
 こんなことで悩むのは初めてである。

「なぜだ」と、言わずにはいられなかった。
「来たばかりのときならいざ知らず、今はフミもいる。寂しくもなく、なにも不自由ないはずなのに、なぜ出て行く必要がある」
 付喪神の話をするときも楽しそうだ。
 心が読めなくてもそれくらいはわかる。この屋敷を怖がって辞めていった使用人とは違う。伽夜はあやかしを怖がってはおらず、むしろ親しんでいる。
「わかりません。涼月様がそう思われないなら、私の気のせいなんでしょう。申し訳ありません」
 黒木は苦笑して口を閉ざした。

「いや、責めているわけじゃないんだ。気にかかることがあれば言って欲しい」
 涼月は溜め息混じりにかぶりを振る。
「まだ日も浅いですし。――もう少しお二人の時間を取れるといいのでしょうが」
 わかっていると吐き出しそうになり、言葉を飲み込んだ。これ以上黒木にあたったところでどうにもならない。

 昨日もおとといも、キクヱから『もう少し伽夜様と一緒に、お過ごしできないのですか?』と言われている。
『伽夜が来てからずっと、朝食を共にしているではないか』
 以前は朝食を取らずに出かけたりしていた。毎朝必ず家で朝食を取るだけでも涼月にとっては大きな変化であるが、それでもまだ足りないらしい。
『呉服屋を呼んだり、気にかけているぞ? ほかになにが足りないんだ?』
 キクヱは『それはわかっておりますが』と、表情を曇らせるのである。

 車窓から外に目を向けると、手を繋ぐ家族連れが見えた。
 真ん中にようやく歩き始めた子がいて、父と母が両脇から微笑んで見守っている。少し離れた後ろには、笑いながら肩を並べて歩く男女。
 今日はやけに目に痛い。

「ともに過ごす時間とは、それほど大切なものなのか」
 多くの感情を見てきたせいか、人との距離をとるようになった。
 美しい心に触れれば癒されるが、そういう機会はひどく少ない。ほとんどが欲にまみれ、不満を吐き出し、不平に満ちている。
 人から離れて静かにひとり、心を無にして過ごす時間を大事にしてきた。
 誰かと過ごす時間が大切という意味がよくわからない。
(そういえば、フミを迎えに行ったとき。話をしないとわからないと思ったな)
 忙しさにかまけて忘れていた。

「温もりは、ともに過ごさなければ感じられません。心の距離を縮めるのは温もりなのではないでしょうか」
 生意気言ってすみませんと黒木は眉尻を下げた。

「温もりか……」
 漏れた長い溜め息とともに、こめかみに指を添える。
「――今日の夕食は家で取る」
 とりあえずキクヱや黒木の進言に従い、なるべく一緒にいるしかない。
「わかりました」

 今夜は満月だ。
 雲がなければ、あやかしどもの動きは鈍い。夕食をともにして伽夜の近くにいよう。
(考えられるすべてをしてみるか)

 涼月は恋愛感情を抱いたことはないが、必要に応じて女たちを誘惑してきた。
 どうすれば女が喜ぶのかはわかっている。
 瞳を見つめて微笑みかけ、まずは安心させるのが肝要だ。なにかの折に物を贈り、話をよく聞き、身につけている物を似合うと褒めて『君だけだ』と囁けば、心を震わせる。
 情報を得られるのは君だけだという意味だが、彼女たちには深い意味など関係ない。嘘だろうが本当だろうが、女にはその言葉のみが大切なのだ。
 顎をすくい唇を重ね、それから先はどの女も大差ない。
(どこまで通じるかわからないが、まあなんとかなるだろう。幼さが残るとはいえ伽夜も女だ)