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 伽夜に見送られ玄関を出た涼月は車に乗ると、黒木を振り返って表情を一転させた。
「急ごう」
「そうですね、四十分ほど遅れています」
 涼月は束の間眉をひそめる。

 伽夜に時間があると言ったのは嘘だ。
 あきらかに元気がない様子が気にかかり、散歩に誘ったのである。

 毎朝、伽夜を前にすると、薄氷の上を渡るような気持ちになる。元気なのか、困った様子はないか。一挙手一投足に目が離せない。

「伽夜様になにかありましたか?」
「――わからない」
 大きな理由はなさそうだが……。
 ざわざわと胸が騒ぐ。
 心を覗けないのは思ったより厄介だ。
 愉快だと思っていたのは最初のうちだけ。今はそんな余裕がない。

 これまで涼月は、他人の気持ちを考えずにきた。
 知ろうと思えばいつでも心を覗けるし、わざわざ覗かなくても、まとう空気である程度わかる。
 問題を抱えていたり、よからぬことを企んでいれば、体全体から滲み出る負の波動が周りに不安を誘発し、その空気が涼月の五感に伝わってくるのだ。
 誰も気づかないうちに対応するため、気遣いができる人だと思われているが、実は違う。
 問題が大きくなる前に、摘み取っているだけである。

 だが伽夜にたいしては、涼月の異能は無力だ。
 普通の人のように、伽夜が気落ちしているとわかるだけで、原因を知ろうにもなにも掴めない。
 ならば、本人になんとか言葉にさせようとするが、伽夜は口数が少ない。
 遠慮深く、他人への迷惑を強く意識し過ぎるゆえに、困っていても平気なふりをする。

「キクヱからなにか聞いていないか?」
「お元気がなさそうだとキクヱも気にかけているようですが」
 伽夜はちゃんと昼寝をしているのか、最近、夕食はとれているのかと聞いているうちに「ご執心ですね」と、黒木が薄く微笑んだ。

「伽夜の力がわからないうちは油断できないからな」
 伽夜は感受性が強すぎる。
 あの華奢な体で、力が暴走したらどうなるか。気が気じゃない。
 屋敷には結界を張っている。
 邪悪なあやかしは入れない。高遠家にいるあやかしは、いたずらはしても悪心はない。付喪神も同じだ。
 伽夜に付喪神をつけているのは、伽夜を守るためでもある。
 初夜に口づけをしたのは、万が一に備え、伽夜の体に気力を送るため。
 もとよりこの結婚はあくまで儀礼的なものに過ぎなかった。
 ときどき抱き、異能を持つ子が生まれれば高遠家を継がせ、そうでないならば分家より異能のあるものを跡取りを養子に迎える。それだけのこと。

 だが、伽夜には、涼月が予想していなかった異能がある。
 玉森家の異能に加えて、もし本当に酒呑童子の娘なら、秘めた異能は計り知れない。
 伽夜には瓢箪は母が遺したと言ったが、瓢箪そのものは酒呑童子のものだ。
 毎日酒を飲むように言ったのは、伽夜の身を守る力になるはずだからである。そうでなければ伽夜宛に残さないはず。
 付喪神に酒呑童子の酒、すべて伽夜を守るためだ。
 あやかしに対して感受性が強いのは危険が伴う。
 凶悪なあやかしは人の中に入り込む力があるが、ごく普通の人間に入ったところで、同化はできず、力は半減される。
 それゆえにわざわざ憑りつきはしない。
 しかし、異能を持つ人間が器となると、話は変わってくる。己が持つ力のほかに異能まで手に入れる。おまけに感受性が強ければ同化も可能といわれている。
 伽夜の異能がなんであれ、邪悪なあやかしの力を弾き返すほど強ければ心配ないが、とにかくはっきりするまで気にかけ、寄り添わねばならないのだ。

「厄介だな――」