夕べもそうだ。
『ほれ、今日はあやかしの血の匂いをさせておらぬ』
 箪笥がそう言うと『ああ、本当だな』と茶碗が言った。
 あやかしの退治でなければ、どこに行っているのか。
 この時代、華族の男性たちの多くは妾を囲っていると聞く。
 結婚は家同士が決め、好きな女は妾にするという。女学校にも、産みの母が正妻ではないという子が何人もいた。誰から産まれても正妻の子として育てられるので差別はない。それくらい妾がいるのは普通だった。
 涼月にそういう女性がいても当然で、伽夜は正妻として粛々と受け入れなければならないのだ。
 新婚初夜にともに過ごして以来、この一週間、伽夜と涼月の間にはなにもない。
 あの夜、自分はなにか失敗してしまったのだろうか……。
 口づけをしただけで、その先はなにもなかった。
 男女のことは経験はなくとも、女学校での噂話で耳に挟んでいる。初夜になにをするのか知らないわけじゃない。
(私は仮初めの妻だもの、仕方がないわ……)

「ご主人様は夕べも帰りが遅かったようですね」
 こくりとうなずく伽夜の細いうなじが、フミには寂しそうに見えた。
「お忙しい方だから」
 伽夜の微笑みは、壊れそうにもろく見えるときがある。
 こうして朝からせっかく綺麗にしているのに、旦那様に見てももらえないのは寂しいにちがいないだろうに。
(もう少しだけ、伽夜様のためにも時間を作ってあげてくださるといいんだけど……)
 だが、そればかりはフミにはどうしようもない。

「亭主元気で留守がいいとは言いますが、旦那様はいなさすぎです」
 伽夜の代わりとばかりに文句を言うと、伽夜が笑った。
「フミったら」
 そして、きっと今朝もいないに違いないとあきらめながら朝食の席に向かうと、涼月がすでに席に着いていた。

 しまったと焦る伽夜に、新聞から顔を上げた涼月が微笑む。
「おはよう」

 彼は仮面をつけていない。
 仮面を取って素顔を見せてくれたあの日から、家では外すようになったようだ。
「おはようございます。お待たせしてすみません」
「いや。早く目覚めただけだ」
 今朝の朝食はパンだった。
 こんがりと焼いたパンとバターの香ばしい匂いに、いつもなら食欲が湧いてくるはずが、今朝は食が進まない。

 付喪神の話は気にしちゃいけないと思うのに、よけいに思いだされてしまう。
 喉の奥が塞がったようになり、食べ物を受け付けてくれず、涼月がすっかり食べ終わっても伽夜の皿にはトーストも卵も野菜も、まだ半分ほど残っている。
 来たばかりの頃とは違い、最近は涼月と同じように食べ終わるので「食欲がないのか?」と聞かれた。
「あ、い、いえ」
 残しては御膳所の料理人に申し訳ない。
 慌ててパンを手に取ると、涼月が控えていた女中に下げるようにと伝えた。

「伽夜。無理しなくていい。君は気を使いすぎる」
 すみませんと言おうとして、一度は開けた口を閉じた。
 謝りすぎるのもよくないと昨日言われたばかりだ。
 謝り癖がついているのか、考える前に口からでてしまう。玉森家にいたときは、日に何度も謝っていたから。

(公爵夫人らしくならなくちゃ)
 つんけんはできなくても堂々としようと、心に誓う。
 ふと、フミが玉森の叔母の真似をしてツンと顎をあげたのを思い出した。
 フミの演技じみた顔を脳裏に浮かべ、クスッと心で笑い、俯いていた伽夜は顎を上げると、涼月と目が合った。

「コーヒーを飲んだら、少し散歩をしよう。今日は時間があるから」
 にっこりと微笑む彼の笑顔がうれしい。
「はい」
 誘われただけで途端に心が晴れてくる。
 そんな自分に戸惑いつつ、気づけばカップの中のミルクコーヒーを早々に飲み干していた。

「じゃあ、行こう」