◆四の巻
「お肉を食べるときはまだ勇気がいるわ」
クスッと伽夜が笑う。
「ええ、そうですね。私もハンバーグなら抵抗なくいただけるようになりましたが」
フミが「ありがたいです」としみじみと言う。
高遠家は使用人も、主人と同じものを食べる。もちろん毎回ではないし量や盛り付けは違うが、味やどういうものかは知っておいた方がいいという涼月の配慮だ。
「私もよ。ハンバーグは好きになったわ。ステーキを出されたときは目をつぶって食べたの」
くすくすと笑い合う。
ふたりとも玉森では肉を食べる機会がなかった。
叔父一家は贅沢をしていたが、使用人は麦飯とイワシの干物と味噌汁。イワシがないときは麦飯と味噌汁だけ。
伽夜も祖母が亡くなってからは同じだ。使用人と同じ食事をしていた。
高遠に来てからは毎日いろいろな料理が出てくる。
洋食も多く、オムライスやビーフシチュー。ビーフステーキやカレーライスは高遠家に来てから初めて食べた。
「伽夜様。すっかりお顔の色がよくなりましたね」
フミは伽夜の後ろから鏡を覗き込み、にっこりと微笑む。
「太ってしまったわ」
「もう少しお太りになってもいいくらいですよ?」
確かに今までは痩せ過ぎだと自覚はあった。お風呂で背中を流しますと言われたときは、骨ばった体が恥ずかしくて仕方がなかったから。
日を追う事に肌の血色がよくなり、頬もふっくらとしてきた。
それだけ幸せな日々を送っているのだと、おのずと頬が綻ぶ。
「お髪もとても艶やかですよ」
柘植の櫛でフミが髪を漉いている。
玉森では自分で髪を結っていたが、高遠に来て、髪結いを人にやってもらうようになってから、明らかに艶が増している。高価な椿油の効果もあるのだろうが、食が変わったのは大きい理由だろう。 髪だけでなく肌艶がいいし、体調もよく丈夫になってきた気がする。
「とっても気持ちいい。ありがとう、フミ」
「伽夜様、いいんですよ。これが普通なんですから」
「でも、フミ。ありがとうを言わないのなら、世の公爵夫人は褒められたらどう答えるの?」
フミは「なにも言わず当然というお顔をしているのですよ、こんなふうに」と澄ます。
顎を上げたその様子がおかしくて、くすくすと笑った。
「さあ、できました」
肩に乗せた白い手拭いとり、フミがあらためて伽夜に鏡を向ける。
今日の洋装は春らしい黄色のワンピース。
白い大きな襟とリボンが特徴的だ。
朝からしっかりとお化粧をして綺麗にする。
そのために最低でも朝食の一時間半前に起きる。以前は夜明けと同時に起きて仕事をしていたゆえにつらくはないはずだが、実はまだ少し眠い。
夕べ、付喪神と話し込んでしまったのだ。
屏風の付喪神とはよく話をする。
夕べも瓢箪のお酒を飲むと『美味しそうだねぇ』と話しかけてきた。
『あげられなくてごめんなさいね』
付喪神らが欲しがるのであげようとしてみたが、彼らの差し出す盃に瓢箪を傾けると一滴も出ないのである。
それならばと伽夜が盃に注いでから渡そうとしても、付喪神が触れる直前に酒が消えてしまうのだ。
というわけで、瓢箪の酒は分けてあげられないのだった。
『お前はまだ思い出さないのかい?』
『はい、今のところなにも』
屏風の付喪神は、伽夜と話すときは、屏風に描かれた牡丹の花を頭につけた女に化けて、話をする。
『その酒を飲んでいるんだから、思い出しそうなもんだけどね』
『なんとなく力が漲るような感覚はあるのだけれど……』
屏風は牡丹の花を揺らしながら、大袈裟な溜め息をつく。
『そんなんじゃ、涼月を守れないよ?』
『え? 涼月さんは危険な目に遭っているの?』
『そりゃそうさ、涼月の仕事は鬼退治なんだから』
高遠家は悪いあやかしを倒す陰陽師の一族だ。
『お前は――』
屏風の言葉を茶碗の付喪神が『はん』と鼻笑いで遮った。
『間抜けめ』
『間抜けとはなんだい!』
屏風と茶碗が言い争いを始め、『まあ、あれだ』と、箪笥が喋り始めた。
『あいつにはほかに 番 がいるんじゃろ』
つがい?……。
涼月は夕方一度帰って来て、仮眠をとり、また出掛けているらしい。
起きて、自室で夕食を軽く取ってから邸を出たようだ。
帰りは日付が変わってからのようだが、物音はほとんどしないので伽夜にはわからない。
付喪神にはわかっているらしい。
ときどき『ああ、鬼退治が帰ってきたわ』と言うが、夜更けに声をかけるのは憚れるので伽夜は部屋を出ずにいる。
「お肉を食べるときはまだ勇気がいるわ」
クスッと伽夜が笑う。
「ええ、そうですね。私もハンバーグなら抵抗なくいただけるようになりましたが」
フミが「ありがたいです」としみじみと言う。
高遠家は使用人も、主人と同じものを食べる。もちろん毎回ではないし量や盛り付けは違うが、味やどういうものかは知っておいた方がいいという涼月の配慮だ。
「私もよ。ハンバーグは好きになったわ。ステーキを出されたときは目をつぶって食べたの」
くすくすと笑い合う。
ふたりとも玉森では肉を食べる機会がなかった。
叔父一家は贅沢をしていたが、使用人は麦飯とイワシの干物と味噌汁。イワシがないときは麦飯と味噌汁だけ。
伽夜も祖母が亡くなってからは同じだ。使用人と同じ食事をしていた。
高遠に来てからは毎日いろいろな料理が出てくる。
洋食も多く、オムライスやビーフシチュー。ビーフステーキやカレーライスは高遠家に来てから初めて食べた。
「伽夜様。すっかりお顔の色がよくなりましたね」
フミは伽夜の後ろから鏡を覗き込み、にっこりと微笑む。
「太ってしまったわ」
「もう少しお太りになってもいいくらいですよ?」
確かに今までは痩せ過ぎだと自覚はあった。お風呂で背中を流しますと言われたときは、骨ばった体が恥ずかしくて仕方がなかったから。
日を追う事に肌の血色がよくなり、頬もふっくらとしてきた。
それだけ幸せな日々を送っているのだと、おのずと頬が綻ぶ。
「お髪もとても艶やかですよ」
柘植の櫛でフミが髪を漉いている。
玉森では自分で髪を結っていたが、高遠に来て、髪結いを人にやってもらうようになってから、明らかに艶が増している。高価な椿油の効果もあるのだろうが、食が変わったのは大きい理由だろう。 髪だけでなく肌艶がいいし、体調もよく丈夫になってきた気がする。
「とっても気持ちいい。ありがとう、フミ」
「伽夜様、いいんですよ。これが普通なんですから」
「でも、フミ。ありがとうを言わないのなら、世の公爵夫人は褒められたらどう答えるの?」
フミは「なにも言わず当然というお顔をしているのですよ、こんなふうに」と澄ます。
顎を上げたその様子がおかしくて、くすくすと笑った。
「さあ、できました」
肩に乗せた白い手拭いとり、フミがあらためて伽夜に鏡を向ける。
今日の洋装は春らしい黄色のワンピース。
白い大きな襟とリボンが特徴的だ。
朝からしっかりとお化粧をして綺麗にする。
そのために最低でも朝食の一時間半前に起きる。以前は夜明けと同時に起きて仕事をしていたゆえにつらくはないはずだが、実はまだ少し眠い。
夕べ、付喪神と話し込んでしまったのだ。
屏風の付喪神とはよく話をする。
夕べも瓢箪のお酒を飲むと『美味しそうだねぇ』と話しかけてきた。
『あげられなくてごめんなさいね』
付喪神らが欲しがるのであげようとしてみたが、彼らの差し出す盃に瓢箪を傾けると一滴も出ないのである。
それならばと伽夜が盃に注いでから渡そうとしても、付喪神が触れる直前に酒が消えてしまうのだ。
というわけで、瓢箪の酒は分けてあげられないのだった。
『お前はまだ思い出さないのかい?』
『はい、今のところなにも』
屏風の付喪神は、伽夜と話すときは、屏風に描かれた牡丹の花を頭につけた女に化けて、話をする。
『その酒を飲んでいるんだから、思い出しそうなもんだけどね』
『なんとなく力が漲るような感覚はあるのだけれど……』
屏風は牡丹の花を揺らしながら、大袈裟な溜め息をつく。
『そんなんじゃ、涼月を守れないよ?』
『え? 涼月さんは危険な目に遭っているの?』
『そりゃそうさ、涼月の仕事は鬼退治なんだから』
高遠家は悪いあやかしを倒す陰陽師の一族だ。
『お前は――』
屏風の言葉を茶碗の付喪神が『はん』と鼻笑いで遮った。
『間抜けめ』
『間抜けとはなんだい!』
屏風と茶碗が言い争いを始め、『まあ、あれだ』と、箪笥が喋り始めた。
『あいつにはほかに 番 がいるんじゃろ』
つがい?……。
涼月は夕方一度帰って来て、仮眠をとり、また出掛けているらしい。
起きて、自室で夕食を軽く取ってから邸を出たようだ。
帰りは日付が変わってからのようだが、物音はほとんどしないので伽夜にはわからない。
付喪神にはわかっているらしい。
ときどき『ああ、鬼退治が帰ってきたわ』と言うが、夜更けに声をかけるのは憚れるので伽夜は部屋を出ずにいる。