食卓につくと、間もなく涼月が現れた。

 立ち上がって迎えると「いいんだよ。座っていて」と言った涼月だったが、あらためて伽夜の全身ををしげしげと見つめ、にっこりと微笑む。
「ほぅ。君は衣装によってガラリと雰囲気が変わるね」
「あの……おかしくはありませんか?」

「とても綺麗だよ。よく似合っている」
 給仕に来ていてフミが視線で『よかったですね』と伝えてきて、伽夜は顔から火が出そうなほど照れた。

 料理が運ばれてくるとき以外は、ふたりきりになる。
 涼月が幾度となく伽夜を見つめてきて満足げに微笑むものだから、伽夜の胸は落ち着く暇もない。

「そうだ。これを」
 涼月が差し出したのは、フミの家から持ってきた瓢箪だった。それと美しいガラスの盃。
 瓢箪はひとまず涼月に預けたのである。
 瓢箪の栓を開け、傾けてトクトクと注ぐのはなんだろうと見ていると、かすかに琥珀色をした透明な液体だった。
「今日だけは私も飲んでみよう」
 涼月は自分の盃にも透明の液体を瓢箪から注いだ。
「酒だよ。飲んでごらん」

 口元に盃を近づけ「いい匂いだ」と香りを楽しんでいる。
 その様子を見た伽夜も盃を手に取った。
 祖母がフミの母に預けたとなると、五年以上前になる。手紙にはなんの説明もなかったが、もしかしたら伽夜の父や母と関係しているのかもしれないと、不安と期待で胸が高鳴る。
 白い着物は九尾の狐だと涼月が教えてくれたが、この瓢箪にはどんな意味があるのだろう。
 もし瓢箪が伽夜の母の遺品なら、十年前の物になるが……。
 盃を口に近づけると、甘くてとてもいい香りがした。
 まるで、そう。梅の花のような……。

 口につけて飲み込むと、甘くて芳醇な香りが口いっぱいに広がる。
 先に飲んだ食前酒も梅酒だったので少し甘かったが、ここまで魅惑的な甘い香りはしなかった。
 とっても美味しい。
 それになにやら胸の内が温まってくる。
 喉やお腹が温まるのはわかるが、不思議な感覚だ。
「梅酒?」
「そうみたいだね。とても甘い」
 苦いコーヒーが好きな涼月には甘すぎるようだが、伽夜にはちょうどよかった。
「なるほど」
 涼月が微笑みながらジッと伽夜を見ている。
 なにがなるほどなのか、首を傾げた。
「伽夜がその酒を口にすると、額の花が一瞬だけ浮かび上がる」
 ハッとして額を触ると、涼月はかぶりを振る。
「ほんの束の間だからもう、消えてしまったよ。食前酒ではそうはならないから、その瓢箪の酒を口にしたときだけのようだね」
 そもそも触ったところで痣はわからないが、すんなりと納得できた。
 飲んだときの感覚も、ほかの酒とは少し違うから。

「これから寝る前に、その盃で一杯飲むといい。〝君を守ってくれるだろうから〟」
「はい……」
 でも、瓢箪は大きくはない。盃とはいえあと二日も飲めば空になってしまうだろう。
 不思議に思っていると「その瓢箪の酒は自然と増えてくるんだ」と涼月が言った。
「増える……のですか?」
 瓢箪の中で酒が増えていくとはどういうことなのか。
 伽夜は瓢箪をまじまじと見るが、どう見ても普通の瓢箪だ。
「実はここに戻ってすぐ中身を一度出しておいたのだ。でもさっき手に取ると、また酒が入っていた」
 そして器に出しておいた酒は、いつの間にか消えていたという。
「ではこれは?」
「おそらくだが、君の母上が君のために遺したのではないか?」
(かかさまが……)
 瓢箪に見覚えはないが、胸の奥が温かくなるのはそのためか。
 伽夜は瓢箪を両手で包み込む。
 気のせいかもしれないが、心に穏やかな愛情が満ちていくような気がした。

 食事が終わると、涼月に誘われるまま二階に行った。
「今日は月が綺麗だから、見てみよう」
 階段を上がり、涼月は自分の部屋に伽夜を誘った。
 彼の部屋には初めて入る。
 東向きの窓が横に長く並び、迫り出した南に大きな窓があった。
 伽夜の部屋も十分広いが、彼の部屋はもっと広い。
 入ってすぐ正面は書斎のようだ。
 書棚と大きな机があり机にはたくさんの書類が積んである。
 南にある窓ガラスに囲まれた空間には、小さなテーブルとゆったりと寛げそうな椅子があった。
 背もたれが後ろに大きく下がっている。
「そこに座ってごらん」
 涼月は背もたれを戻してから勧めてくれた。
 椅子に腰を下ろしている間に、涼月はランプに火を入れ、部屋の電気を消す。
 暗くなった部屋で、彼は椅子の背もたれを倒し、窓を開けた。

「まあ、綺麗」
 丸い月がぽっかりと浮かんでいる。
 とても明るい月の光に誘われて、左手を伸ばした。
 掴めるわけはないのに、届きそうな気がして。
「伽夜」
 ふいにその手を、涼月の右手が絡めとった。
 覆い被さるようにして顔が近づいて――。
 重なる唇……。

 初めての経験だった。
 吸い取られるように、唇を啄まれているうちに、
 息が苦しくなって大きく息を吸うと、次の瞬間、涼月の舌が割って入ってくる。
 伽夜は、溶けてしまうと思った。
 彼が熱いのか、
 自分が熱いのか。

 涼月様……。
 自分の中に、こんなに熱い感情があるなんて、想像したこともなかった。
 幸せな結婚など、自分には無縁だと思っていたから。

「君は俺の妻だ」
 涼月が囁く。
(私はあなたの、妻……)
 心が震えた。
 かけがえのない幸せに包み込まれたように、温かい想いが全身に満ちてくる、

(私の、愛おしい旦那様)
 閉じた伽夜の瞼から、一筋の涙がこぼれ落ちた。