玄関前で車を下りると、キクヱが出迎えに出ていた。
「お帰りなさいませ」
 フミを紹介すると、キクヱは使用人用の住居へとフミを連れて行った。
 キクヱはときには厳しいが、それ以上に温かくて優しい。フミは真面目で働き者だから、だからきっとかわいがってもらえるだろう。
 そんなことを思いつつ、ふたりの背中を見送ると、伽夜は涼月を振り返り、深々と頭を下げた。

「本当にありがとうございます」
「いや、信頼がおける使用人を探すのもひと苦労だからね。むしろ助かった。黒木が守三の家に向かったよ」
 言われてみれば一緒にフミの家に行ったはずの黒木の姿はなかった。
 守三とは玉森家にいた使用人だ。
 ほかにも最近クビになった使用人がいないかとフミに涼月が聞き、フミが守三の名前を出したのである。
「守三まで召し抱えてくださるのですか?」
「ああ」
 守三も伽夜が玉森家を出てすぐクビになったらしい。
 理由は年齢だ。六十になり、つい先頃重い荷物を運ぶ途中怪我をした。力仕事のできない下男はいらないと追い出されたという。
「外仕事だが、馬の世話や力仕事以外にもいろいろあるからね。本人さえよければすぐにでも来てもらう。怪我は直しながら少しずつでも働けばいい」
 守三には体の弱い妻もいる。
 怪我をした上に仕事を無くし、どれほど不安に思っているか計り知れない。

「ありがとうございます。本当に、なんとお礼を」
「気にするな。探していたのはこちらだ。さあ、お茶にしよう。喉が渇いた」
「はい」
 すぐに台所に向かおうとすると止められた。
「こらこら、君は一緒にお茶をする側だよ」
「あ。――で、ですが」
 お礼にお茶くらい自分で入れて差し上げたいと思うが、伽夜の腰に手を回した涼月はクスッと笑う。
「門に到着した時点で、すでに準備ははじめている」
「それもそうですね……」
 肩を落とす伽夜に、涼月は「なにもしないのも公爵夫人の仕事のうちだと思ったらいい」と微笑みかけた。
「妻としてやらねばならないこともあるしね」
 腰に回された手も気になるし、夫人や妻という言葉がでてくるたびに、伽夜の胸はドキッと疼く。
「いろいろと、教えていただきたいです」
 気持ちを落ち着けながら、そう言うだけで精一杯だ。
 頷く涼月に促されるまま居間に向かう途中、女中とすれ違い「お帰りなさいませ」と声をかけられた。
 立ち止まって挨拶を返そうとすると、「ただいま」と軽く会釈をするだけでいいと、涼月にたしなめられる。
 謝ろうとして言葉が喉元まで出かかったが、ぐっと堪え、「はい」とだけ答えた。
 続けて「もう夕方だから、皆には明日の昼前にでもあらためて夫人として紹介しよう」と言われて、伽夜の背中に緊張が走る。
(ちゃんと挨拶できるだろうか)
 なにしろ実家では女中同然だった。公爵夫人としての振る舞いに慣れるのは、随分大変そうだと密かに溜め息をつく。
 これからは高遠家という名家の伯爵夫人なのだ。まったく自信がないが、遠慮するわけにもいかない。しっかりしなければ夫や高遠家に傷をつけてしまう。

 心細い思いで窓の外を見れば、西の空が赤く色づき始めていた。
 午前中、祝言を挙げたとは思えない。
 長い一日である。
 まるで夢でも見ているような気分のまま、伽夜は居間の椅子に腰を下ろす。

 間もなくコーヒーが届いた。
 コーヒーの苦みが苦手で最初の一杯は飲み切るのにとても苦労した。それでも涼月と同じものを飲んでみたいという気持ちが強く、紅茶ではなくコーヒーを頼む。
 いつか慣れるだろうと思っていたら、次の日にはキクヱが牛乳と砂糖を入れたコーヒーを出してくれた。
 聞けば涼月からの指示だという。
『お辛そうなので、次からはこうしてあげなさいと言われましてね』
 そんなに渋い顔をしていたのかと恥ずかしくなったが、おかげでこの甘いコーヒーが今はとても気に入っている。
 さっそく甘いコーヒーを飲みながらちらりと涼月を見れば、
 斜向かいの椅子に座っている彼は、右手でカップを持ち、新聞に目を落としていた。
 長い睫毛に、高い鼻梁。
 あらためて、本当に綺麗な人だと感心してしまう。
 すると、ふいに涼月が仮面を取った。

「あっ」
 思わず声が出てしまい、慌てて口を手で塞ぐ。
「結婚もしたからね。君には素顔を見せよう」
 予想を遙かに超える美しさだった。
 筆で流したように横に伸びる涼やかな目と、縁取る長い睫毛。額にもどこにも痣も火傷の傷もない。