◆三の巻

 フミは母の位牌のほかは僅かな着替えだけを持った。
 それだけなのか、とは伽夜は聞かない。
 伽夜自身も玉森家を出たときはほんのひと包みの荷物しか持たなかった。持っていこうとした着物があまりに粗末でみっともないからと、叔父に捨てられてしまったのだ。
 高遠家で高遠家に合うものを買ってもらえと言われたのである。
 そんなことを言えるはずもなく、惨めで恥ずかしかった。
 結果的には、なにも言わずともすべて買い揃えてもらったが、小さな包みしか持たない自分がどんなに悲しかったか。
 ふと思い出し、うつむいた伽夜は唇をきゅっと結ぶ。

「私まで乗せていただいて、本当によかったのでしょうか」
 客席は二つしかない。フミが車に乗った代わりに涼月は馬に乗った。
 馬を連れてきていたところをみると、最初からそのつもりだったらしい。

「心配ないわ。涼月様はとてもお優しい方なの」
 さりげない心遣いがありがたく、伽夜は結婚相手が涼月で本当によかったと心から思う。

「ねえフミ。私を見てなにか気づかない?」
「あ、そういえばお嬢様、額の痣が」
 伽夜はにっこりと微笑む。
「実はね、最初にお会いしたときに、涼月様に痣を見せたの」

 祖父母は額に咲く花と褒めてくれたが、叔父夫婦は違う。
 不気味だとか気持ちが悪いと散々言われてきた。みっともないから隠せと言われ、これまでずっと前髪で額を隠していた。

「涼月さんは少しも嫌な顔をせず『額の花か』と仰って。痣に指先をあてたの。そうしたら、不思議なことに、痣が消えてしまったのよ」
「なんと」

 フミが驚くのも無理がない。
 涼月に鏡を見せられた伽夜も、にわかに信じられなかったのだから。
「正確には消えてはいないの。涼月さんがおっしゃるには、〝私の中に潜めた〟って」
「高遠様に異能があるというのは、本当だったのですね」
 感心したようにフミはしみじみと言うが、伽夜は頭を振る。
「そうかもしれないし、違うかもしれないわ。そういうお話はしていないから」
 心得たとばかりにフミはこくりと頷く。
 異能に対する世間の目を慮ったのだろう。神妙に声を落とす。
「今後、そのお話には触れないようにいたします」

 それから伽夜は当初、妻ではなく女中として置かせてもらえないかと、涼月に頼んだ話をして聞かせた。
「まあ、お嬢様。女中だなんて。とんでもないことを」
「だって、帰されたら助田様のところに連れていかれるんだもの」
 フミは「あぁ……。そうでございました」と納得したように溜め息をつく。
「高遠様がお優しい方でようございましたね、お嬢様」
「ええ。本当にありがたいわ。使用人の方々も皆優しいのよ」
 今だって積もる話もあるだろうからと、涼月はなんの迷いもみせず車の席を譲ってくれたのだ。
 つくずくなんて優しい人なんだろうと感激しながら、伽夜は手を伸ばしてフミの手を握る。
「安心してね。私専属の女中を探していると言われて、そのときにフミが玉森家を辞めたらしいって涼月さんが教えてくださったの。――そういえば、なぜご存じだったのかしら」

 すっかり気が動転してしまって聞き忘れていたが、フミが玉森家を追い出されたのは、ほんの二日前だ。
 噂にしても早すぎる。
「私が追い出されたとき、お客様が来ていらしたんです。すれ違いにお顔だけは拝見しました。そのときはどなたかわかりませんでしたが、さきほどご挨拶をした執事様でした」
 なるほど、高遠家の執事黒木が玉森家を訪れていたのか。
「そうだったのね」
 気がかりな話はひと通り済み、ふたりともホッとして肩の力を抜く。
 これからは、離れていたのはたった十日ほどだが、フミの母の思い出などを語っているうちに、車は高遠家に到着した。

 車から降りたフミは邸を見上げて「本当に立派なお屋敷でございますね」と感嘆の声を上げる。
「木の温もりのある構えでいらっしゃって」
 玉森邸の壁はレンガだったが、高遠家は木と漆喰だ。
「お庭も素敵なの。隅々まで行き届いていて、美しい庭園なのよ」
 妻として迎えられたため時間はたっぷりとある。散歩がてら見て周り、お屋敷の中は大体把握できた。
 玉森家は使用人が減らされてから、目につくところしか掃除が行き届いていない。
 だが、ここは日陰の隙間すら綺麗である。