逃げるように車から降りた伽夜は中に入っていく。
「フミ!」

 車を降りた涼月はぐるりと辺りを見回した。
 見たところ、下町のごく一般的な長屋である。
 伽夜に遅れて中に入ると、小さな部屋なので土間の先から奥まで見えた。

 伽夜の向かいに女性がひとり。
 髪には後毛があり見るからに憔悴して見える彼女は、涼月に気づき慌てたように深く頭を下げる。
「フミと申します」
「高遠だ。母は亡くなったのか?」
 仏壇に真新しい位牌がある。
「はい」

 伽夜は手を合わせて泣いている。
 フミの母親も玉森家の女中をしていたというから、顔見知りなのだろう。
 フミは基本的に住み込みで働き、ときどき母親の様子を見に帰ってきたようだ。
 三日ほど前、近所の住人から急な知らせを受け、フミが駆けつけてたときには、すでに虫の息だったらしい。
 それでも手を握り励ますと、母親はフミの目を見てうなずき、短くはあったが会話も交わせたと言うから、いくらか慰められたのか。
 話すうち、フミが玉森家を出た経緯に、話が及んだ。

「葬儀が済み、落ち着いたら戻るつもりでいたのです。ですが、私がお邸を出たあと、奥様のお着物がなくなったと……」
「疑いをかけられたのか?」
 フミはうなずく。
「母の薬代に困っていたのは本当ですが、いくらか貯金がありました。私は盗んではいません。ですが信じていただけませんでした」
 伽夜は「ひどいわ!」と珍しく大きな声を上げた。
「フミがそんなことをするはずがないのに」
「お嬢様、ありがとうございます。ですが、奥様は本当に疑っているわけではないのだと思います」
「それはどういうことなの?」
 フミは力なく微笑む。
「奥様は私が気に入らないのです。今回の件がなくても理由をつけて辞めさせられたと思います」
「そんな……」
「いいんですよ、お嬢様。母が亡くなった今、無理にでも働く理由はありませんし、ゆっくりと仕事を探しますから」

 立ち上がったフミは壁側の箪笥から、風呂敷に包んだ物を取り出し、伽夜の前に置いた。
「お嬢様にお届けしようと思っておりました。母が最期に、大奥様の生前、お預かりものがあると申したのです」
 封筒にはフミの母の名前が書いてある。
 フミが差し出した手紙を、伽夜が開く。
「母は字が読めませんでしたので、遅くなり申し訳ありませんでした」
「そんな、いいのよ」
 伽夜は手紙を差し出し、涼月にも見せた。
 手紙には先代の公爵夫人の署名がある。
「間違いありません。おばあさまの字です」

【伽夜が高遠家に嫁に行きましたらこの包みを渡して欲しいのです】

 風呂敷を開けると、着物と 瓢箪 (ひょうたん)が入っていた。
 一見すると無地の白い着物に見えるが、差し込む光にあてると、キラキラと黄金に光った。
 不思議な衣である。
「まぁ……」
「なんて綺麗な衣なんでしょう」
 フミも伽夜も、輝く着物に目を丸くした。
 涼月だけはひとり冷静に着物を見つめ、フミを振り返る。

「ひとまず、フミ。日が暮れる前に、一旦荷物をまとめて我が家に来ないか?」
 驚くフミに伽夜が「高遠家で働いてほしいの」と、彼女の手を取った。
「よ、よろしいのでございますか?」
 言いながらフミの目には涙が溢れてくる。
「フミ、私のそばにいて」
「お嬢様……」
 伽夜とフミが抱き合うようにして喜び合う姿を微笑んで見つめながら、涼月はなるほどと納得していた。

 玉森家には、やはり異能を持つ者がいたのである。
 この着物は狐の物だ。
 とはいえそこらの狐のあやかしではない。
 高遠家には古くからの記録が残されている。

【白き布。黄金に光る。これ九尾の狐の遺しし物なり】

 この着物に違いない。
 九尾の狐は、黄金に輝く毛並みであったという。玉森家は九尾の狐の血を引くという噂は本当だったのだ。
 伽夜の母にどこまでの異能が現れていたかはわからないが、なにかあったはず。
 そしてもうひとつ。

 伽夜とフミが着物に見とれている間に、涼月は手を伸ばし瓢箪を取った。
 見たところ何事もない普通の瓢箪のようだが、ついている紐には七色に変わる不思議な石がついている。
 揺らすとチャプチャプと液体の音がした。
 栓を開けずとも涼月には心当たりがある。以前似たような瓢箪を見た。
 中身は酒だ。
 確かめる必要はあるが。予想通りなら――。

(伽夜の父は、鬼)
 飲めども飲めどもいくらでも酒が出てくる不思議な瓢箪。
 このような妖しげな瓢箪の持ち主はひとりしかいない。
 鬼の中で最強といわれている酒呑童子(しゅてんどうじ)だ。

【酒呑童子。尽きぬ酒の瓢箪を持つ】