本当は父親が誰かもわからない半端ものだというのに、彼は知らない。
額の痣は告白したが、出生の秘密は隠したままだ。
一年後、この家をでるときにすべてを話して謝ろうと思っているが、本来ならたとえ一年でも妻になる資格はない。
罪悪感に苛まれながら、最後の葛きりに箸を伸ばすと、甘いはずの黒蜜が苦く感じた。
「気づいたと思うが、我が家は人手が足りない。そこで君に頼みがあるんだが」
ハッとした。家事を手伝って欲しいと頼まれるに違いないと。
仕事がある方が気が楽である。思わず笑顔になる。
「はい、なんなりとおっしゃってください」
「誰か、君が信用できる者はいないか?」
思いがけない質問に伽夜は首を傾げた。
「信用できる人? えっと。使用人、ですか?」
涼月はうなずく。
「少なくともふたりほど欲しい。邸の中の仕事をする女中と、外の仕事をする下男」
予想外の頼みだった。
「えっと、私がお手伝いしますが」
「君の仕事は女主人という立場に慣れることだ」
しゅんとする伽夜に涼月は優しく声をかける。
「玉森家で君の身の回りの世話をしていた女中は? 一緒に来るかと思ったのだが」
あ、そうかと言っている意味がわかり、伽夜は瞳を揺らして伏せた。
公爵令嬢なら普通は専属の女中がいる。萌子にもいた。どの女中も長続きはしなかったが。
涼月は伽夜にも当然、女中がいたと思っているのだろう。
「わ、私は、変わり者でしたから……」
玉森家で虐げられていたとは言えない。
叔父にも叔母からも、余計なことを言うなと釘を刺されているし、もしそんな話が漏れ聞こえてきたときは、今いる使用人を全員クビにすると言い渡された。
さりとて上手く嘘をつける自信もなく、視線を落としたまま再び葛きりに手を伸ばす。
なにかを食べている間は返事をせずに済む。
「フミという女中はどうだった? 最近玉森家を辞めたらしいのだが」
フミと聞いて、伽夜は慌てて葛きりを飲み込んだ。
「ど、どうしてですか? フミはどうして」
「伽夜? 落ち着いて」
驚きのあまり腰を浮かせていた。
「あ、すみません」
落ち着いてはいられないが、腰を沈め、水をひと口飲む。
「フミはよい女中だったのか?」
「はい、もちろんです。私は姉のように彼女を慕っておりました。優しくて働き者で――。でも、なぜでしょう。フミは母親が病気だから働かなきゃいけないのに」
フミは女中の仕事が好きだと言っていた。
(自分から辞めるはずはないわ)
叔母にいわれのない折檻をされても『先代の奥様へのご恩がありますから』と無理をしてでも明るく笑った。
伽夜がこの家に来てすぐ、泥で汚れ洗った祖母の形見の着物を、乾かして届けてくるたのだ。
そのときもなにも言っていなかった。
『伽夜さま、お幸せそうで良かったです』
新しい着物を着て使用人に大事にされている様子に、フミは涙を流して喜んでくれた。
フミも他家で働いた方がいいと勧めたかったが、女中が他家の女中になる場合は、もとの家の主人からの紹介状か、もしくは問い合わせがある。叔父夫婦が快く書いてくれるとも思えず、伽夜はただ慰めるしかできなかった。
この十日あまりの間になにがあったのか。
伽夜は叔父夫婦に約束した通り、玉森家について悪い話は言っていない。娘ではないことも、女中のように働いていたことも秘密にしているのに。
それに今日、叔父夫婦の様子は変わりなかったと思う。
心配だ。フミの母になにかあったのだろうかと気を揉み、膝の上で手を握りしめる。
これからフミの家に様子見に行きたいと言ったらまずいだろうか。
思いあぐねて顔を上げると、涼月がにっこりと微笑む。
「うちに来てもらったらどうだろう?」
聞き違いかと思った。
「え? フミを、こちらの女中に、していただけるのですか?」
涼月は大きくうなずく。
「君がいい人だというなら安心だ」
「あ、ありがとうございます。フミはとてもいい女中です。一生懸命働いてくれます」
伽夜はたまらず涙を浮かべた。
額の痣は告白したが、出生の秘密は隠したままだ。
一年後、この家をでるときにすべてを話して謝ろうと思っているが、本来ならたとえ一年でも妻になる資格はない。
罪悪感に苛まれながら、最後の葛きりに箸を伸ばすと、甘いはずの黒蜜が苦く感じた。
「気づいたと思うが、我が家は人手が足りない。そこで君に頼みがあるんだが」
ハッとした。家事を手伝って欲しいと頼まれるに違いないと。
仕事がある方が気が楽である。思わず笑顔になる。
「はい、なんなりとおっしゃってください」
「誰か、君が信用できる者はいないか?」
思いがけない質問に伽夜は首を傾げた。
「信用できる人? えっと。使用人、ですか?」
涼月はうなずく。
「少なくともふたりほど欲しい。邸の中の仕事をする女中と、外の仕事をする下男」
予想外の頼みだった。
「えっと、私がお手伝いしますが」
「君の仕事は女主人という立場に慣れることだ」
しゅんとする伽夜に涼月は優しく声をかける。
「玉森家で君の身の回りの世話をしていた女中は? 一緒に来るかと思ったのだが」
あ、そうかと言っている意味がわかり、伽夜は瞳を揺らして伏せた。
公爵令嬢なら普通は専属の女中がいる。萌子にもいた。どの女中も長続きはしなかったが。
涼月は伽夜にも当然、女中がいたと思っているのだろう。
「わ、私は、変わり者でしたから……」
玉森家で虐げられていたとは言えない。
叔父にも叔母からも、余計なことを言うなと釘を刺されているし、もしそんな話が漏れ聞こえてきたときは、今いる使用人を全員クビにすると言い渡された。
さりとて上手く嘘をつける自信もなく、視線を落としたまま再び葛きりに手を伸ばす。
なにかを食べている間は返事をせずに済む。
「フミという女中はどうだった? 最近玉森家を辞めたらしいのだが」
フミと聞いて、伽夜は慌てて葛きりを飲み込んだ。
「ど、どうしてですか? フミはどうして」
「伽夜? 落ち着いて」
驚きのあまり腰を浮かせていた。
「あ、すみません」
落ち着いてはいられないが、腰を沈め、水をひと口飲む。
「フミはよい女中だったのか?」
「はい、もちろんです。私は姉のように彼女を慕っておりました。優しくて働き者で――。でも、なぜでしょう。フミは母親が病気だから働かなきゃいけないのに」
フミは女中の仕事が好きだと言っていた。
(自分から辞めるはずはないわ)
叔母にいわれのない折檻をされても『先代の奥様へのご恩がありますから』と無理をしてでも明るく笑った。
伽夜がこの家に来てすぐ、泥で汚れ洗った祖母の形見の着物を、乾かして届けてくるたのだ。
そのときもなにも言っていなかった。
『伽夜さま、お幸せそうで良かったです』
新しい着物を着て使用人に大事にされている様子に、フミは涙を流して喜んでくれた。
フミも他家で働いた方がいいと勧めたかったが、女中が他家の女中になる場合は、もとの家の主人からの紹介状か、もしくは問い合わせがある。叔父夫婦が快く書いてくれるとも思えず、伽夜はただ慰めるしかできなかった。
この十日あまりの間になにがあったのか。
伽夜は叔父夫婦に約束した通り、玉森家について悪い話は言っていない。娘ではないことも、女中のように働いていたことも秘密にしているのに。
それに今日、叔父夫婦の様子は変わりなかったと思う。
心配だ。フミの母になにかあったのだろうかと気を揉み、膝の上で手を握りしめる。
これからフミの家に様子見に行きたいと言ったらまずいだろうか。
思いあぐねて顔を上げると、涼月がにっこりと微笑む。
「うちに来てもらったらどうだろう?」
聞き違いかと思った。
「え? フミを、こちらの女中に、していただけるのですか?」
涼月は大きくうなずく。
「君がいい人だというなら安心だ」
「あ、ありがとうございます。フミはとてもいい女中です。一生懸命働いてくれます」
伽夜はたまらず涙を浮かべた。