顔を上げた彼が新聞を畳むと、キクヱがそれを受け取る。
「来たか」
「あの、もしかしてご一緒に?」
 時刻はすでに午後の二時。
「仏頂面を前にして、食べた気がしなかったからね」
 涼月は薄く笑みを浮かべる。
「食べながら、今日はゆっくり話をしよう」
「あ、はい」
 よかったと胸が弾む。もしかしたら今日も、もう顔を合わせないかと思っていたから。

 涼月も洋装に着替えていた。
 長い脚にはパンツがぴったりだし、袖がたっぷりとした白いシャツがよく似合っている。髪の色も明るく瞳の色が黒ではないせいか、海外も物語に出てくる王子様のようだ。
 緊張を胸に、背筋を伸ばして椅子に浅く腰を下ろすと間もなく、食事が運ばれてきた。
 おそらく気軽に食べられるようにとの配慮だろう。ひと口の大きさに整えられた卵焼きやお肉など、重箱の中に詰めてある。
「この数日はなにを?」
「はい。お裁縫をしたり、茶道のお稽古をして過ごしておりました」

 本当は自分の部屋の掃除など、身の回りだけでも自分でしたいと思っていた。
 でも、キクヱに止められ、これならばと渡されたのが裁縫だったのだ。裁縫と言っても刺繍である。できあがっていくにつれ楽しくて夢中になってしまう。
「裁縫は楽しいか?」
 思わずフッと笑ったのを見られたらしい。
「はい。とても楽しいです」
 伽夜は恥ずかしそうに頬を染める。

「あの……。ありがとうございます」
「ん?」
 呉服屋が来て着物をたくさん作り、本屋が来て本もたくさん買ってもらった。キクヱの話によれば、服も本も、最低でも十は買うように涼月から指示されたとか。
「着物も本も、たくさん買いました」
 ここ数日は、毎日訪れてくる様々な御用聞きを相手に、買い物に明け暮れるような日々だったのである。

「今後も定期的に買うといい。好きなものを好きなだけ」
 伽夜は目を丸くした。
(えっ、好きなだけ?)
「君は公爵夫人なんだ」
「あ、は、はい……」

「贅沢を覚えるのも仕事のうちだと思えばいい」
 わかりましたと答えたものの、伽夜からすれば、すでに贅沢な毎日だ。贅沢を覚えるにはなにをすればいいのか。
 唖然とする伽夜を尻目に、涼月は食事を始める。
 伽夜も考えるのをやめ、箸を進めることにした。
 鮑に鯛。赤い伊勢海老。いつも以上に、目を見張るほど豪華だ。せめて残さないで食べるのが自分にできるお礼だと思い、味わいながら飲み込んでいく。
 口の中には旨味が広がり、胸は幸福感でいっぱいになる。
(美味しい料理って、人を幸せにするのね)
 思わず頷いていると、クスッと笑う声がした。
 顔を上げると涼月が見ている。

「美味しそうに食べるね」
 火がついたように赤くなり、慌てて頬に手をあてた。
「と、とても美味しくて」
「それはよかった。料理人が喜ぶな」
「毎日が驚きです。本当に素晴らしいです」
 今は和食だが、シチューのような洋食のときもある。肉を食べる習慣がなかったので、恐る恐る食べたビーフシチューの美味しさは忘れられない。
 伽夜はもとから粗末な食事だったが、叔父たちもここまで豪華な食事はしていないだろう。
「たくさん食べるといい」
「はい。ありがとうございます」
 ありがとうは余計だと涼月が笑った。
「君はもう、この家の女主人だ」

 彼は仮初めの妻にも、女主人の権限を与えてくれるのだろうか。
 戸惑いながら、伽夜はあらためて礼を言った。
「白無垢。とても、うれしかったです」
 キクヱから高遠家に代々伝わる白無垢だと聞いた。
 形ばかりの花嫁なのに、大切な着物を着させてくれたのだ。
「当然だよ。高遠家の花嫁なんだから」
 申し訳なくて、瞼を伏せる。