「ごめんね、天音。お母さんが最初に逃げようって言ったのにね」
「ううん、私は大丈夫だから。だから…」
天音と呼ばれた少女は「大丈夫」の後に続く言葉が思いつかず、黙り込んでしまった。
「天音、大丈夫じゃない時に大丈夫なんて言ってはだめ。天音に寄り添って、救ってくれる人が絶対どこかにはいるはずだから」
彼女は膝に置いていた手をギュッと握りしめた。
その天音の手に彼女はそっと、その白くやせ細った手を被せた。
その温かさに、天音の目は潤んでしまい、母の知らない、今までのことを全て話してしまおうかと思った。
しかし口を開きかけたその時、
「面会時間は終わりです」
と、主任と書いてあるプラカードを下げたおばさんが言ってきた。
彼女は一瞬、悲しそうな、泣き出しそうな顔をしたと思えば、すぐにいつもの笑った、別れの時にむけてくれるその笑顔で「またきてね」と、いつものように天音の背中をポンポンしながら言った。
天音は、背中で感じた母の優しさにグッと涙をこらえて
「うん」
と、いつものように返した。
来た時は琥珀色だった空も、今は紺青に染まっている。
吐く息が白い。そして、すぐ消えていく。
「次来たときは、笑って、またくるねって言えますように」
中学二年生の冬、帰りのバスを待ちながら天音は星空にそう願った。
「せんぱぁぁぁぁい!!!!」
「お、今日はどうした?」
「暇なんですぅぅぅぅ、切実にぃぃぃ」
「仕事しろよ」
「嫌だぁぁぁぁ」
「なんでだよ、本業じゃねーか」
都市から少し離れたワンルームのアパートに『気持ちの宅配便』は居た。
一部屋に二人づつ、六部屋あるからこの世界に『気持ちの宅配便』は十二人しか存在しないことになる。
そのアパートの二階の一番奥の部屋に、その二人は居た。
「もう飽きましたよぉ、副業しましょうよ、副業!こんな名案がポッっと浮かぶなんて…やっぱオレって天才…?」
「安心しろ、天才じゃない。ユウリはどちらかというと馬鹿の部類に入るぞ」
「オレだって…オレだって、人間みたいに学校に通って、友達いっぱいつくって、コンビニ寄って買い食いとかしたぁぁぁいぃぃぃぃぃ」
ユウリと呼ばれた黒髪に白メッシュの青年は、同室の先輩の太ももに顔をうずめてそう言った。
「やめろ、キモチワルイ」
と言いながらユウリをはがそうとする先輩対負けじと食らいつくユウリの戦いが始まった。
その戦いはわずか三秒後、先輩からの愛(?)の肘打ちによって終わりが告げられた。
「で、次の仕事だけど」
先輩の切り替えの異常な速さに驚いたのは最初の数回だけで、今ではその通常スピードじゃないと熱があるのか心配してしまうところまで来ている。
末期だ。何のとは言わないが。
「嫌だぁぁぁぁぁ」
「落ち着け、今のお前にぴったりの仕事だから」
「ほんと?」
「ほんとだって。俺が嘘ついたことある?」
「オレの期間限定のキャラメルプリン食べたとき…」
「うんうん、他には?」
「ない…思いつかない…」
「だろ?」
「けど、オレまだ許してないっすからね」
「ごめんな…で、ターゲットがこの子」
今送ったぞ、と言われたのと同時にスマホがピロンと鳴った。
「え…これなんて読むの?」
「ん?」
ユウリが指したのはターゲットの名前・如月天音だった。
「名前はあまね…だと思う」
「え、じゃあ苗字は?」
「おんなぐちつき?」
「おんなぐちで一つの漢字じゃないの?」
「じゃあ、にょ?」
「にょづきあまね?」
「知らね。知らなくてもなんとかなるだろ」
「オレも思った!」
ユウリは立ち上がってポンチョみたいな『気持ちの宅配便』の制服を着た。
紺色に金の刺繍が入った制服をユウリも先輩もとても気に入っている。
「じゃ、行ってきます!」
「おう、頑張れよ。禁忌は犯すんじゃねーぞ」
「分かってますって!あ、そういうの、フライングって言うんですよ!」
「フラグ、な」
「まぁ、細かいことは気にせずに…行ってきまーす!!」
バンッと勢いよくドアが閉まったのを見届けた先輩は
「そういうところが心配になるんだって…」
と呟き、いつものように事務仕事に戻っていった。
如月天音。
高校一年生。バスで二十分ほどのところにある男女共学の高校に通っている。
美術部員らしいが、最近は活動していない。
年の離れた兄と二人暮らしをしているが、出張中らしく、一年ほど家を空けているそうだ。
両親はというと、母親は如月天音が中学二年生の時に自殺。
父親は母親の死後、新しい女をつくって出て行ったそうだ。
なかなか闇の深い家庭だな…とユウリはバスの一番奥の一番端っこの席で思っていた。
一番奥に限ったことではないがバスでは特に、一番端っこの席は途中下車するときに隣に人が座っていると、どうしてもその人の迷惑になるんじゃないか、と人間は考えてしまうらしい。
その点、『気持ちの宅配便』は楽だ。
人間と違って、体が透けてるし、ターゲット以外には認識されないようになってるし。
体が透けてるからと言って、死んだわけじゃないから幽霊でもない。
『気持ちの宅配便』は何にも分類されない、オレたちの固有名詞が『気持ちの宅配便』なのだ!
……こういうところが馬鹿って言われる原因なんだと自分でも思った。
そこは、ユウリたちのアパートに似た場所だった。
街から少し離れてひっそりした、あの感じ。
先輩が送ってくれた如月天音の家の住所はここであるはずだ。
ポストのところに平仮名で「きさらぎ」と書いてあった。
咳払いして、チャイムを押す。
「はい」
と、短く年頃の女にしては少し低めな、ハスキーボイス、というやつだろうか、そんなような声がした。
ドアからヒョコッとでたその顔は先輩が送ってくれた写真と少し違っていた。
写真の如月天音は腰ぐらいまであるロングヘアであったのに対し、今そこにいる如月天音の髪は顎ぐらいまでの長さになっている。
何かあったのだろうか。
反対に、艶やかな黒髪と無気力に見える顔つきは写真と変わっていなかった。
「こんにちはー、『気持ちの宅配便』でーす。何かお届けするものはございませんか?」
『気持ちの宅配便』のお決まりのセリフである。
特に意味はないが、オレがまだこの世に存在してなかったウン十年前からこの言葉が使われているらしい、と先輩が教えてくれた。
「…?」
「とりあえず、お邪魔しまーす!」
この行為はユウリの十八番だった。
「とりあえず家に入れ、話はそれからだ」
その言葉のあと、先輩は続けた。
「俺達は見えるけど触れられないからな」
先輩はユウリにそう教えた。
ちなみに、ユウリの先輩の先輩もこんな感じだったらしい。
多分、先輩の先輩もこんな感じで、オレも後輩ができたらこう教えると思う。
だから、あのアパートの角部屋の『気持ちの宅配便』はずっとこんなバカみたいなやり方で仕事をしていくんだと思う。
オレはこのやり方を気に入っているけど。
「不法侵入ですよ」
天音の声は怒っているように聞こえなかった。
このやり方をしたとき、だいたいのターゲットは怒る。
それはそうである、とユウリも分かっているが、仕事なので仕方ないと思っているところもある。
けど、今回はそれを気にする余裕がなかった。
部屋に入ってまず、質素な部屋だ、と思った。
失礼だということは分かっている。
しかし、年頃の女子高生はもっとキラキラしたキュルリ~ンって感じの部屋じゃないのか?
オレの知識が浅いだけなのか?
『気持ちの宅配便』はターゲットの情報収集を怠らない。
それが、ターゲットの〝願い〟に繋がることも少なからずあるからだ。
しかし、ユウリはこんなことで平静を崩すことはない。
もう何年も『気持ちの宅配便』をやっているからだ。
色々な現場に行って、もっと悲惨な場面に遭遇したこともある。
自然な間を置いて、天音にこう返した。
「『気持ちの宅配便』だから不法侵入にはならねーんだよ」
明るく、元気良く、答える。
明るいキャラは楽だ。
何かあっても、テキトーに明るくしとけば、誰にも心配されない、迷惑をかけない。
遠い昔にそう、先輩に教わった。
その時の仕事で先輩は禁忌を犯していた。
そのせいで先輩は、右頬に大きな傷を負っている。
もう、一生消えることのない傷。
誰が見ても禁忌を犯してしまったことが分かるような傷。
「『気持ちの宅配便』って何?」
「よくぞ聞いてくれました!」
先輩の実体験を交えた教えを胸に、ユウリは『気持ちの宅配便』について語りだした。
『気持ちの宅配便』は人間でも幽霊でもない。
人間と違うところは、体が透けていること。
幽霊と違うところは、死んでいないこと。
『気持ちの宅配便』は『気持ちの宅配便』として生を受けて、そして人間と同じぐらいの寿命で死んでいく。
『気持ちの宅配便』の仕事は【ターゲットの〝願い〟を届けること】だ。
〝願い〟は何だっていい。
ただし、叶えることはできないかもしれない。
それは〝願い〟によって左右されるからだ。
例えば「想い人と両想いになりたい、付き合いたい」なんて願われても、オレたちはその〝願い〟をその想い人って奴に届けることしかできない。
逆に「死んでしまった友達に感謝を伝えたい」とかはいいんだ。
だって『気持ちの宅配便』だから、届けることに関しては専門分野だ。
きっちり、天国だか地獄だかに行ってやる。
あと、〝願い〟には期限がある。
『気持ちの宅配便』はこの世界に存在する生き物に対して割合がとてもとても小さい。
一人だけに構ってられる時間は少ないんだ。
だから、一週間。今日から一週間で〝願い〟を見つけろ。
誰にだって何かしら〝願い〟はあるんだ。
一週間ある。ゆっくりでいい。オレも協力するから、だから、一緒に〝願い〟を見つけよう。
「私の願いなんて届けずに、他の人のところに行ったほうがいいと思うよ」
「何でだ?」
「願いなんてないから」
「そんなわけない!人間は誰にだって何かしらの〝願い〟はあるんだ」
「じゃあ私は人間じゃないのかもね」
そう言って立ち上がり、すぐそこにある台所で夜ご飯の調理を始めた。
部屋に一つしかない、小さな窓から指す光は琥珀色だった。
無表情で機械のように無駄一つない手慣れた動きに、少し見とれていた。
今回のターゲットはなかなか手ごわそうだ。
しかし、『気持ちの宅配便』は一つ強引に〝願い〟を聞き出す手段を持っている。
催眠だ。
右手の小指の爪が青く染まることが使用可能の合図である。
だいたい、期限の二日前ぐらいになったら現れる。
それを無視して、期限を過ぎてもターゲットに〝願い〟を聞き出さないことがいわゆる禁忌というやつである。
それを先輩はやってしまったそうだ。
ユウリはその催眠というやつを掛けたことがある。
心がただひたすらに苦しくなる。
〝願い〟を聞き出すんじゃなくて、ターゲットの心の深く底にある誰にも言えない、言わないことを吐き出させるのだ。
『気持ちの宅配便』はそれを聞いてその人の〝願い〟の最適解を見つけて、届ける。
本人の意思で願ったことでもないし、何より人の心の闇に直にわざと触れることはとても心苦しい。
そんな理由から、『気持ちの宅配便』は催眠を嫌い、どうにか自分のスキルで話させようとしている。
本人の口から、本人の意思で、本人の言葉で出てきた〝願い〟はとても美しい。
ユウリを含め『気持ちの宅配便』はそのたった一瞬の為に一週間、知らない誰かの為に一生懸命頑張るのだ。
だが、今回はどうやったら、聞き出せるんだろう…と、ユウリが考えてると、如月天音は折り畳み式のちゃぶ台の上にご飯を置いた。
黙って食べ始めた如月天音にいくつか質問をすることにした。
「なぁ、如月あ」
「私を苗字で呼ばないで」
ユウリが言い終わらないうちに、冷たく鋭い声でそう言ってきた。
さっきまでとは違う。
明らかに怒りの感情が入った、そしてそれを必死に隠しているかのような声色だった。
「ごめん、天音」
大人しく従った。
なんで怒ってるのか、なんで苗字で呼んじゃいけないのか、気になったが、聞かなかった。
聞いちゃいけない、と本能が言っているようだった。
「じゃあ、天音。好きなこととかあるか?」
「別に、特別好きなものがあるとかはない」
「けど、美術部に入ってるんだろう?」
「何で知ってるの」
「フッ…『気持ちの宅配便』は天音のことならだいたい分かるのだー!」
「わーすごいすごい」
「で、美術部に最近行ってないらしいじゃないか」
「別に…一年生はどこかの部活に強制入部だから楽そうなとこに入っただけ」
「いーや、違う。天音は絵が好きだから美術部に入ったんだ。だって天音の学校…」
「私が違うって言ってるんだから、どうでもいいでしょ、そんなこと」
私もう寝るから、と言って天音は押し入れから布団を持ってきて、部屋の電気を消した。
時計の短針はまだ七を指している。
「お、おい。早すぎじゃないか?」
「私いつもこのぐらいの時間に寝るの。起きててもやることないし、朝早く学校に行きたいし」
言い終わった後、人類最速ぐらいの速さで、天音は眠りについた。
先輩の切り替えの速さと同じくらいで、少し驚いている。
天音の家にテレビはなかった。
そのかわりだと思うが、小さなタンスの上にちょこんとラジオが置いてある。
その横の小さな本棚の上段には、天音の兄のものだろう、漢字が苦手なユウリには到底理解することができないであろう分厚い本が並べてあった。
下段には読み物がたくさん並べてあった。
二、三歳の子が読むであろう字の少ないハードカバーの絵本から、大人が読むような字が小さくて挿絵のついていない小説まであった。
絵だけでなく、本も好きなのか、と思うと同時にユウリは呟いた。
「…天音の好きな事って全部…」
絵を描くこと、本を読むこと。
その二つに共通するものは、「一人でもできること」だ。
「天音って、友達いるのか…?」
天音に直接聞いても埒が明かないことぐらい、今日話してて分かってる。
ユウリは明日、天音の学校に一緒についていくことを決めた。
「…となれば…必要なことはただ一つ、寝ることだ!」
そう決めた瞬間、天音と同じくらいのスピードで、ユウリは眠りについた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、あまねぇ」
ユウリがハッと目覚めたとき、天音は家を出る十秒前までくらい支度ができていた。
天音はユウリの言葉に耳を貸さず、スタスタと自分のペースで、家を出て行った。
ついでに鍵も閉められた。
しかし、ユウリは『気持ちの宅配便』。
体が透けているから、ドアをすり抜けることぐらい、お茶の子さいさいなのだ。
ユウリが家を出た時でも、天音はそう遠くまでには行ってなかった。
だから、すぐに追いついた。
天音の横に並んで、バス停まで歩く。
心なしか、天音のまだポヤポヤしているような気がする。
寝すぎも良くないのか…。
ユウリはまた一つ、新しい知識を得た。
「え、怖い怖い怖い」
朝、どの教室にも明かりがついていない校舎はとても不気味だった。
そんな怖いところに、表情を変えず、スタスタと歩いていく天音にも少し恐怖を感じた。
天音は下駄箱や階段など、自分の通ったところの電気を付けて行った。
こういう奴がいるから、他の奴らは明るい学校しか知らないのかもな、とユウリは天音の後ろでそんなことを思っていた。
教室は開いていて、天音は一番後ろの、窓から一つ離れた席に自分の鞄を掛けた。
そして、教室の窓を開けた。
秋が深くなってきた、この季節。
つまり、窓から吹いてくる風が冷たく、窓を開けたくなくなる季節だ。
それなのに、天音はためらいもせず、教室の窓を全て全開にし、教室の後方へと向かった。
天音が手にしたのは、ほうきだった。
「え、天音、それで何すんの?」
「見てわからない?」
天音は席と席の間を縫うようにして、掃除を始めた。
「えらいな、天音!」
「別に」
天音は相変わらず冷たい。
しかし、ユウリは天音の人間的な一面を見れたようで、少し嬉しくなっていた。
そんな天音を見ている人間がいたことに、ユウリはまだ気づけなかった。
「誰も来ないな」
掃除が終わって、天音が読書に取り掛かろうとしたとき、ユウリは言った。
「来ても誰とも話さないから、別にどうだっていい」
そう言って、自分の世界に入ろうとする天音を、ユウリは引き留めた。
「誰か話しかけてくれることはないのか?」
「ない。業務連絡は別だけど」
「何でか聞いてもいいか?」
最近の言葉で言う、地雷というものをユウリは恐れていた。
ただでさえ、『気持ちの宅配便』に前向きじゃなさそうな天音に嫌われることは何よりユウリ自身が嫌だった。
「私が悪いの」
蚊の鳴くような、とてもとても小さい声で、天音は言った。
「それってどういうことだ?」
「どうだっていいでしょ。第一、あなたには関係ない。…この話はもう終わり」
そして天音は読書の世界へと入っていった。
廊下から、楽しそうな複数人の女子の笑い声が聞こえていた。
天音の言う通り、授業が終わって休み時間になっても、昼食の時間になっても天音は誰とも会話というものをしていなかった。
ずっと、一人で読書している。
それが当たり前であるように。
まるでクラスに如月天音という存在が最初からいなかったかのように。
天音は一人でも平気なようだった。
一時間目から昼休みまでずっと天音に付きっきりでも有力な情報が得られない、とユウリは感じた。
だから、ユウリは一足先に天音の家に帰ることにした。
天音の〝願い〟を見つけるために。