そうしたら、結局「えなこちゃん」に決まった。そのほうが呼び慣れてるって笑った。少しだけ、そのえなこちゃんが羨ましくなった。
この人はずっと、その子に会いたかったのかなって。
私と勘違いしてるけど、ちゃんと否定したけど、でもいつか、本当のえなこちゃんじゃなかったって知ってしまったら、どんな顔するんだろう。
傷つくのかな。
それとも、やっぱり変なイントネーションで笑うのかな。
夜の匂いがする風の中で、男は言った。
「いりや」
「え?」
「俺の名前。祈るに夜で、祈夜」
祈夜──と、静かになぞってみた。
この人の名前。
私を待つ人の名前。
「……急だね」
「全然俺の名前、呼んでくれんからさ」
「知らな──」
そこまで言いかけて、やめた。
この人は私のことを「えなこちゃん」だと思っているのだから。
私が知らないわけはない。
「……うん」
名前を知って、なんだかこの人に近づけたような気がした。
ただ名前を明かされただけなのに。
それに、とてもピッタリだと思った。
祈る夜。
この人の名前。
「あのさ……」
「ん?」
「……私に会いに来たの?」
違う。本当は別のことが聞きたかった。
『なんで、あんたの顔、傷だらけなの?』
腫れた右頬はずいぶんと引いたみたいだけど、その上に新しい切り傷や青あざが増えている。その反対に、左は綺麗なのが不思議でアンバランスだった。
それに、と思う。
治療したような形跡が見えない。
傷を野ざらしにしているように見えるけど、放置してていいのって聞いてしまいそうになる。
だけど聞かなかった。
「なんでって、同じ理由やない?」
祈夜は笑って、それから呼吸するかのように当たり前な口調で、
「ホテル行こうか」
と続けた。
「……は?」
「待ち合わせ場所で出会っちゃったら、そりゃあ行くとこ決まってるでしょ」
「学生の分際でなに言ってんの」
「あ、やっぱり俺って学生でわかる? いくつに見える?」
見えるも何もいつも学生服だ。どこからどう見ても学生服だ。
「……高校生ぐらい」
「正解! 高三。えなこちゃんは?」
「高一」
「年下かぁ」
その言葉には、どんな感情も含まれていないように聞こえた。
年下だから嬉しいとか、見下すとか、そういう人間らしい本音がどこにもなくて、ただ言葉として発しただけのようだった。
「ほんなら、行こうか」
「本気なの?」
「うそやって」
頬を緩ませて、それからこう続けた。
「学生の分際だから好き放題言っても、責任なんか問われんやん」
歩道橋の上。ちょうど真ん中あたりで、祈夜は白い柵にもたれるようにして私を見た。
「だから言いたいこと言って生きてこうや」
「……生きられないよ、そんなんで」
「なんで?」
「別に……でも普通はそうなんじゃないの」
本音なんかいくらでも抱えてるようなものだけれど、それを全部言えないから悩んだりするものでしょ。そうやって自分を、人を、騙しながら生きてるような人がほとんどだから。
この人はずっと、その子に会いたかったのかなって。
私と勘違いしてるけど、ちゃんと否定したけど、でもいつか、本当のえなこちゃんじゃなかったって知ってしまったら、どんな顔するんだろう。
傷つくのかな。
それとも、やっぱり変なイントネーションで笑うのかな。
夜の匂いがする風の中で、男は言った。
「いりや」
「え?」
「俺の名前。祈るに夜で、祈夜」
祈夜──と、静かになぞってみた。
この人の名前。
私を待つ人の名前。
「……急だね」
「全然俺の名前、呼んでくれんからさ」
「知らな──」
そこまで言いかけて、やめた。
この人は私のことを「えなこちゃん」だと思っているのだから。
私が知らないわけはない。
「……うん」
名前を知って、なんだかこの人に近づけたような気がした。
ただ名前を明かされただけなのに。
それに、とてもピッタリだと思った。
祈る夜。
この人の名前。
「あのさ……」
「ん?」
「……私に会いに来たの?」
違う。本当は別のことが聞きたかった。
『なんで、あんたの顔、傷だらけなの?』
腫れた右頬はずいぶんと引いたみたいだけど、その上に新しい切り傷や青あざが増えている。その反対に、左は綺麗なのが不思議でアンバランスだった。
それに、と思う。
治療したような形跡が見えない。
傷を野ざらしにしているように見えるけど、放置してていいのって聞いてしまいそうになる。
だけど聞かなかった。
「なんでって、同じ理由やない?」
祈夜は笑って、それから呼吸するかのように当たり前な口調で、
「ホテル行こうか」
と続けた。
「……は?」
「待ち合わせ場所で出会っちゃったら、そりゃあ行くとこ決まってるでしょ」
「学生の分際でなに言ってんの」
「あ、やっぱり俺って学生でわかる? いくつに見える?」
見えるも何もいつも学生服だ。どこからどう見ても学生服だ。
「……高校生ぐらい」
「正解! 高三。えなこちゃんは?」
「高一」
「年下かぁ」
その言葉には、どんな感情も含まれていないように聞こえた。
年下だから嬉しいとか、見下すとか、そういう人間らしい本音がどこにもなくて、ただ言葉として発しただけのようだった。
「ほんなら、行こうか」
「本気なの?」
「うそやって」
頬を緩ませて、それからこう続けた。
「学生の分際だから好き放題言っても、責任なんか問われんやん」
歩道橋の上。ちょうど真ん中あたりで、祈夜は白い柵にもたれるようにして私を見た。
「だから言いたいこと言って生きてこうや」
「……生きられないよ、そんなんで」
「なんで?」
「別に……でも普通はそうなんじゃないの」
本音なんかいくらでも抱えてるようなものだけれど、それを全部言えないから悩んだりするものでしょ。そうやって自分を、人を、騙しながら生きてるような人がほとんどだから。