「……帰る」
「もう帰るんか。気を付けてな」
 ひらひらと手を振る男を横目に歩き出す。
「またな」
 会うことなんて、もうないと思うのに。
 どうして「またな」なんてこの人は言うんだろう。
 私が来なかったら、この人は毎日ここに来るんだろうか。
「……」
 何か言おうとして、けれども口を閉ざして階段を下りた。
 話すことなんてないけれど、不思議と後ろめたさを感じた。

『俺と付き合おうか』
 ハッとして目を覚ますと、目の前はいつもの暗い天井だった。
 ようやく眠れても、嫌な夢で目を覚ますことが多かったのに、今日は違った。
 心臓は早鐘を打つようにどくどくしていないし、汗もかいていない。
「……付き合うって」
 私なんかに告白してきたような人。
 罰ゲームなんだろうか。だとしたら納得するけれど、そうじゃないようにも思う。
 そう思いたいだけかもしれないけれど。
『私は本当にあの人と付き合ってないから』
 あの子の声が、涙声になって再生された。
 ああ、また嫌なことを思い出した。
 ……恋愛なんて、そういうのいい。
 前までは、少女漫画を読んだり、韓国ドラマを観てキュンキュンすることが好きだったのに、あのことがあってから、あえて遠ざけるようにした。
 現実は、あんな綺麗なものじゃない。
 最終回はバッドエンドしかない。
 わかっているのに、どうしてか何かを期待してしまっている。
 恋とか、彼氏とか、そんなものじゃなくて、もっと特別な何か。
「……そんなの、いないのに」
 今日も冷蔵庫にはあの弁当箱が入ってて、思わず手を伸ばしかけた。
 でもやっぱり、それを持つことはできなかった。
 
 その日の夜、私は家を出て、例の歩道橋に来てしまった。
 迷いながら、それでも着実に近づいている私を、あの人はすぐさま見つけてくれて、ぱっと笑った。
「待ってた」
 深く帽子を被った私を、顔が見えないのに、私だと判断してくれる。
 来てくれることを喜んでくれる人なんていない。
 もう会わないと思っていたのに、私は今日もここにいる。
 この場所を求めてというよりも、この人に会いに来た方が強いのかもしれない。
「ずっとさ、えなこちゃんのことなんて呼ぼうか考えてたんだけど」
 それは大袈裟ではなくて、本当にずっと考えていたんだろうなと思うような口調だった。
「えーちゃんがいい? えなちゃんがいい? にゃーちゃんがいい?」
「……最後の以外ならなんでも」
 そのどれもが、私の名前ではない。