ふと、生ぬるい風を縫うようにして聞こえたその声に振り返った。
「え……?」
 見えたのは、思いっきり右頬を腫れさせた男子学生と思わしき人物。知り合いでもなければ、初めて見るような顔だった。
「……だれ」
「やだなぁ、この橋の上で待ってますって言ったやん」
 力の抜けた顔に、ピクピクと力が入る。眉頭とか、左口角とか。
「人違いじゃないですか」
「またまた。俺が好みじゃないってこと?」
「いや……そういうことじゃなくて」
「その黒い帽子。送ってくれたのと一緒やろ? なら、えなこちゃんじゃんか」
 どっかのイントネーションが混ざった、へんな言葉。それ、どこの方言。というか、あんた誰。そういうのを投げかけるのが全てめんどうで、視界から消すように、また息を吐いて、闇に埋もれた世界だけを見る。
 遠くに佇むあのシルエットを見るだけで、胸がぎゅっと痛む。
 しばらくそうしていたけれど、男が去る気配がない。ずっといる気がして、仕方なく振り返ったら、にんまりと笑った顔でやっぱりそこに立っていた。
「……私、えなこじゃないですけど」
 だからさっさと帰ってよ。
 あんたのこと、私は知らないんだから。
「あ、やっぱり偽名やった?」
「は?」
「俺、ほんとうの名前で登録してんの。あ、下の名前だけやで」
「……聞いてないです」
 危なさそうなら早く逃げたほうがいい。
 逃げ道を考えながら、とりあえず変に刺激することだけはやめたほうがいいと思えた。
 夜を閉じ込めたような髪に、カッターシャツとスラックス。高校生なのか中学生なのか。でも高校生と言われればそうなような気もするし、逆もしかりなような風貌だった。
 こんな時間に制服……訳アリだろうか。
「そんなジロジロ舐めまわさんでも、ゆっくり見てくれたらいいよ」
「……変態」
「変態か、オールオッケ」
 ふざけてんのかな。
 オッケーって、なにがいいんだろう。
「うん、どこからどう見てもえなこちゃんだ」
「だから違います」
 変なのに絡まれて、どう対処したらいいか分からない。無視をしとけば去ってくれるんだろうか。
「この時間は肌寒いよなぁ。なんか肌ヒリヒリせん?」
「……」
「夜中でも意外と交通量あるんやな」
 返事をしなくても男は居座った。
 関係なくベラベラとしゃべって、まるで最初からそこにいたかのような空気感で私の隣に立つ。
「……待ってますって、マップリのことですか?」
「なになに、そういう設定にする? いいよ、好きなように始めよう」
 そういう設定ってなんだろう。マッチングアプリで女の子を探してたんじゃないのだろうか。