それが今、私の頬に貼られている。
 あれは、私に渡そうとしてくれていた証だったのだ。
 祈夜は、何度あの絆創膏に触れたのだろう。
 何度、私に声をかけようとしてくれたのだろう。
 嘘をついてでも、私に声をかけてくれたのは、生きててほしい、と願ってくれたから。
「さすがに、マップリで会ったっていう設定は無理ない?」
 私が言うと、祈夜は、うなずいた。
「めちゃめちゃある。俺を見る目がもうドン引いてたからな」
「引かない人いない気がする」
 でも、その一言で救われた自分がいるのもたしかだ。
 どんな言葉を投げかけられるよりも、ぜんぜん知らない名前を呼ばれて、会う約束をしてたって言われて、会えてよかった、と言われたほうがよっぽどいい。
 へんなイントネーションは、私を引き止めるための手段だったのか。
「そろそろ、ほんとの名前教えてよ」
 祈夜が言った。
 私も途中で気付いてたいた。「えなこちゃん」とはもう呼ばなくなっていたことを。
「気になるんだけど、えなこちゃんって名前、どこから出てきたの?」
「近くのホテルの受付スタッフがそういう名前らしい」
「最低」
「うそ、ばーちゃんの名前」
「なんか微妙な反応しかできないんだけど」
「それでいいよ」
 けらけらと、夜風に紛れて、祈夜の笑い声が聞こえた。
 ああ、そう笑うんだ。
 その音はとても居心地がよくて、目を閉じた。
「知世」
 すらりと、自分の口から出てきた自分の名前。
それを聞いて祈夜がどんな顔をしたのか分からない。
 でも、この夜に聞いたどの音よりも愛おしい声で、祈夜は私の名前をなぞって。
「そっちのほうがしっくりくる」
 そう言われて、無性に泣きたくなった。
 祈夜の顔が見たくて、帽子を軽くあげると、風が吹いた。
「わ」
 飛んでいく帽子。それを見事なタイミングでキャッチする祈夜の手。
「あっぶねぇ」
「ご、ごめん……ありがとう」
 ふと、強い光が飛び込んで目の前が眩んだ。
 あまりにも強い刺激に目が開けていられなかったのに、
「知世、すっげえ綺麗だよ」
 祈夜の声で、どうしてもその景色を見たくなって、ゆっくりと瞼を開いて、それから──
「……っ」
 強くて、けれども温かな朝日が、煌びやかに空を彩り、私たちを照らしていた。
 こんなにも眩しいものが毎日あったなんて、私は知らなかった。
「……ほんとだ」
 帽子を脱いだ世界、祈夜と見た夜から朝の景色を、私はきっと、一生忘れない。
 太陽を見ながら、私はお母さんのことを考えた。お兄ちゃんのことを考えた。それから祈夜のことを考えた。
 この世界で、もう一度生きていくために、みんなに伝えたいことがある。
 私は、自分が生きているこの世界のことを、まだ何も知らない。
「私も」
「ん?」
「祈夜には死なないでいてほしい」
 少なくとも今は、この隣にいる人のことをもっと知りたいと思う。
「死なないよ。知世がいてくれるなら」
 そう言った祈夜の顔も、きっと私は一生忘れないのだろう。