「お母さんは、知世の気持ちが一番だって思ってるから」
 それ以上、何も聞こえなかった。
 しばらくすると、階段をおりていく音が聞こえてくる。
 そのままベッドの上から動けなくて、涙がボロボロこぼれていった。
 ごめんなさい、こんな娘で。
 ごめんなさい、こんな妹で。
 家から何も音がしなくなってから部屋を出ると、廊下にはテニスボールが転がっていた。
 お兄ちゃんが投げたんだ。
 そっと拾う。硬くて、フサフサしたボールに触れて、また涙が出た。

「春夏秋冬で言ったらさ、今ってどっちだと思う?」
 その日の夜も、祈夜が私を待っていた。傷をまた増やして。
 やっぱり右ばかりを負傷してて、左は綺麗なまま。
 祈夜の質問に答える気力がなくて、黙ったまま道路を見つめる。
 歩道橋の下を通ろうとしている一台の車がハイビームを繰り返していた。前の車に苛立ちを見せつけているのか、それとも危険を促しているのか。どちらにしても、そこは私とは無関係の世界で、基本、そういうもので溢れてる。
「思うけど、秋よりの夏じゃない?」
 祈夜の声が、するんと耳の奥に入っていく。
 私が黙ってても、祈夜はしゃべることを止めなかった。
 今日はずっと泣いてばかりだったから、目元をいつも以上に隠しながら帽子を被っていたけれど、祈夜は気付いているかもしれない。
「あ、ごめん。今の話はつまらんかったか」
 不意に申し訳なさそうにするから、え、と変な焦りが募った。
 声が掠れながらも「そ、そうじゃない」と否定する。
「……なんて返したらいいかわからなかっただけで」
「あ、やっとしゃべった。人形になったんかと思ったわ」
 何があったかなんて、祈夜は聞いてこない。
 どんな顔をしてるか見えなくて、鎖骨あたりを見て、ただ首を振る。
「えなこちゃんは普段、どんな感じ?」
「どんな感じって?」
「んー、俺以外といるとき?」
 ハイビーム車は勢いよく車道を駆け抜けていった。結局どちらだったのかは不明のままで、知らないままいずれ忘れていくぐらい、人生においては些細なものだった。
「……別に。普通だよ」
「その普通が聞きたいんだよ。あ、俺はね、こんな感じ」
「そういう答え方でもいいなら、私もこんな感じ」
「じゃあさ、えなこちゃんの好きなもの教えて」
「好きなもの……」
 ここ最近は特に考えたこともなかった。