「……よかった。外、出られるようになったんだ」
春休み最初の土曜日のこと。外は快晴で暖かく、予定も何もなかった俺は、なんとなく、ある場所へ足を運んでいた。
まっすぐ辿り着いた先、そこには既に先客がいた。手向けられている花の前で手を合わせている見知った横顔に、でも、久しぶりに感じてしまう横顔に、俺は思わず声をかけていた、というよりも、呟くように本音を溢していた。
俺の視線の先には、私服姿の楪くんがいる。間違いなく、俺の好きな楪くんだった。
楪くんは俺の声を聞き取ったのか、ほんの僅か、肩を揺らして、パッと顔を上げた。目が、合う。瞬間、思い切り抱き締めたい衝動に駆られた。楪くんの目は、しっかりと俺を見て、しっかりと生きていた。生きようとしていた。
楪くんにとっては迷惑であろう衝動をなんとか抑え込み、俺は彼の隣で膝を折って屈んだ。ここは、朝陽さんと、彼と楪くんの母親が亡くなった場所だった。今でも献花する人はいるらしく、新しく綺麗な花がたくさん供えられていた。
そっと手を合わせて、瞼を閉じる。卒業式の日に亡くなった朝陽さんとの、嘘のような本当の出会いが、彼が残した多くの言葉が、感情が、脳裏を流れた。人生これからという時に、事故にあって亡くなったにも関わらず、悔しさも恨めしさも怒りも見せることのなかった朝陽さんは、最後まで弟の幸せを願っていた。最後まで笑っていた。強くて明るい人だと思った。弱さを見せないことが強いとは限らないが、俺は、確かに、朝陽さんのことを、そのような人だと思った。
俺に楪くんを任せてくれた朝陽さんは、安心して休めているだろうか。ぐっすり眠れているだろうか。側にいたら、またずっと、ぺちゃくちゃとどうでもいいことを喋り続けているかもしれない。休んで、寝て、と突っ込みたくなってしまったが、口を動かしている姿の方が想像に難くなくて。心配しなくても大丈夫そうだ、とゆっくり息を吐き出した。
目を開けて、何気なく隣を見ると、どことなく気まずそうな、慌てているような楪くんと、また、視線がぶつかった。落ち着きなくすぐに逸らされてしまうが、彼がその場から立ち去るような気配は感じられなかった。ひとまずは、近くにいることを許してもらえた、と前向きに判断することにする。
大丈夫だと朝陽さんからお墨付きをもらってはいるが、本人の口から聞くまでは油断ならなかった。俺は楪くんのことが好きだ。衝動的に伝えてしまったところもあったが、後日冷静になって考えてみても、彼のことが好きであることに間違いはなかった。
「……日比谷、くん。あの、ごめんね、ありがとう」
兄弟であっても、朝陽さんとは少し違う声で、舌で、喋り方で、名前を呼ばれ、突然謝罪された。突然感謝された。それが告白の返事だろうかと天を仰ぎたくなってしまったが、続けられた言葉が、そうではないことを教えてくれた。
「僕、結局、学校、行けなかった。日比谷くんのおかげで、なんだか少し、息がしやすくなったのに……。大事にしていた気持ちも、思い出したのに……」
なんでかな、って考えたら、いつも頭に浮かぶのは日比谷くんで。僕は、日比谷くんのことが好きなのに、その好きな人から告白されたのに、あ、いや、告白されたから、緊張して、お母さんやお兄ちゃんのことで、周りに迷惑かけて引きこもって、死んだように息をしていたのに、それが嘘だったみたいに、嘘じゃないのに嘘だったみたいに、日比谷くんに対する緊張と困惑の方が大きくて、あれこれ考えてたら、学校終わってたし、少しずつ外にも出られるようになって、偶然で日比谷くんに会えないかなって、会ったって上手く話せないくせにそう期待して、したら、なんか、日比谷くん来て、本当に会っちゃって、今、僕、頭ぐるぐる回ってて、ごめん、あの、パニックで、めちゃくちゃなこと、言ってるよね。ごめん。
喋れば喋るほど纏まらなくなってしまったのか、さらりと、多分無意識で俺のことを好きだと言った楪くんは、顔を赤くさせながらも必死に俺に伝えようとしてくれた。大人しい楪くんが、パニックになっているにしてもこんなに喋るとは思わず、じっと彼を凝視してしまう。声量や感情は違えど、この口の動きは朝陽さんに通ずるものがあった。二人はあまり似ていないと密かに思っていたが、まさか、一番あり得ないと思っていた言葉数が似ているとは。
狼狽えている楪くんは、自分の放った台詞をまだ理解していないのか、瞳を忙しなく震わせており、目に見えて酷く混乱していた。俺の告白で楪くんを暗闇から救い出せたのはよかったが、そのせいで、今度はあれこれと考えさせ、パニックに陥らせてしまったことに、多少なりとも責任を感じてしまう。
どうにかして楪くんを落ち着かせようとしたが、予想に反して、意表を突くように、流れるように好きだと言われてしまったがために、実際問題、俺もあまり冷静ではなく、吐き出す文字を探しているうちによく分からない沈黙が広がってしまった。外面は至って冷静なふりをしているが、内面は混沌としていた。心臓が暴れている。
「……あの、日比谷くん。僕、さっき、日比谷くんのこと……、好き……、って、言った……?」
遅れて自分の好き発言に気づいた楪くんは、赤面したまま俺に顔を向け、確認するように訊ねてきた。頷いたらもっと混乱してしまうだろうかと思いつつも、だからといって、嘘を吐くのも違うような気がして。悩んだ末、俺は、言った、と短い単語を口にしながら頷いてみせた。俺も好き、と後ろにそっと付け加えて。
緊張のせいか混乱のせいか、顔を歪めて泣きそうになる楪くんに、頭ぐるぐるさせてごめん、と彼の言葉を拝借して謝れば、ほんとだよ、こんなつもりじゃなかったのに、と冗談っぽく言って、初めて俺に向かって小さく笑ってくれた。泣き笑いだったが、確かに笑みを見せてくれた。優しくて、柔らかい笑顔だった。春の、今の季節に、よく似合っている笑顔だった。
「ハル……、って、呼びたい」
惚けたままに口にした、でも、俺の本心である呟きを耳にした楪くんは、驚いたように目を見開いたが、すぐに、寂しそうに、でも、懐かしむように表情を緩めた。聞き馴染みがあるのだろう。朝陽さんが、楪くんのことをそう呼んでいたから。それが俺は、羨ましかった。
この呼び名は、亡くなった兄のことを思い出す引き金となったり、無闇に悲しみを煽ったりする可能性があるため、楪くんが兄以外にその名で呼ばれるのを嫌がる場合には、いくら羨ましくても、当然、呼ぶつもりはなかった。でももし、いいというのなら、俺は楪くんを、親しみを込めてハルと呼びたい。呼ばせてほしい。
「……お兄ちゃんがよく、僕のことをハルって呼んでた。僕も凄く気に入ってるから、たくさん呼んでほしい」
ハル呼び増えるの嬉しいし、それが日比谷くんなら尚更嬉しい。僕にハルっていうあだ名を命名してくれたお兄ちゃん、あっちで元気にしてるかな。お母さんもいつも通り、笑ってくれてるかな。僕はまだまだ、たくさん泣きそうだよ。
涙を堪えながらも、明るく振る舞う楪くんから許可がおり、ハルと呼べるようになった俺は、赤らんで少し濡れている彼の目元に手を伸ばし、指の甲で涙を拭った。大丈夫、きっと二人とも、元気にしている。朝陽さんについては、そうだと断言できる。だから、大丈夫。
「ハル、聞いて。俺は、ハルの逃げ道になりたい」
涙を拭った手で楪くん、ハルの頬に触れた俺は、彼をまっすぐに見つめて、気持ちをぶつけた。ハルは、以前綺麗だと褒めてくれた俺の手に自分の手を重ね、照れくさそうに、嬉しそうに、涙を零しながらであっても、自然に、微笑んでくれたのだった。
春休み最初の土曜日のこと。外は快晴で暖かく、予定も何もなかった俺は、なんとなく、ある場所へ足を運んでいた。
まっすぐ辿り着いた先、そこには既に先客がいた。手向けられている花の前で手を合わせている見知った横顔に、でも、久しぶりに感じてしまう横顔に、俺は思わず声をかけていた、というよりも、呟くように本音を溢していた。
俺の視線の先には、私服姿の楪くんがいる。間違いなく、俺の好きな楪くんだった。
楪くんは俺の声を聞き取ったのか、ほんの僅か、肩を揺らして、パッと顔を上げた。目が、合う。瞬間、思い切り抱き締めたい衝動に駆られた。楪くんの目は、しっかりと俺を見て、しっかりと生きていた。生きようとしていた。
楪くんにとっては迷惑であろう衝動をなんとか抑え込み、俺は彼の隣で膝を折って屈んだ。ここは、朝陽さんと、彼と楪くんの母親が亡くなった場所だった。今でも献花する人はいるらしく、新しく綺麗な花がたくさん供えられていた。
そっと手を合わせて、瞼を閉じる。卒業式の日に亡くなった朝陽さんとの、嘘のような本当の出会いが、彼が残した多くの言葉が、感情が、脳裏を流れた。人生これからという時に、事故にあって亡くなったにも関わらず、悔しさも恨めしさも怒りも見せることのなかった朝陽さんは、最後まで弟の幸せを願っていた。最後まで笑っていた。強くて明るい人だと思った。弱さを見せないことが強いとは限らないが、俺は、確かに、朝陽さんのことを、そのような人だと思った。
俺に楪くんを任せてくれた朝陽さんは、安心して休めているだろうか。ぐっすり眠れているだろうか。側にいたら、またずっと、ぺちゃくちゃとどうでもいいことを喋り続けているかもしれない。休んで、寝て、と突っ込みたくなってしまったが、口を動かしている姿の方が想像に難くなくて。心配しなくても大丈夫そうだ、とゆっくり息を吐き出した。
目を開けて、何気なく隣を見ると、どことなく気まずそうな、慌てているような楪くんと、また、視線がぶつかった。落ち着きなくすぐに逸らされてしまうが、彼がその場から立ち去るような気配は感じられなかった。ひとまずは、近くにいることを許してもらえた、と前向きに判断することにする。
大丈夫だと朝陽さんからお墨付きをもらってはいるが、本人の口から聞くまでは油断ならなかった。俺は楪くんのことが好きだ。衝動的に伝えてしまったところもあったが、後日冷静になって考えてみても、彼のことが好きであることに間違いはなかった。
「……日比谷、くん。あの、ごめんね、ありがとう」
兄弟であっても、朝陽さんとは少し違う声で、舌で、喋り方で、名前を呼ばれ、突然謝罪された。突然感謝された。それが告白の返事だろうかと天を仰ぎたくなってしまったが、続けられた言葉が、そうではないことを教えてくれた。
「僕、結局、学校、行けなかった。日比谷くんのおかげで、なんだか少し、息がしやすくなったのに……。大事にしていた気持ちも、思い出したのに……」
なんでかな、って考えたら、いつも頭に浮かぶのは日比谷くんで。僕は、日比谷くんのことが好きなのに、その好きな人から告白されたのに、あ、いや、告白されたから、緊張して、お母さんやお兄ちゃんのことで、周りに迷惑かけて引きこもって、死んだように息をしていたのに、それが嘘だったみたいに、嘘じゃないのに嘘だったみたいに、日比谷くんに対する緊張と困惑の方が大きくて、あれこれ考えてたら、学校終わってたし、少しずつ外にも出られるようになって、偶然で日比谷くんに会えないかなって、会ったって上手く話せないくせにそう期待して、したら、なんか、日比谷くん来て、本当に会っちゃって、今、僕、頭ぐるぐる回ってて、ごめん、あの、パニックで、めちゃくちゃなこと、言ってるよね。ごめん。
喋れば喋るほど纏まらなくなってしまったのか、さらりと、多分無意識で俺のことを好きだと言った楪くんは、顔を赤くさせながらも必死に俺に伝えようとしてくれた。大人しい楪くんが、パニックになっているにしてもこんなに喋るとは思わず、じっと彼を凝視してしまう。声量や感情は違えど、この口の動きは朝陽さんに通ずるものがあった。二人はあまり似ていないと密かに思っていたが、まさか、一番あり得ないと思っていた言葉数が似ているとは。
狼狽えている楪くんは、自分の放った台詞をまだ理解していないのか、瞳を忙しなく震わせており、目に見えて酷く混乱していた。俺の告白で楪くんを暗闇から救い出せたのはよかったが、そのせいで、今度はあれこれと考えさせ、パニックに陥らせてしまったことに、多少なりとも責任を感じてしまう。
どうにかして楪くんを落ち着かせようとしたが、予想に反して、意表を突くように、流れるように好きだと言われてしまったがために、実際問題、俺もあまり冷静ではなく、吐き出す文字を探しているうちによく分からない沈黙が広がってしまった。外面は至って冷静なふりをしているが、内面は混沌としていた。心臓が暴れている。
「……あの、日比谷くん。僕、さっき、日比谷くんのこと……、好き……、って、言った……?」
遅れて自分の好き発言に気づいた楪くんは、赤面したまま俺に顔を向け、確認するように訊ねてきた。頷いたらもっと混乱してしまうだろうかと思いつつも、だからといって、嘘を吐くのも違うような気がして。悩んだ末、俺は、言った、と短い単語を口にしながら頷いてみせた。俺も好き、と後ろにそっと付け加えて。
緊張のせいか混乱のせいか、顔を歪めて泣きそうになる楪くんに、頭ぐるぐるさせてごめん、と彼の言葉を拝借して謝れば、ほんとだよ、こんなつもりじゃなかったのに、と冗談っぽく言って、初めて俺に向かって小さく笑ってくれた。泣き笑いだったが、確かに笑みを見せてくれた。優しくて、柔らかい笑顔だった。春の、今の季節に、よく似合っている笑顔だった。
「ハル……、って、呼びたい」
惚けたままに口にした、でも、俺の本心である呟きを耳にした楪くんは、驚いたように目を見開いたが、すぐに、寂しそうに、でも、懐かしむように表情を緩めた。聞き馴染みがあるのだろう。朝陽さんが、楪くんのことをそう呼んでいたから。それが俺は、羨ましかった。
この呼び名は、亡くなった兄のことを思い出す引き金となったり、無闇に悲しみを煽ったりする可能性があるため、楪くんが兄以外にその名で呼ばれるのを嫌がる場合には、いくら羨ましくても、当然、呼ぶつもりはなかった。でももし、いいというのなら、俺は楪くんを、親しみを込めてハルと呼びたい。呼ばせてほしい。
「……お兄ちゃんがよく、僕のことをハルって呼んでた。僕も凄く気に入ってるから、たくさん呼んでほしい」
ハル呼び増えるの嬉しいし、それが日比谷くんなら尚更嬉しい。僕にハルっていうあだ名を命名してくれたお兄ちゃん、あっちで元気にしてるかな。お母さんもいつも通り、笑ってくれてるかな。僕はまだまだ、たくさん泣きそうだよ。
涙を堪えながらも、明るく振る舞う楪くんから許可がおり、ハルと呼べるようになった俺は、赤らんで少し濡れている彼の目元に手を伸ばし、指の甲で涙を拭った。大丈夫、きっと二人とも、元気にしている。朝陽さんについては、そうだと断言できる。だから、大丈夫。
「ハル、聞いて。俺は、ハルの逃げ道になりたい」
涙を拭った手で楪くん、ハルの頬に触れた俺は、彼をまっすぐに見つめて、気持ちをぶつけた。ハルは、以前綺麗だと褒めてくれた俺の手に自分の手を重ね、照れくさそうに、嬉しそうに、涙を零しながらであっても、自然に、微笑んでくれたのだった。