「突然押しかけてすみません。自分は、楪くん……、春陽くんの、クラスメートの日比谷と言います。春陽くんはいらっしゃいますか」
 朝陽さんに住所を教えてもらい、勢い立ったままに訪れた、楪くんの家の玄関前。インターホンを押し、徐に顔を出した年老いた女性に、自分が何者であるかを述べ、楪くんがいるかいないかを伺うと、その女性は困ったように眉尻を下げた。前向きな返答は得られないだろうか。
 どう対応するべきか悩んでいる様子の女性を、急かすことはせず、返事が来るまで口を閉ざして見つめる。楪くんがいることは朝陽さんから知らされているが、礼儀として訊ねた方がいいだろうと思い、自己判断で、まずは楪くんがいるかどうかの確認をした俺は、春陽くん、という初めて口にする名前に、人知れず身体を熱くさせていた。朝陽さんがいたら、笑われているかもしれない。でも朝陽さんは、人の色恋の邪魔をするほど野暮じゃないよ、と歩いてどこかへ向かって行ったため、俺の側にはいなかった。
「ひびやくんといったね」
「はい」
「せっかく来てくれたのに、ごめんね。春陽ね、いるにはいるんだけど……」
 眉は下がったまま、時折二階を気にするように、視線の先にある階段を見る女性は、嫌な顔はせずに答えてはくれたものの、歯切れが悪かった。楪くんは今も尚、部屋にこもってしまっているのだろう。
 家族の励ましがあっても立ち直れずにいるのなら、俺が何かしてもたかが知れている気がした。寧ろ逆効果だったり、止めを刺したりしないだろうか。
 女性の途方に暮れたような表情に、人知れず、今更、不安を覚えてしまったが、ここまで来ておいて、やっぱり何でもないです、と引き下がることなどできるはずもなかった。
「……ご迷惑でなければ、春陽くんと、話をさせてもらえないでしょうか」
 本当は、会わせてくれないかとお願いするつもりだったが、姿を見ることはやはり難しいだろうと、女性の顔色や挙動を見て判断し、咄嗟に言い方を変えた。話ならさせてもらえるかもしれない。返事はなくても俺の言葉を聞いてくれるかもしれない。
 心に届く届かないは、この際、気にする事項ではなくて、無論、届けば願ったり叶ったりだが、一番は、俺の気持ちを楪くんが聞いてくれるかどうか、だった。楪くんに本音を投げつけることができれば、俺はそれで満足だ。自分勝手だと言われようとも、思いを告白することが、俺が楪くんの前に垂らせるきっかけの糸だった。
 女性は、俺の突然のお願いに僅かながら唸って、しばし考えた後、縋るようにこくこくと首を縦に振った。他人に頼ってでも、塞ぎ込んだ自分の孫の心をどうにか解したいのかもしれない。俺にその大役が務まるとは思えないが、ゆっくりとでも進む機会を与えられたら十分及第点だと思うことにして、俺は、俺の好きな楪くんの元へ、一歩、近づいた。
「お話ししてあげて。クラスメートのひびやくんが来たって知ったら、春陽も顔を見せてくれるかもしれないから」
 家族の言葉は抜けていったとしても、ひびやくんの言葉なら、受け入れられるかもしれないね。そうであってほしいというような、少しの期待を俺に抱くような台詞に、眼差しに、はいともいいえとも言えず、沈黙してしまった。意図せず無視をしているような態度になってしまったが、女性は気に留めることもなく、どうぞ、入って、と玄関の扉を大きく開けて、俺に入るよう促した。
 ありがとうございます、お邪魔します、と短く言い、遠慮の塊のようにちまちまとした動作で楪家に足を踏み入れる。玄関前にいた時よりも、中に入った時の方が、当然と言えば当然だが、楪くんの家だという意識が専ら強くなり、体に余計な力が入った。強張った。
 ゆっくりと前を歩く女性は、階段を上り始めた。やはり楪くんは二階にいるらしい。緊張感が増していく。落ち着いて話せるだろうか。無遠慮に、こんな突撃まがいのことをして、嫌われてしまわないだろうか。不安は尽きなかった。
 他人の家の中をあまりじろじろ見ないよう俯きがちに歩きながら、若干腰の曲がった女性の後をついていく。一瞥して見た小さな背中は、どことなく寂寥感を覚えさせた。不安定で、疲弊しているような。そんな、物憂げな背中。何の前触れもなく、孫と、それから、女性にとっては血の繋がった子供に値するかもしれない娘を、二人同時に亡くしたのだ。意図せず暗くなってしまうのも無理はなかった。家族を喪った楪家全体が、これもまた、そうなってしまうのも無理はなかった。
「この部屋の中に、春陽はいるよ」
 春陽、ひびやくんっていう子が来てくれたよ。ノックをして、女性がそう声をかけるが、しばらく待ってみても応答はなかった。女性がドアノブを捻って押し引いても開かない。人が動く気配すら感じられない。朝陽さんの言っていた無気力の意味を、いきなり眼前に突きつけられた気がした。
 女性は残念そうに、申し訳なさそうに振り返り、ごめんね、となぜか瞳を熱くさせて謝ってきた。今にも感情を落としそうになる女性を見ても気の利いた言葉一つ浮かばず、大丈夫です、と何が大丈夫なのか自分でも分からないままに、俺はそう告げることしかできなかった。
 まだ癒えない心の傷が、ふとした時に痛み、どうしようもなく泣きたくなってくる時があるのかもしれない。女性にとってそれが、今なのだろう。
 会話をなかなか続けられずにいる俺は、お話ししてあげて、と俺を招き入れる時と同じ言葉を放ち、肩を震わせ目元を拭いながら立ち去る女性の、感情の捌け口にすらなれなかった。朝陽さんのような人なら、我慢させることなく吐かせることができたのだろうか。小さく遠くなっていく背中を見ながら、俺は亡き人と自分を比べて。生きているのに何の役にも、誰の役にも立っていない自分を恨んだ。
 気分が重くなる。悩んでもすぐには解決しない自分の短所を、ひとまず脳内から追い払おうと息を吐き、暗くなり始める気持ちを切り替えた。俺は何をしにここへ来たのか。楪くんに気持ちを伝えるためだ。自問自答して、俺は部屋の扉の前に立つ。この反対側、向こう側に、楪くんはいる。三回、扉をノックをした。
「楪くん、いきなり押しかけてごめん。どうしても、伝えたいことがあって。ほんの少しだけ、俺に耳を貸してほしい」
 中からの反応は、なかった。聞いてくれるかどうかも、分からなかった。それでも俺は、言わなければ聞こえるものも聞こえないと思い、構わずに続けた。躊躇わずに続けた。言い淀むのは、自分らしくないと思った。サッと告げて、サッと帰る。その後の事の成り行きは、楪くんに委ねる。
 励ましも慰めも、俺はしないつもりだった。散々されているだろうと踏んで。するつもりはなかった。俺は楪くんみたいに、優しくない。優しくなりたいと思っても、俺はそうはなれない。だからこそ、楪くんに惹かれていったのだと、今は思う。そう思う。自分にはないものを持っているから。
 きっと、俺も、楪くんに、憧れを抱いていた。そしてそれが、人を想う恋に変わっていった。言葉に乗せることで、もっと確かなものに変わるのであれば、そうしようと思った。そうしたいと思った。自分に嘘は吐きたくない。この胸の高鳴りを、この衝動を、なかったことにしたくない。
「楪くん、俺、楪くんのことが好き」
 思っていたよりも、楽に声が出た。思っていたよりも、冷静に話せた。と同時に、それは間違いなく、自分の本心であることを知った。
 無意識に閉じ込めていた感情が、好きだと伝えたことで、堰を切ったように溢れ出す。俺は確かに、楪くんのことが好きだ。それに気づかせてくれたのは、幽霊となって現れた朝陽さんだった。朝陽さんのことが視えていなかったら、俺は自ら行動を起こすこともなく、いつまでも、精神的に落ち込んでしまっている楪くんを待ち続けていたかもしれない。彼が学校に来られるようになっても、好きだということに気づかず、告白なんかできもせずに。目で追うだけの日々が続いていたかもしれない。よく口の動くうるさい幽霊だったが、感謝しなければならなかった。
「……それだけ、好きだってことだけ、言いに来た」
 身勝手でごめん。咎めるなら、学校でして。待ってる。中からの音も声も気配も窺うことなく、俺は言い逃げをするように、楪くんの部屋に背を向けた。振り返らずに階段を下りて、俺を家に上げてくれた女性を探す。人の家をあちこち歩き回ることはしたくなかったが、無言で帰るわけにもいかなかった。
 廊下を進み、リビングだと思われる場所を覗かせてもらう。すると、仏壇の前で座り込んでおろおろと涙を流している女性を見つけた。その傍らには男性もいる。女性の背中を摩りながらも、同じように涙を流していた。
 とてもじゃないが、声をかけられる状況ではなかった。でも、だからといって、無言で出て行く理由にもならなくて。悩んだ挙げ句、お邪魔しました、と一言だけ告げて、俺は頭を下げた。二人の耳に届いたかどうかは分からなかったが、それ以上の言葉を続ける気にはならなかった。
 玄関へと向かい、靴を履く。傷心している楪家を後にする際、二階へと続く階段を見たが、楪くんが部屋から出てくるような気配はなかった。小さく息を吐く。赤の他人の俺にできることは、もう何もない。
「お邪魔しました」
 誰にも聞こえはしないが、もう一度そう声に出して、玄関の扉を静かに閉めた時、すぐ側から、いきなり、お疲れ様、と行き先も告げずに歩き彷徨っていたはずの朝陽さんの声がして。心臓が飛び跳ねた。緊張が解け、気が緩んでしまったところを即座に突かれてしまったために、柄にもなく過剰なリアクションを取ってしまう。驚きが声に出ることはなかったが、その分、ヒュッと一瞬だけ息が止まってしまった。
「そんな驚かないでよ。こっちもびっくりするじゃん。でも、基本的に鉄仮面の日比谷くんの表情が、少しだけ変わったの見れて良かった。さっきの、自然な感じで良いと思う。思わず素が出たんだね。うん、良いと思う」
 そんなことより、日比谷くんこれから帰るでしょ。俺が責任持って送ってあげるから、一緒に帰ろう。突っ込みも程々に一人で納得して、一人で決定する朝陽さんは、生前住んでいた自分の家に背を向けて歩き出した。
 彼は一度も振り返らなかった。その後ろ姿からは、もうここには戻らない、戻れない、という強い意志のようなものを感じ、なんとなく、もう既に、朝陽さんには迎えが来ているのではないかと、そう思わずにはいられなかった。そう思ってしまう背中だった。
 残り僅かな時間を俺に使ってもいいのかという疑問を抱いてしまったが、それを問うのは憚られて。結局俺は、依然として何も口にすることなく、黙って朝陽さんの後を追った。
 朝陽さんの言うように、俺はこのまま家に帰るつもりだ。そのため、これといって誘いを断る理由もなく、見つからず。俺は承諾を行動で示すように、先を行っていた朝陽さんの隣に並ぶなり、歩幅を合わせた。実際は一人で歩いているだけなのだろうが、俺にとっては確実に二人だった。
 相手が自分にしか視えない幽霊であったとしても、誰かと一緒に帰るというのは、高校生になってからは初めての経験で。自分がどれだけ人付き合いを避け、それを苦手としていたのかが顕著に表れてしまった気がした。
 苦手だから、面倒だから、と言い訳をして、挙げ句の果てには、避けられているから、と他人のせいにして逃げ続けた結果が、孤独だ。流石に朝陽さんのようには、誰の懐にも自然な形でスルッとヌルッと入ってくる朝陽さんのようにはなれないだろうが、せめて、楪くんの前でだけは、もう少し積極的になりたいと思う。思うだけで何も変わらないかもしれないが、今は、強く、そう思う。
 初対面の人相手でも臆さずに話ができ、いつまでもぺらぺらと喋ってばかりだった朝陽さんの声が、なぜか頭を通り過ぎていないことに、ふと、ぼんやりと、気づいた。思考の邪魔をされない。帰ろうと誘ったっきり、朝陽さんは何も喋っていなかった。珍しい沈黙が続いている。何か考え込んでいるのだろうか。体調でも悪いのだろうか。いや、でも、幽霊に限って、そんなことはないだろうか。
 喋らない朝陽さんの隣を、同じく喋らない俺が歩いたところで、静寂に包まれてしまうのは当然だった。口数が多くて喧しいと思っていたが、実際は、あの騒々しさに、自分は少し救われていたのかもしれないと、続く沈黙を破ろうともせずに実感した。うるさい人が静かになってしまうと、調子が狂う。
 二人して、しばらく無言のまま歩き続けた。楪くんの家に上がって、何を伝えたとか、何があったとか、どうなったとか、そういった結果を朝陽さんから聞かれることもなく、俺も自分から言うこともなく、ただ、俺の家に向かって静かに歩くだけの時間が続いた。
 このまま何も会話をせずにお別れになってしまうのだろうか、と流石に居た堪れなくなってしまった俺は、自ら声をかけようと勢いで口を開きかけた。が、まだ何も決まっていないのに一体何から口火を切るつもりだったのかと我に帰って怖気づき、結局沈黙を破れずに身を引いてしまった。そうしている間に、朝陽さんの方が先に、一歩前へ出た。
「日比谷くん、ありがとう。春陽のこと、ありがとう。春陽はもうきっと、大丈夫。日比谷くんが歩み寄ってくれたおかげで、俯いていた春陽も前を向ける。絶対。春陽とずっと一緒に育ってきた俺が保証する」
 それはまるで、最後に送るメッセージのようだった。もう後悔はないというような、後は俺に任せると案に伝えているような、そんな表情で、そんな言葉選びで、そんな雰囲気で。朝陽さんは口を開いた。
 何か返事をしなければと思ったが、何も思い浮かばず、俺はこくりと首を縦に振ることしかできなかった。言い逃げをした俺の言葉で、本当に楪くんは歩みを進めてくれるのか。不安は常に胸の中を燻っていたが、彼の兄である朝陽さんに、大丈夫だとか、絶対だとか、保証するだとか断言されると、心なしか、抱いていた不安が少し軽くなるのを感じた。
「ねぇ、日比谷くん、俺、楪朝陽って言うんだけど、よかったら、日比谷くんの下の名前、教えてよ」
 大事な弟のハルが想ってる人のフルネームくらい、知る権利はあるよね。ぴょんぴょんと跳ねるように二、三歩進み、俺を振り返った朝陽さんは、脈絡なくそう訊ねてきた。声を出して返事をしなかった俺を不快に思っている様子はない。今はただ純粋に、俺の下の名前を知りたがっているだけのような、知りたくて呼びたくてうずうずしているような、そんなにこにことした屈託のない笑みを咲かせていた。よく喋る人で、よく笑う人だった。明るい人だった。既に死んでいるだなんて思えないほどに。
 朝陽さんが沈黙を破ってから、間もなく到着した自宅の前で、俺は足を止めた。朝陽さんもそれに倣う。ここが日比谷くんの家なんだね、となぜか嬉しそうな声を上げる朝陽さんを見つめながら、俺は、ようやっと、唇を動かした。躊躇わず、悩むことなく、動かせた。
(なぎ)
「……ん?」
「凪ぐって書いて、凪」
 俺の名前。できるだけ少ない字数で答えると、朝陽さんは、なぎ、凪、と漢字と読みを確かめるように何度か呟いた。そして、早くも口が慣れてしまったかのように、凪、凪ね、日比谷くんの名前は凪、日比谷凪、か、響きが優しいね、と凪を連呼して満面の笑みで名前を褒めてくれた。
 褒められ慣れていないために、それだけでなく、相変わらず口下手なために、俺は返答に窮してしまい、結果、どうも、という短い感謝の言葉しか返せなかった。
「教えてくれてありがとう、凪くん。これでぐっすり眠れそうだよ。なかなか寝つけない日々が続いてたからさ」
 うーん、俺のやるべきことが済んで、一段落ついたら眠くなってきちゃったな。無事に凪くんのことを送り届けられたし、俺はこの辺でそろそろお暇するよ。おやすみね、凪くん。
 あっという間に、滑らかに凪くんと俺を呼ぶ朝陽さんは、またね、また明日、などとは言わなかった。続けなかった。それはつまり、もう俺の前に現れることはないということなのではないか。
 有無を言わさず締め括り、またしても、覚悟を決めたように背を向け歩き出す朝陽さんの後ろ姿を見つめる。今日が、本当に、最後。最期。自分の弟のことを完全に俺に任せて、朝陽さんは眠りについてしまう。
 このまま俺は、何も言わずにいていいのだろうか。最後の最後まで、自分の意思をはっきりと伝えられないままでいいのだろうか。いや、ダメだと思った。後悔すると思った。もう会えないのなら、尚更、叫ばなければならないのではないか。そう自分を鼓舞して、俺は、息を、吸った。
「朝陽さん、ありがとう。楪くん……、弟の、春陽くん……、ハル、の、ことは、俺に任せて」
 ゆっくり、おやすみ。そこで俺も区切り、遠のいて行く朝陽さんを見送った。喋るのはやはり、下手だった。それでも、片手を上げてひらひらと手を振り、反応を示してくれた朝陽さんを目に見たら、スーッと心が晴れやかになって。不思議と、息がしやすくなった。