「いやー、俺の要望を日比谷くんが聞き入れてくれたから、もう大丈夫、安心して成仏できる、って思ったんだけどね」
 ほら、見ての通り、全然消えなかったよ、俺。不思議だね。不思議だよ。日比谷くんも俺のこと視えたままじゃん。ねぇ、日比谷くん。ねぇ、ねぇってば、ちょっと、何で無視するのさ。ちょっと、え、ちゃんと視えてるよね? 聞こえてるよね? 日比谷くん。日比谷くんってば。
 校門前で俺を待ち伏せしていたらしく、目が合った瞬間、さながら恋人のように駆け寄ってきた朝陽さんに、次から次へと言葉をぶつけられた。元気がありすぎていた。成仏は、していなかった。
 不自然に立ち止まらないように突き進んで、俺に向かってぺちゃくちゃと喋り続ける朝陽さんをなおざりにする。俺は朝陽さんと目を合わせないよう意識しながら、校舎に吸い込まれる他の生徒の後に続いた。
 周りに人がいる中で話しかけられても、俺は答えられない。いや、答えられはするが、正確に言うと、答えたくないのだ。俺には視えていても、俺以外の人には視えていないのだから。ここで俺が反応を示していては、それを見た人に変人のレッテルを貼られてしまう。気味悪がられてしまう。独り言では済まされない。
 交渉のような真似事をした昨日、成仏できるよ、ともう悔いなんてないみたいに満足そうな顔をしていたにも関わらず、何のギャグなのか、寝て起きても全く成仏しなかった朝陽さんからは、少しの気まずさも感じられなかった。慌ただしく俺の隣に並んでは不躾に顔を覗き込み、日比谷くんスルースキル高すぎ、と陽気に笑い始める。俺は何も視えていない。俺は何も聞こえていない。
「日比谷くん、本当にうんともすんとも言ってくれないね。他に人がいるから? そっか、まあ、そうだよね。一人で喋ったら変人扱いされるし」
 いやー、でも、無視されても存在は認知されてるし俺の声も届いてるって思ったら、小躍りしそうほど嬉しくてたくさん喋っちゃう。成仏できなかった理由はまだ分かってないけどさ、まあもう少し日比谷くんに憑いておこうかなって思うよ。日比谷くんと仲良くなりたいし。日比谷くんがどういう人なのか知りたいし。あ、まさかこれが、成仏できなかった理由かな。
 朝陽さんは、朝っぱらから口数が多い上に声も大きく、思っていたよりも鬱陶しい霊だった。昨日初めて会話を交わした時よりも喧しく感じてしまう。物静かな楪くんとは大違いだ。真逆だ。光が強すぎて、目も頭も痛くなってしまいそう。朝は得意ではないからそう思ってしまうのだろうか。
 俺の隣でこれだけ騒いでいるのに、周りは誰一人として朝陽さんを見向きもしない。本当に俺にしか視えていないようだった。視えていないから、そこに人がいるとは思っていないから、朝陽さんにぶつかりにいくように突っ切る人もいた。少なからず俺にはそう見えた。朝陽さんはそれを避けている。仮にもし当たったとしても、衝撃を与えたり、与えられたりすることはないが、自分の体を擦り抜けられるのは霊も気分が良くないのだろう。俺には自ら、脅すように重なってきたのに。
 擦り抜けや重なりを除けば普通の人間に見紛うほどの幽霊を引き連れたまま、一言も喋らずに辿り着いた生徒玄関で淡々と靴を履き替えた。登校時間が同じくらいの生徒の数は多いが、無論、誰とも話すことはない。もうすぐ三年生になるというのに、俺に親しい相手は一人もいなかった。寂しい交友関係だと思う。
 高校生特有のキラキラした青春を送れずにいるのは、俺のコミュニケーション能力が低いせいでもあるだろうし、なぜか周りが俺を怖がっているせいでもあるだろう。楪くんもその一人なのではないかとネガティブを拗らせてしまうこともあるが、それはできるだけ考えないようにしている。
 生徒玄関から立ち去る際に、流し目で楪くんの靴を確認してみたが、彼は来ていなかった。今日も来ないだろうか。来ないかもしれない。
「ねぇ、日比谷くん。誰とも喋んないじゃん。他クラスだから? 他学年だから? 日比谷くんってば案外人見知り? 友達いないの? 寂しいね、って煽りたいところだけど、誰とも馴れ合わないクールな一匹狼って感じ、俺は好きだよ。芯が強そう」
 慣れたらもっと話してくれるかな。その頃には俺も消えちゃってるかもだから、難しいかな。日比谷くんみたいな寡黙な人が、自分にだけ懐いてる、というようなシチュエーション? 関係性? ってとても萌えるし優越感も味わえるのに惜しいな。あとさ、思い出した。昨日会ったばかりでこんなこと言うの失礼だけど、日比谷くんの表情筋って死んでるよね。ほとんど無だった。今も無だよ。そんな無表情だから人が寄りつかないんじゃないの? 顔面偏差値高いのにもったいない。でも、そういうのが好きっていう女子もいるんだろうね、きっと。ねぇ、日比谷くん、笑って、って言っても笑ってくれないよね。知ってる。
 怒涛の勢いで、上げて落としてまた上げて、そしてまた落とす朝陽さんは、決して悪気はないのだろう、冗談も言える親しい間柄の親友に見せるような、心底楽しそうな明るい表情で、にこにこと饒舌に話していた。自分の声が、なぜか視えている俺に届いていることが嬉しいと口にしていたが、それは嘘でも何でもなく、本当にそう思っているのかもしれない。反応がなくても鈍くても、聞いてもらえたらそれでいいという思考回路。俺には考えられないほどのコミュ力お化けだと思った。実際にお化けだった。
 友達がいないだの、表情筋が死んでるだの、それで人が寄りつかないだの、言いたい放題、笑顔で毒を吐かれ煽られてしまっているが、気に留めずに完全無視を貫いた。朝陽さんの、刃物のように鋭い見解は何も間違ってはおらず、全て的を得ているために、煮え滾るような反発心は一切湧いてこなかった。
 友達もいなければ、表情筋も死んでいる。人も寄りついてこない。お化けである朝陽さんよりも俺の方がお化けのようで。そのような人間だった、俺は。ぐうの音も出ない。
 俺の何倍も、何十倍もある言葉数で、ぺらぺらと流れるように喋り続ける朝陽さんは、反応のない俺の側から離れようとはしなかった。一人で盛り上がっている状況だが、それすらも楽しいと思っているかのようで。不運な事故で死んでしまったのに、陽気な人だった。取り繕って、そうして、元気なふりをしているのだろうか。気にしていないふりをしているのだろうか。
 事故を起こした人は命を落とすことなく生きて、交通ルールを守っていた自分たちは即死。容疑者を恨んでもいいはずだが、何度見ても、朝陽さんの目は生きている。死後、幽霊となっても、その一瞬一瞬を、全力で謳歌するかのように。生きている。何事もポジティブに捉えられるような、根っからの明るい人なのだと思った。やはり俺には眩しすぎる。
 隣を歩いている、強すぎる陽が、俺の陰の部分を際立たせ、足元をふらつかせた。今日はこのまま、俺の周りでうろちょろし続けるつもりなのだろうか。害はないと言っても、完全なるお喋りマシーンなため、今は口を開かずにやり過ごせていても、そのうち自分が突っ込んでしまいそうだと気が気でなかった。一人であれば問題はないが、そうではない時は大問題だ。自分の背中に、気味悪がられるような張り紙を貼られたくはない。楪くんを出迎える前に、自分が学校に居づらくなってしまったら元も子もなかった。
 俺以外に視えないからと遠慮することもなく、堂々と教室までついてきた朝陽さんは、自分の席に座って黙る俺の半径数メートル以内を彷徨き始めた。クラスメートの顔を覗き込んだり、勝手に会話を聞いて頷いてみたり、教壇に立って生徒の様子を眺めてみたり、誰も返してはくれないのにおはようと挨拶をしたり。忙しなかった。
 ちょこまかちょこまかと動き回る朝陽さんを尻目に隣の席を見遣るが、言わずもがな空いたままで。楪くんが来る気配はなかった。今日も最後まで、俺の隣は空席だろうか。
「日比谷くん、本当に一匹狼じゃん。誰も日比谷くん見ないし話しかけないし、日比谷くんも自分から行かないし。日比谷くんの周りだけなんか浮いてる感じがする。まず温度が違うんだよね。こっち冷えてる。見えない壁があるみたい。離島みたい。日比谷くん、面白いね」
 虚しくならないのかと思うようなことをして陽気に遊んでいた朝陽さんは、犬が飼い主のところに戻ってくるみたいに、見えない尻尾を振りながら俺の近く、俺と楪くんの席の間に入り込んできた。瞬間、化けの皮を剥ぐように愛らしさを捨て、容赦なく毒を吐き、挑発するかのように面白い発言までしてみせる朝陽さんは、ずっと、楽しそうに、笑っている。俺よりも、生を感じられた。
 朝陽さんと一緒にいると、やはり、自分の暗さが露呈してしまう。浮いているのも冷えているのも、それが原因なのかもしれない。
 俺みたいな、孤独になりやすい人は、このクラスには他に誰もいなかった。大体の人は、二人以上で行動している。別にそれを、羨ましいと思ったことはない。俺にとって、一人の時間は苦ではなかった。強がりでも何でもなく、本当にそうだった。
 朝陽さんの周りを包む眩い光に充てられ続け、徐々に疲弊し始める心が、無意識のうちに癒しを求めた。当然のように朝陽さんをスルーして、隣を見る。こちらに身体を向けている朝陽さんの後ろ。誰もいない席。いつもそこに座っていたはずの楪くんの姿を思い浮かべて、トクトクと胸を弾ませながらも、焦がれながらも、和んだ。楪くんのふわふわとした柔らかい雰囲気は、癒しの一つだった。が、その本人は、結局今日も、登校してこなかった。願いが虚しく散っていく。空席は、いつまでも空席だった。何も埋まらなかった。また、一人の放課後がやってくる。
 一日中、どんなにガン無視されても、機嫌を損なわず、懲りもせず、事あるごとにぺらぺらと口を動かし続けていた朝陽さんのメンタルの強さに狂気のようなものを覚えながらも、負けじと自分を貫いた俺は、その日だけでスルーの経験値を爆上げさせた。後半はほぼ、どちらも自分の意思を曲げない、譲らない、泥沼のような攻防戦に近かった。
 俺が無表情でそんな戦いを繰り広げていたことなど、誰も知る由もないだろう。知らなくていいことだ。俺が楪くんの席を見ながら、彼のことを考えていることも。帰るギリギリまで、彼を待ち焦がれていることも。知らなくていいことだ。知られたくないことだ。それなのに。
「日比谷くん、今日ずっと、何なら今も、隣の席のハルのことを気にしてるよね。バレてるよ。今日に限った話じゃないんだろうなってことも。ねぇ、日比谷くん、そんなことしていたって、ハルは来ない。何もせずに待っていたって、ハルは来ない。来ないんだよ、来れないんだよ、日比谷くん」
 俺が一人になり、会話ができる状態になった途端、人が変わったかのように真剣になる朝陽さんに、ゆっくりと告げられた。顔を上げる。笑みもなく、まっすぐと見つめられる。少し前までふざけていた人だとは思えなかった。
 人がいる中では相手にされないと分かっていて、そうした中では喋りたくないと思っている俺に気を遣って、俺が反射的に反応してしまうであろう真面目な話は、わざと、周りに誰もいなくなるまで、わざと、しなかったのだろうか。真意は定かではないが、その可能性は無きにしも非ずだった。
 あれだけ喋り倒しておきながら、俺の行動や視線の先をしっかりと見て洞察していたことに度肝を抜かれつつも、それを顔に出すことはせず、否定も肯定も文句も飲み込んで。依然として、俺は沈黙を守った。
 朝陽さんに誤魔化しはきかない。朝陽さんには何も隠せていない。楪くんに対する俺の気持ちすら、朝陽さんは勘づいているかもしれなかった。気にしてない、見てない、などと取り繕ったところで、すぐに嘘だと見破られてしまうだろう。俺の数少ない手札が全て奪われてしまう気しかしないため、素直に降参する他なかった。元より、鋭い針を刺されてしまった時点で、そうするつもりだった。
「日比谷くん、今、ハルはね、部屋に引きこもってる。塞ぎ込んでるんだ。俺とお母さんが死んでから、ずっと。父親は早くに亡くなってるから、生活のフォローは祖父母がしてくれてる。でも、もう、二人とも歳だから、この先何年もハルの側にいてやれるわけじゃない。今の状態のまま、祖父母とも別れが来てしまったら、ハルの精神が壊れてしまう」
 空っぽになってるんだよ、ハルの中にあった大事な感情が、あの日を境に全部ごっそり奪われたみたいに。泣きもせず、笑いもせず、怒りもせず、ただ、無気力なまま息をしているだけ。見ていて辛い。話しかけても名前を呼んでも、ハルに俺の声は一切届かないし、俺の姿すら視えていない。俺がそこにいることすら、ハルは知らない。幽霊になって浮遊していても、俺はハルに何もしてやれない。日に日に憔悴していくハルを見て、悔しさに唇を噛むことしかできない。
 だから、霊が視える人に、俺のことが視える人に、ハルのことを救ってもらうようお願いしようと考えた。それが、日比谷くんだった。日比谷くんの名前を知った時は、なんとなく、都合のいい解釈なんだろうけど、ハルが君に助けを求めてるんだって思ったよ。ハルの口からはよく、日比谷くんの名前が出てたから。憧れの人なんだって、その人と初めて隣の席になれたんだって、はにかみながらも嬉しそうに話してくれたことがある。声をかける勇気はなかなか湧かないけど、何かきっかけがあったら掴みたいって。
 日比谷くんがハルのことを気にするように、ハルも日比谷くんのことを気にしてた。俺はそんな日比谷くんに、下を向いて立ち止まっているハルの手を引いてほしい。日比谷くんがどんなに待っても、雁字搦めになっているハルは、その場から動けずにいるから。
 感情の籠もった目で訴えかけられる。言葉に託された朝陽さんの思いと、その口から浮き彫りになった楪くんの今の姿、と、塞ぎ込む前の姿。そして、俺に向けられていた好意的な気持ち。それらの事象は、俺の予想よりも重く、俺の予想よりも外れていた。楪くんも、俺のことを見てくれていたなんて、知らなかった。気づかなかった。
 ただひたすら、弟のことを思う兄の顔をする朝陽さんを見て、それから、また、楪くんの席を見た。刹那、引き込まれるように、過去の記憶が鮮明に蘇った。俺が楪くんを気にするようになった、その発端のような出来事が。あたかも初心を思い出させるかのように、脳裏に転がり込んできたのだ。それはとても、些細な出来事だった。何気ない出来事だった。でも、確実に、空虚だった俺の心に、小さくても消えない、意志の強い火が灯った瞬間の、きっかけの出来事だった。
「……消しゴムを、床に落としたことがある。それを、拾おうとした俺よりも先に、隣の席の楪くんが拾ってくれた。その時に、ちょっとだけ指が触れ合った。楪くんは、恥ずかしそうな、照れたような顔で、拾った消しゴムを俺に差し出して言ったんだ。本音が零れ落ちたみたいに、言ったんだ」
 なんか、好きかも。日比谷くんの手、僕、好きかも。指も長くて細くて、綺麗だね。日比谷くんは、綺麗な人だよ。
 心臓を、掴まれた。突如として誤作動を起こしたみたいに熱くなって。その初めての経験に動揺しつつも、悟られないよう取り繕いながら、俺は楪くんから消しゴムを受け取った。ありがとう、と自分の口から漏れた感謝は、消しゴムを拾ってくれたことに対するものなのか、手や俺自身を褒めてくれたことに対するものなのか、自分でもよく分かっていなかった。
 好きだと、綺麗だと、褒められた自分の手をほんの少しだけ意識するようになってしまったのも、それを言った楪くんに、今までどこにも向かなかった関心が向いてしまったのも、きっと、自らが落としてしまったきっかけを掴まれたからだった。自分がこれほどまでに単純な男だとは思わなかった。それでも、自分のどこかに好感を持ってくれたことが、素直に嬉しかった。
「ハルも日比谷くんも、恋してる」
「……恋?」
「気づいてないかもしれないけど、日比谷くんね、ハルの席を見てたり、今みたいにハルのことを考えてたりする時、凄く、愛おしいものでも見るような、触れたら壊れてしまう大事なものでも見るような、そんな目、してるんだよ」
 完全に、好きな人を見てる目。恋してる目。日比谷くんは、ハルのことが好きなんだよ。確信しているようにはっきりと、付加するようにさらりと断言され、しかし、その言葉は妙に腑に落ちてしまった。分からなかった感情に、名前をつけられた気がした。
 ああ、そうか。ずっと、これは、恋だった。恋をしたことがなかったから、恋であることを自覚していなかった。気になるだけの存在だと思っていた。俺は、楪くんのことが好きだ。好きなのだ。そうだと気づいてしまえば、居ても立ってもいられなくなってしまった。
「楪くんに、会いたい」
「なら、会いに行けばいいだけだよ」
 そして、日比谷くんの気持ちを伝えてあげて。今のハルには、前に進むきっかけがいる。それを作れるのは、日比谷くんだけだよ。朝陽さんに、言葉で背中を押される。彼の最終目的は、楪くんを俺に任せることであって、俺と楪くんの関係を良い方向に運ぶことではない。それでも朝陽さんは、朗らかに、まだ何も解決などしていないのに、もう大丈夫だとでも言わんばかりの安心したような表情で、ふわりと笑って見せたのだった。