卒業式から、週末を二回迎えた月曜日。隣の席は、今日も空いたまま、放課後になっても埋まらなかった。楪くんは、来なかった。
教室の、人口密度が減っていく。楪くんを心配する声も、日に日に減っていく。自分以外の誰かに何か悲劇があったとしても、所詮は他人事なのだ。同情はしても、それ以上のことはなかった。何もできなかった。
楪くんのいない穴の空いた教室に、慣れを感じ始めているクラスメートは多く、彼の話題も、まるでタブーのように、それが暗黙の了解であるかのように、口にする者も少なくなった。彼の友達ですら、そうだった。俺はそれに、慣れ始めてしまうのが怖かった。
もうほとんどの人が、楪くんが学校に来なくなってしまった、否、来れなくなってしまった原因を察しているだろう。理由が分かっているからこそ、誰も彼のことに触れようと、無理な励ましをしようとはしないのだ。自分たちが放つ言葉はどれも、今の楪くんにとっては綺麗事でしかないと、何も届かないと、自覚しているから。だから、無闇に触れて壊さないように、そっとしておく選択を取っているのだ。
あの日、三月一日の卒業式の日、楪くんは、他校に通っている高校三年生の兄と、母親を、同時に亡くした。交通事故だった。母親の運転する車に信号無視の大型トラックが衝突し、二人を乗せた車が横転。被害に遭った二人は病院に搬送されたが、既に手遅れだった。即死だったのだ。加害者は死なずに、過失運転致死傷罪で現行犯逮捕。急いでいた、と容疑を認めているということだが、そんな身勝手な理由で事故を起こし、二人を死亡させた罪は重かった。当たり前だった。
この事故は県内のニュースで取り上げられた。祝福されるはずの卒業式の日に起きた、あまりにショッキングな出来事に同情する人もいたが、俺は何一つ言葉が出なかった。その代わり、被害に遭った二人や、その家族である楪くんのことを思うと、容疑者に対して腸が煮え繰り返る思いで。一発と言わず、二発も三発もぶん殴ってやりたかった。
でも、俺が憤りを感じたところで、実際にできることは何もなく、それは、心に深い傷を負った楪くんに対してもそうだった。俺は何もできない。何もしてやれない。その場で地団駄を踏んで、楪くんが学校に来られるようになるまで待つことしかできない。
虚しかった。悔しかった。情けなかった。無力だった。それでも俺は、息をして、楪くんを待つことしかできなかった。
楪くんの顔を見て、安心したい。それ以上は求めないから、会いたい。姿を見たい。友達と楽しそうに話す楪くんを見たい。俺に向けてじゃなくていいから、笑っていてほしい。もう、それだけでよかった。それだけで十分だった。
自分以外誰もいなくなってしまった教室で、俺は隣の空席を見ながら、その席の主である楪くんへ思いを馳せた。
会いたい。そう何度も願ったところで、都合よく楪くんが現れることなどあるはずもないが、願わずにはいられなかった。
「楪くん」
確かめるように、呟いてみる。舌で言葉を転がしたところで、変わるものは何もない。楪くんは、ここにはいない。楪くんは、姿を見せない。その現実を突きつけられただけだった。
突然家族を失った。その喪失感を受け入れ前を向くのは決して簡単なことではない。時間が解決してくれるのかもしれないが、いつまでかかるか分からない。
何があっても、何が起きても、日々は淡々と過ぎていく。置いてけぼりにされた人のことなど待ってはくれない。自分からついて行かなければ、日常は取り戻せない。立ち止まりながらでも、一歩一歩進んで行く。俺は楪くんを信じる。信じたい。信じさせてほしい。
楪くんが安心して学校に来られるように、自分はいつも通りの自分でいようと思い、席を立つ。気遣いも、同情も、される側は罪悪感を覚えてしまうのではないか。過度に干渉されることに、ストレスを感じてしまうのではないか。少なくとも、俺が楪くんの立場だったら、きっとそう思ってしまう。急に態度を変えられるのは、気持ちのいいものではなかった。
手に取った鞄を引っ提げ、簡単に見回りをしながら教室の出入り口へと向かう。教室に戻ってくるつもりであるような誰かの荷物もなく、最後の人が、と言われがちな戸締まりも、日直の人が既に済ませてくれていたため、俺がすることといったら、扉の鍵を締めることくらいだった。
残っていた最後の一人だったため、責任を持って扉を施錠しようと南京錠を弄った。鍵すらも、日直の人が返してくれていた。
ガチャガチャと指先で弄り、片手で施錠する。そして、帰ろうと体の向きを変えたタイミングで、ふと、どこからか視線を感じて顔を上げた。人がいた。こちらに向かって廊下を進んでいる人がいた。その人と目が合った。瞬間、あれ、と思い、緩く首を傾ける。どことなく、既視感を覚える顔面だった。どこかで見たことがあるような顔面だった。
記憶にあるようなないような顔の造形もそうだが、中でも一番気になるのは、着ている制服が、ここの高校のものではないということだった。彼はブレザーだった。こっちは学ランだった。そのことから、他校の生徒、恐らく、隣町の高校の生徒であることに間違いはないはずだ。他校生が、一体何をしに来たのだろう。先生は許可したのだろうか。
ブレザーを着た、見たことがあるようなないような人は、じっと俺を凝視して、それから、確かめるように後ろを振り返った。そこには誰もいない。俺が見ているのは、たった今、自分の後ろを確認した、制服違いの不審な人物だ。後ろには誰もいない。
もう一度、俺と目を合わせた男子生徒は、やっぱり俺を凝視して、空いていた距離をどんどん詰めてきた。知らないはずの人に迫られていることに僅かながら萎縮してしまい、思わず後退する。そうしてから、もしかして、と思い、彼を真似るように俺も後ろを振り返ってみたが、当然のように、そこに人の姿はなかった。俺しかいない。彼しかいない。
これは、考えるまでもなかった。つまりは、そういうことだ。彼はしっかりと、俺を見ているということだ。最初から、視線を感じた時からそうだ。自分の背後を見た俺は、何にもならない無意味な確認をしただけだった。
廊下は走らないという小学生のようなルールを律儀に遵守するかのように、彼は早足で、というよりも、大股で、俺に歩み寄ってきた。俺はまた、後退した。何かされそうになった時に、いつでも逃げられるようにするための準備のような後退だった。今はまだ、背は向けられない。むくむくと膨れ上がる警戒心が、彼に無防備な背中を向けることを嫌がっている。
物珍しそうな眼差しで廊下を進んでいた他校生が、俺の前で静かに足を止めた。探るように、見つめられる。息を呑んで、身構える。緊張感が増した。
唇を引き結んで俺を見上げるその顔面は、やっぱりどこかで見たことがあるような気がする。デジャブを感じることに変わりはなかったが、自分から声をかけるようなことはしなかった。俺は彼に用などない。他校に足を踏み入れるほどの用件が俺にあるような彼が、口を開くのを待つことにする。
見つめ合いのような、睨み合いのような、そんな沈黙の時間がしばらく続いて。次第に、目の前の彼に対して、妙な違和感を、既視感の次は違和感を覚えた。
視線は確かに感じるのに、存在感はないような。歩行の動作を見たのに、息をしていないような。確実に見えているのに、薄く透けているような。そう、まるで、幽霊のような。その特徴を、体現しているような。
自ら予測を立てておきながら、心底馬鹿げていると思った。現実的な思考ではない。彼は幽霊ではない。俺に霊感などない。彼は幽霊ではない。幽霊など信じていない。彼は幽霊ではない。
真顔で、幽霊か否かを考えて、頑なに否定して、自分が視えているとは思いたくなくて、しかし、幽霊であることを否定すればするほど、まるで俺に分からせるかのように、彼の存在がどんどん薄くなっていっているような気がした。気がするだけだ。彼は幽霊ではない。
「うん、間違いない。君、俺のこと、完全に視えてるね」
よかった。やっと視える人を見つけた。喋った。穴が空きそうなほど目を見つめてきた彼が、喋った。その言葉は、幽霊であることを否定する俺に止めを刺すような言葉だった。
生きている人間が、生きている人間に対して、自分のことが視えてるね、視える人を見つけた、などと突拍子もなく言うのはあまり考えられない。考えられないから、彼は、俺が否定した幽霊である可能性が高かった。まだ可能性で考えてしまうのは、霊感などないはずの自分が、霊をはっきりと目にしているとは思いたくなかったからだった。
「……俺には何も視えない」
「嘘すぎる。今視えてるじゃん」
言い聞かせるように呟けば、それを簡単に拾われ、すぐさま、倍の声量で突っ込まれてしまった。会話が成り立ってしまっている。俺の声を掻き消すほどの溌剌とした声も、やはり耳はしっかりと拾ってしまっている。
せっかく視えてるんだから相手してよ。俺のこと視える人、君以外にいないんだよ。別に取って食ったりしないからさ。俺は君に危害を加えるつもりなんてないよ。ね、信じて。俺は視える人をずっと探してた。お願いしたいこともあるし、ちょっとだけ俺と仲良くしてよ。えーと、名前、君の名前は、えー、あ、あれ、君って、日比谷っていうの? え、すご、運命じゃん。君が日比谷くんだったんだ。そっかそっか、そういうことか。だから、日比谷くんには俺のことが視えるのかな。
よく喋る人だった。よく喋る霊、だった。コミュニケーション能力の高くない俺は、一方的に言葉を投げつけられるだけで、相槌を打つこともできなかった。挙げ句の果てには、つけたままだった名札のせいで、名乗るよりも先に名字を知られてしまう始末だ。俺が日比谷だから何なのかは分からないが、何やら意味深なことまで口にして。俺を置いてけぼりに一人で納得する彼がどこの誰なのかという情報は、残念ながら、彼と初対面の俺の手には渡らなかった。
「早速だけど、俺から一つ、お願いがあるんだよ、日比谷くん」
「聞きたくない」
「え、聞いてよー、人助けだと思ってさ、ね?」
今の俺には日比谷くんしか頼れる人がいないんだよ、日比谷くんしか俺のこと視えてないんだから、と顔の前で両手を合わせた彼は、この通り、お願いしますよ、と拝むように俺に懇願した。困った。普通に会話をしてしまっている。困った。変なところで順応性を発揮してほしくはなかった。困った。
一言返すと、二言三言で跳ね返してくる彼を見下ろしながら、お人好しの人だったら、と考える。そう、例えば、楪くんのような人なら、相手がこんな剽軽な人であっても、霊であっても、このように、つむじが見えるほど腰を低くして何かをお願いされたら、放ってはおけずに手を差し伸べるだろうか。優しい楪くんのことだ。戸惑いながらも、親身になって話を聞くかもしれない。
でも俺は、楪くんではないから。楪くんのように人に優しくなりたいとは思っていても、笑えない泣けない怒れない、それを表に出せない自分では、困っている人を助けられない。
提示された問題を解決できるできないも重要だろうが、一番は、相手をどれだけ安心させることができるか、だと思った。そういう意味で、楪くんは、本当に優しかった。優しくて、脆かった。優しいのが長所で、優しすぎるのが短所だった。楪くんは、そういう人だった。彼のようになりたくても、俺には到底なれない人だった。
「俺のお願い聞いてくれなきゃ、一生重なったまま付き纏うよ」
まだ名前も知らない彼のことを見下ろしたまま、気づけば宙を舞っていた思考が引き戻される。顔を上げて俺を見た彼は、悪戯を仕掛ける子供のような悪い笑みを浮かべて、こんな風に、とすぐには返答できずに突っ立っている俺に向かってまっすぐ進んだ。
迫ってくる彼を見て、反射で半歩下がった時、不意に、蜘蛛の巣が顔にかかるような感覚がして。思わず手で払い退ける仕草をしている間に、あろうことか、彼は俺の体を擦り抜けて、否、ちょうど俺と体が重なり合ったところで、その足を止めた。一瞬、何が起きているのか分からなかった。理解が遅れた。
痛みを覚えるような衝撃はなかった。が、心への見えない衝撃はあまりにも大きかった。刺されたばかりの止めを、もう一度刺されてしまったかのようで。
俺よりも身長の低い彼の黒髪が、鼻の辺りで見えている。そこから足先まで、確実に一体化している。彼の吐いた言葉の通り、重なっているのだ。
俺に、彼が、重なっている。彼が、俺に、重なっている。意味が分からなすぎる。冗談がすぎる。嘘すぎる。頭を抱えたくなる。
「ほら、見て、日比谷くんの体から俺の腕が伸びてる」
嬉々として俺と同じ方向に体を反転させた彼が、前方に手を伸ばし、人差し指と中指を立ててピースをした。俺に見せつけるように手のひらをこちらへ向けて、陽気に遊び始めた。その指が踊っている。煽っている。狂っている。
情報過多だ。渋滞している。くらくらする。自分の中から自分のものではない声が聞こえてくるような形容し難い気持ち悪さすら感じ、自分が未知なる醜悪な生命体に変わり果ててしまったのではないかと不安になった。カオスだった。蜘蛛の巣が纏わりつくような感覚はずっと続いていた。
こんな、生きている人間にはできない、信じられない真似をされてしまったら、彼が幽霊であることを認めざるを得ない。かもしれない、という可能性が、そうである、という断定に切り替わってしまった。否定できる素材がなさすぎる。
お願いを聞かなければ、この状態のまま、重なった状態のまま、憑かれてしまう。害のない霊なのだろうが、体を占拠され棲みつかれる日々が続くのは気が狂ってしまいそうだ。そのうち自分の体を乗っ取られてしまいそう。
「……話聞くから、退いて」
狂いたくもなければ、乗っ取られたくもなかったため、仕方なく観念して引き下がる。あまり幽霊に逆らっていては、何をされるか分かったもんじゃない。危害を加えるつもりはないと言っていたが、反抗的な態度を取り続けてしまっていたら呪い殺されてしまうかもしれないのだ。そうなったら大変迷惑だ。困る。
俺の視界にわざと映り込むように手遊びをしていた彼が、あ、やった、聞いてくれるんだね、と嬉しそうな声を上げ、軽やかなステップを踏むように前進した。感覚のない、物理的ではない霊との接触が解除される。瞬間、蜘蛛の巣が張り巡らされていたような感覚もふっと消え、心なしか気分が少し軽くなった。霊とちょうど重なったことで、知らぬ間に倦怠感を覚えてしまっていたのかもしれない。
怠さの抜けた胸を手で押さえ、ふ、と短く息を吐く。外面は冷静さを保っているが、実際は動揺していた。混乱していた。学ラン越しに伝わる心音は大きく揺れている。
状況自体は呑み込めていると思っていたが、本当は何も呑み込めていないのかもしれない。予測不能な事態が続いて、それがいくら何でも非現実的で、余計に頭の整理が追いつかなかった。
休憩したい。帰りたい。もう後は、家に帰るだけだったのに。それなのに、突然幽霊が視えるようになって、その幽霊に捕まった上に、何かお願いされるようなシチュエーションになるだなんて思いもしなかった。考えたこともなかった。
自分は変な夢でも見ているのだろうか。幻覚でも見ているのだろうか。今更そんな思考に陥ってしまったが、考えたところで堂々巡りするだけだった。
「ねぇ、日比谷くん」
さっきまで俺を揶揄するように弄んでいた彼が、緩慢な動作で俺を振り返った。あっという間に慣れた口調で、しかし、どことなく改まった口調で、俺を呼ぶ。おふざけムードから真面目なムードに、空気がガラッと変わるのを感じた。
息を呑む。緊張が走る。制服を着ている時点で、俺と同じくらいの年齢で死んでしまったと考えられる幽霊からの頼み事だ。生前にやり残したことを代わりにやってほしいというような願いかもしれない。いや、でも、それは、若くして亡くなってしまった霊に限った話ではないだろうか。
俺は幽霊に何を頼まれてしまうのか。もし無理難題を押し付けられてしまったら、などと、俺にはできない暗く重たい願いだったらどうしようと不安を覚えつつも、表情には出さず、唇を引き結んで、黙って静かにして、俺を見つめる彼の言葉を待った。程なくして、彼の口がゆっくりと開き、真剣な声が届けられる。
「日比谷くんに、ハルのことを……、俺の弟、春陽のことを、任せたい。無責任だけど、春陽のことを支えてあげてほしい。これからずっと、春陽の隣にいてあげてほしい。春陽を一人取り残して、俺もお母さんも、死んじゃったから」
これが俺のお願いだよ。頼む相手はきっと、日比谷くんじゃないとダメで、だから、日比谷くんにしか俺のことが視えないんだと思う。身勝手で、迷惑な話だってことは分かってる。でもどうか、春陽のことを、お願いします。
最後は敬語で、深々と頭を下げられた。チャラチャラしていた人だとは思えない誠実な態度に困惑すると同時に、彼の顔を見た時に覚えた既視感の正体が分かった気がした。相対的に、彼が誰なのかもはっきりとしてくる。
彼は恐らく、いや、間違いなく、卒業式の日に起きた、あの凄惨な事故の犠牲者だ。顔と実名、年齢が、ニュースで流れていたのを思い出した。記憶が脳内に流れ込んでくる。
楪朝陽。十八歳。高校三年生。
彼は自分の弟のことを春陽と言った。楪くんの下の名前は春陽だ。彼は自分も母親も死んだと言った。楪くんの兄と母親は事故で亡くなった。全て、繋がる。
これは、幽霊からのお願いではなく、楪くんの兄からのお願いだ。彼の大事な人は弟で、俺は彼の弟、楪くんに、会いたいと思っている。形は違えど、想う矢印は同じ方向だ。断る理由などなかった。
「……楪くんが、俺のことをどう思っているのかは分からない。それでも、俺は……、俺でいいのなら、楪くんの隣にいたい」
自信があるわけではないけど、そのお願い、引き受ける。尚も頭を下げている幽霊に、朝陽さんに、告げた。彼の正体が分かっても、態度は変えなかった。そうするべきだと思った。
「ありがとう、日比谷くん。日比谷くんなら大丈夫。春陽のこと、君に任せた」
徐に顔を上げた朝陽さんは、これで安心して成仏できるよ、とホッと胸を撫で下ろし、表情を緩めた。笑ってみせた。その柔らかい笑みが、楪くんに似ていた。
朝陽さんに楪くんを重ねて見た俺は、無意識のうちに熱視線を送ってしまっていた。そうしながら思うことはただ一つ。
楪くんに会いたい。
幽霊が視えてしまっても、幽霊と会話を成立させてしまっても、揺らめく思考は一周回って帰ってくる。結局俺は、楪くんのことばかりだった。
教室の、人口密度が減っていく。楪くんを心配する声も、日に日に減っていく。自分以外の誰かに何か悲劇があったとしても、所詮は他人事なのだ。同情はしても、それ以上のことはなかった。何もできなかった。
楪くんのいない穴の空いた教室に、慣れを感じ始めているクラスメートは多く、彼の話題も、まるでタブーのように、それが暗黙の了解であるかのように、口にする者も少なくなった。彼の友達ですら、そうだった。俺はそれに、慣れ始めてしまうのが怖かった。
もうほとんどの人が、楪くんが学校に来なくなってしまった、否、来れなくなってしまった原因を察しているだろう。理由が分かっているからこそ、誰も彼のことに触れようと、無理な励ましをしようとはしないのだ。自分たちが放つ言葉はどれも、今の楪くんにとっては綺麗事でしかないと、何も届かないと、自覚しているから。だから、無闇に触れて壊さないように、そっとしておく選択を取っているのだ。
あの日、三月一日の卒業式の日、楪くんは、他校に通っている高校三年生の兄と、母親を、同時に亡くした。交通事故だった。母親の運転する車に信号無視の大型トラックが衝突し、二人を乗せた車が横転。被害に遭った二人は病院に搬送されたが、既に手遅れだった。即死だったのだ。加害者は死なずに、過失運転致死傷罪で現行犯逮捕。急いでいた、と容疑を認めているということだが、そんな身勝手な理由で事故を起こし、二人を死亡させた罪は重かった。当たり前だった。
この事故は県内のニュースで取り上げられた。祝福されるはずの卒業式の日に起きた、あまりにショッキングな出来事に同情する人もいたが、俺は何一つ言葉が出なかった。その代わり、被害に遭った二人や、その家族である楪くんのことを思うと、容疑者に対して腸が煮え繰り返る思いで。一発と言わず、二発も三発もぶん殴ってやりたかった。
でも、俺が憤りを感じたところで、実際にできることは何もなく、それは、心に深い傷を負った楪くんに対してもそうだった。俺は何もできない。何もしてやれない。その場で地団駄を踏んで、楪くんが学校に来られるようになるまで待つことしかできない。
虚しかった。悔しかった。情けなかった。無力だった。それでも俺は、息をして、楪くんを待つことしかできなかった。
楪くんの顔を見て、安心したい。それ以上は求めないから、会いたい。姿を見たい。友達と楽しそうに話す楪くんを見たい。俺に向けてじゃなくていいから、笑っていてほしい。もう、それだけでよかった。それだけで十分だった。
自分以外誰もいなくなってしまった教室で、俺は隣の空席を見ながら、その席の主である楪くんへ思いを馳せた。
会いたい。そう何度も願ったところで、都合よく楪くんが現れることなどあるはずもないが、願わずにはいられなかった。
「楪くん」
確かめるように、呟いてみる。舌で言葉を転がしたところで、変わるものは何もない。楪くんは、ここにはいない。楪くんは、姿を見せない。その現実を突きつけられただけだった。
突然家族を失った。その喪失感を受け入れ前を向くのは決して簡単なことではない。時間が解決してくれるのかもしれないが、いつまでかかるか分からない。
何があっても、何が起きても、日々は淡々と過ぎていく。置いてけぼりにされた人のことなど待ってはくれない。自分からついて行かなければ、日常は取り戻せない。立ち止まりながらでも、一歩一歩進んで行く。俺は楪くんを信じる。信じたい。信じさせてほしい。
楪くんが安心して学校に来られるように、自分はいつも通りの自分でいようと思い、席を立つ。気遣いも、同情も、される側は罪悪感を覚えてしまうのではないか。過度に干渉されることに、ストレスを感じてしまうのではないか。少なくとも、俺が楪くんの立場だったら、きっとそう思ってしまう。急に態度を変えられるのは、気持ちのいいものではなかった。
手に取った鞄を引っ提げ、簡単に見回りをしながら教室の出入り口へと向かう。教室に戻ってくるつもりであるような誰かの荷物もなく、最後の人が、と言われがちな戸締まりも、日直の人が既に済ませてくれていたため、俺がすることといったら、扉の鍵を締めることくらいだった。
残っていた最後の一人だったため、責任を持って扉を施錠しようと南京錠を弄った。鍵すらも、日直の人が返してくれていた。
ガチャガチャと指先で弄り、片手で施錠する。そして、帰ろうと体の向きを変えたタイミングで、ふと、どこからか視線を感じて顔を上げた。人がいた。こちらに向かって廊下を進んでいる人がいた。その人と目が合った。瞬間、あれ、と思い、緩く首を傾ける。どことなく、既視感を覚える顔面だった。どこかで見たことがあるような顔面だった。
記憶にあるようなないような顔の造形もそうだが、中でも一番気になるのは、着ている制服が、ここの高校のものではないということだった。彼はブレザーだった。こっちは学ランだった。そのことから、他校の生徒、恐らく、隣町の高校の生徒であることに間違いはないはずだ。他校生が、一体何をしに来たのだろう。先生は許可したのだろうか。
ブレザーを着た、見たことがあるようなないような人は、じっと俺を凝視して、それから、確かめるように後ろを振り返った。そこには誰もいない。俺が見ているのは、たった今、自分の後ろを確認した、制服違いの不審な人物だ。後ろには誰もいない。
もう一度、俺と目を合わせた男子生徒は、やっぱり俺を凝視して、空いていた距離をどんどん詰めてきた。知らないはずの人に迫られていることに僅かながら萎縮してしまい、思わず後退する。そうしてから、もしかして、と思い、彼を真似るように俺も後ろを振り返ってみたが、当然のように、そこに人の姿はなかった。俺しかいない。彼しかいない。
これは、考えるまでもなかった。つまりは、そういうことだ。彼はしっかりと、俺を見ているということだ。最初から、視線を感じた時からそうだ。自分の背後を見た俺は、何にもならない無意味な確認をしただけだった。
廊下は走らないという小学生のようなルールを律儀に遵守するかのように、彼は早足で、というよりも、大股で、俺に歩み寄ってきた。俺はまた、後退した。何かされそうになった時に、いつでも逃げられるようにするための準備のような後退だった。今はまだ、背は向けられない。むくむくと膨れ上がる警戒心が、彼に無防備な背中を向けることを嫌がっている。
物珍しそうな眼差しで廊下を進んでいた他校生が、俺の前で静かに足を止めた。探るように、見つめられる。息を呑んで、身構える。緊張感が増した。
唇を引き結んで俺を見上げるその顔面は、やっぱりどこかで見たことがあるような気がする。デジャブを感じることに変わりはなかったが、自分から声をかけるようなことはしなかった。俺は彼に用などない。他校に足を踏み入れるほどの用件が俺にあるような彼が、口を開くのを待つことにする。
見つめ合いのような、睨み合いのような、そんな沈黙の時間がしばらく続いて。次第に、目の前の彼に対して、妙な違和感を、既視感の次は違和感を覚えた。
視線は確かに感じるのに、存在感はないような。歩行の動作を見たのに、息をしていないような。確実に見えているのに、薄く透けているような。そう、まるで、幽霊のような。その特徴を、体現しているような。
自ら予測を立てておきながら、心底馬鹿げていると思った。現実的な思考ではない。彼は幽霊ではない。俺に霊感などない。彼は幽霊ではない。幽霊など信じていない。彼は幽霊ではない。
真顔で、幽霊か否かを考えて、頑なに否定して、自分が視えているとは思いたくなくて、しかし、幽霊であることを否定すればするほど、まるで俺に分からせるかのように、彼の存在がどんどん薄くなっていっているような気がした。気がするだけだ。彼は幽霊ではない。
「うん、間違いない。君、俺のこと、完全に視えてるね」
よかった。やっと視える人を見つけた。喋った。穴が空きそうなほど目を見つめてきた彼が、喋った。その言葉は、幽霊であることを否定する俺に止めを刺すような言葉だった。
生きている人間が、生きている人間に対して、自分のことが視えてるね、視える人を見つけた、などと突拍子もなく言うのはあまり考えられない。考えられないから、彼は、俺が否定した幽霊である可能性が高かった。まだ可能性で考えてしまうのは、霊感などないはずの自分が、霊をはっきりと目にしているとは思いたくなかったからだった。
「……俺には何も視えない」
「嘘すぎる。今視えてるじゃん」
言い聞かせるように呟けば、それを簡単に拾われ、すぐさま、倍の声量で突っ込まれてしまった。会話が成り立ってしまっている。俺の声を掻き消すほどの溌剌とした声も、やはり耳はしっかりと拾ってしまっている。
せっかく視えてるんだから相手してよ。俺のこと視える人、君以外にいないんだよ。別に取って食ったりしないからさ。俺は君に危害を加えるつもりなんてないよ。ね、信じて。俺は視える人をずっと探してた。お願いしたいこともあるし、ちょっとだけ俺と仲良くしてよ。えーと、名前、君の名前は、えー、あ、あれ、君って、日比谷っていうの? え、すご、運命じゃん。君が日比谷くんだったんだ。そっかそっか、そういうことか。だから、日比谷くんには俺のことが視えるのかな。
よく喋る人だった。よく喋る霊、だった。コミュニケーション能力の高くない俺は、一方的に言葉を投げつけられるだけで、相槌を打つこともできなかった。挙げ句の果てには、つけたままだった名札のせいで、名乗るよりも先に名字を知られてしまう始末だ。俺が日比谷だから何なのかは分からないが、何やら意味深なことまで口にして。俺を置いてけぼりに一人で納得する彼がどこの誰なのかという情報は、残念ながら、彼と初対面の俺の手には渡らなかった。
「早速だけど、俺から一つ、お願いがあるんだよ、日比谷くん」
「聞きたくない」
「え、聞いてよー、人助けだと思ってさ、ね?」
今の俺には日比谷くんしか頼れる人がいないんだよ、日比谷くんしか俺のこと視えてないんだから、と顔の前で両手を合わせた彼は、この通り、お願いしますよ、と拝むように俺に懇願した。困った。普通に会話をしてしまっている。困った。変なところで順応性を発揮してほしくはなかった。困った。
一言返すと、二言三言で跳ね返してくる彼を見下ろしながら、お人好しの人だったら、と考える。そう、例えば、楪くんのような人なら、相手がこんな剽軽な人であっても、霊であっても、このように、つむじが見えるほど腰を低くして何かをお願いされたら、放ってはおけずに手を差し伸べるだろうか。優しい楪くんのことだ。戸惑いながらも、親身になって話を聞くかもしれない。
でも俺は、楪くんではないから。楪くんのように人に優しくなりたいとは思っていても、笑えない泣けない怒れない、それを表に出せない自分では、困っている人を助けられない。
提示された問題を解決できるできないも重要だろうが、一番は、相手をどれだけ安心させることができるか、だと思った。そういう意味で、楪くんは、本当に優しかった。優しくて、脆かった。優しいのが長所で、優しすぎるのが短所だった。楪くんは、そういう人だった。彼のようになりたくても、俺には到底なれない人だった。
「俺のお願い聞いてくれなきゃ、一生重なったまま付き纏うよ」
まだ名前も知らない彼のことを見下ろしたまま、気づけば宙を舞っていた思考が引き戻される。顔を上げて俺を見た彼は、悪戯を仕掛ける子供のような悪い笑みを浮かべて、こんな風に、とすぐには返答できずに突っ立っている俺に向かってまっすぐ進んだ。
迫ってくる彼を見て、反射で半歩下がった時、不意に、蜘蛛の巣が顔にかかるような感覚がして。思わず手で払い退ける仕草をしている間に、あろうことか、彼は俺の体を擦り抜けて、否、ちょうど俺と体が重なり合ったところで、その足を止めた。一瞬、何が起きているのか分からなかった。理解が遅れた。
痛みを覚えるような衝撃はなかった。が、心への見えない衝撃はあまりにも大きかった。刺されたばかりの止めを、もう一度刺されてしまったかのようで。
俺よりも身長の低い彼の黒髪が、鼻の辺りで見えている。そこから足先まで、確実に一体化している。彼の吐いた言葉の通り、重なっているのだ。
俺に、彼が、重なっている。彼が、俺に、重なっている。意味が分からなすぎる。冗談がすぎる。嘘すぎる。頭を抱えたくなる。
「ほら、見て、日比谷くんの体から俺の腕が伸びてる」
嬉々として俺と同じ方向に体を反転させた彼が、前方に手を伸ばし、人差し指と中指を立ててピースをした。俺に見せつけるように手のひらをこちらへ向けて、陽気に遊び始めた。その指が踊っている。煽っている。狂っている。
情報過多だ。渋滞している。くらくらする。自分の中から自分のものではない声が聞こえてくるような形容し難い気持ち悪さすら感じ、自分が未知なる醜悪な生命体に変わり果ててしまったのではないかと不安になった。カオスだった。蜘蛛の巣が纏わりつくような感覚はずっと続いていた。
こんな、生きている人間にはできない、信じられない真似をされてしまったら、彼が幽霊であることを認めざるを得ない。かもしれない、という可能性が、そうである、という断定に切り替わってしまった。否定できる素材がなさすぎる。
お願いを聞かなければ、この状態のまま、重なった状態のまま、憑かれてしまう。害のない霊なのだろうが、体を占拠され棲みつかれる日々が続くのは気が狂ってしまいそうだ。そのうち自分の体を乗っ取られてしまいそう。
「……話聞くから、退いて」
狂いたくもなければ、乗っ取られたくもなかったため、仕方なく観念して引き下がる。あまり幽霊に逆らっていては、何をされるか分かったもんじゃない。危害を加えるつもりはないと言っていたが、反抗的な態度を取り続けてしまっていたら呪い殺されてしまうかもしれないのだ。そうなったら大変迷惑だ。困る。
俺の視界にわざと映り込むように手遊びをしていた彼が、あ、やった、聞いてくれるんだね、と嬉しそうな声を上げ、軽やかなステップを踏むように前進した。感覚のない、物理的ではない霊との接触が解除される。瞬間、蜘蛛の巣が張り巡らされていたような感覚もふっと消え、心なしか気分が少し軽くなった。霊とちょうど重なったことで、知らぬ間に倦怠感を覚えてしまっていたのかもしれない。
怠さの抜けた胸を手で押さえ、ふ、と短く息を吐く。外面は冷静さを保っているが、実際は動揺していた。混乱していた。学ラン越しに伝わる心音は大きく揺れている。
状況自体は呑み込めていると思っていたが、本当は何も呑み込めていないのかもしれない。予測不能な事態が続いて、それがいくら何でも非現実的で、余計に頭の整理が追いつかなかった。
休憩したい。帰りたい。もう後は、家に帰るだけだったのに。それなのに、突然幽霊が視えるようになって、その幽霊に捕まった上に、何かお願いされるようなシチュエーションになるだなんて思いもしなかった。考えたこともなかった。
自分は変な夢でも見ているのだろうか。幻覚でも見ているのだろうか。今更そんな思考に陥ってしまったが、考えたところで堂々巡りするだけだった。
「ねぇ、日比谷くん」
さっきまで俺を揶揄するように弄んでいた彼が、緩慢な動作で俺を振り返った。あっという間に慣れた口調で、しかし、どことなく改まった口調で、俺を呼ぶ。おふざけムードから真面目なムードに、空気がガラッと変わるのを感じた。
息を呑む。緊張が走る。制服を着ている時点で、俺と同じくらいの年齢で死んでしまったと考えられる幽霊からの頼み事だ。生前にやり残したことを代わりにやってほしいというような願いかもしれない。いや、でも、それは、若くして亡くなってしまった霊に限った話ではないだろうか。
俺は幽霊に何を頼まれてしまうのか。もし無理難題を押し付けられてしまったら、などと、俺にはできない暗く重たい願いだったらどうしようと不安を覚えつつも、表情には出さず、唇を引き結んで、黙って静かにして、俺を見つめる彼の言葉を待った。程なくして、彼の口がゆっくりと開き、真剣な声が届けられる。
「日比谷くんに、ハルのことを……、俺の弟、春陽のことを、任せたい。無責任だけど、春陽のことを支えてあげてほしい。これからずっと、春陽の隣にいてあげてほしい。春陽を一人取り残して、俺もお母さんも、死んじゃったから」
これが俺のお願いだよ。頼む相手はきっと、日比谷くんじゃないとダメで、だから、日比谷くんにしか俺のことが視えないんだと思う。身勝手で、迷惑な話だってことは分かってる。でもどうか、春陽のことを、お願いします。
最後は敬語で、深々と頭を下げられた。チャラチャラしていた人だとは思えない誠実な態度に困惑すると同時に、彼の顔を見た時に覚えた既視感の正体が分かった気がした。相対的に、彼が誰なのかもはっきりとしてくる。
彼は恐らく、いや、間違いなく、卒業式の日に起きた、あの凄惨な事故の犠牲者だ。顔と実名、年齢が、ニュースで流れていたのを思い出した。記憶が脳内に流れ込んでくる。
楪朝陽。十八歳。高校三年生。
彼は自分の弟のことを春陽と言った。楪くんの下の名前は春陽だ。彼は自分も母親も死んだと言った。楪くんの兄と母親は事故で亡くなった。全て、繋がる。
これは、幽霊からのお願いではなく、楪くんの兄からのお願いだ。彼の大事な人は弟で、俺は彼の弟、楪くんに、会いたいと思っている。形は違えど、想う矢印は同じ方向だ。断る理由などなかった。
「……楪くんが、俺のことをどう思っているのかは分からない。それでも、俺は……、俺でいいのなら、楪くんの隣にいたい」
自信があるわけではないけど、そのお願い、引き受ける。尚も頭を下げている幽霊に、朝陽さんに、告げた。彼の正体が分かっても、態度は変えなかった。そうするべきだと思った。
「ありがとう、日比谷くん。日比谷くんなら大丈夫。春陽のこと、君に任せた」
徐に顔を上げた朝陽さんは、これで安心して成仏できるよ、とホッと胸を撫で下ろし、表情を緩めた。笑ってみせた。その柔らかい笑みが、楪くんに似ていた。
朝陽さんに楪くんを重ねて見た俺は、無意識のうちに熱視線を送ってしまっていた。そうしながら思うことはただ一つ。
楪くんに会いたい。
幽霊が視えてしまっても、幽霊と会話を成立させてしまっても、揺らめく思考は一周回って帰ってくる。結局俺は、楪くんのことばかりだった。