楪くんが、学校に来なくなった。それは、あと数週間で、高校二年生が終わる、三月のことだった。
その日は、近隣の高校も含め、人生の門出となる卒業式が行われていた。長時間の厳粛なムードに若干のストレスを覚えながらも、最後まで参加し続け、無事に卒業生を見送ったまではよかった。楪くんにとっても、きっとそうだった。ただの卒業式でしかなかった。毎年行われる催しでしかなかった。
でも、この世は残酷だ。理不尽なことばかりだ。誰かに恨まれることなどないであろう心優しい楪くんを、容赦なく高い崖から突き落として絶望させたこの世は、とても、あまりにも、残酷だ。理不尽だ。少なくとも俺は、そう思った。
血相を変えた担任が、慌てた様子で教室の扉を開き、俺の隣の席で、仲の良い友達と親しげに話していた楪くんを呼んだのは、卒業生が学舎を後にしてから約一時間後のことだった。
切羽詰まった担任の表情は、只事ではないことを伝えるには十分すぎるものであり、その証拠に、話し声で喧騒としていた教室が、水を打ったように一気に静まり返ったのだ。
良い知らせではないことは誰の目にも明らかで、それを今まさに、動揺しているようにも見える担任に伝えられようとしている楪くんは、酷く困惑し、尚且つ緊張している様子だった。
楪くんではない他のクラスメートは、担任と楪くんを交互に見ながら、全員が固唾を飲んでいた。俺は楪くんの横顔を見ながら、周りと同じように口を閉ざしていた。楪くんは不安そうだった。
担任が、落ち着け、と自分に言い聞かせるように大きく深呼吸をした。混乱は伝染していく。話し手が冷静でなければ、聞き手が動揺する。冷静さを欠いた発言は、心配や不安、恐怖を煽るだけだ。
楪くんが、息を止めるように唇を引き結んだ。空気が張り詰めている。ピリピリしている。卒業式が終わった後のふわふわとした余韻は、いつの間にか消え失せていた。
「楪、今すぐ荷物をまとめて生徒玄関に来い」
「何か、あったんですか」
「詳細は後だ。とにかく、先生の車で病院に行くぞ」
「病院?」
楪くんだけでなく、この場にいる誰もが抱いたであろう疑問に、担任は何も答えなかった。ただ、唇を噛み、噛んで、感情を押し殺すように息を吐き、吐いて、急げ、楪、と絞り出したような声で再度促し、そして、やはり、詳しいことは何も教えてくれないまま、担任は教室を後にしたのだった。
一方的に告げられ、上手く状況を飲み込めないまま取り残された楪くんは、病院という単語に不安を覚えているのだろう、視線を忙しなく彷徨わせていた。そうするだけで、立ち上がれずにいる。手が小刻みに震えているのが見て取れた。
そんな楪くんの動向を、皆が注目していた。一緒にいた楪くんの友達は、かける言葉を考えあぐねているらしく、彼の顔を見ては口をぱくぱくとさせるだけで。何も言わない。大人しいタイプのため、この沈黙の中、先陣を切って声を上げ、自らが先導するということに恥ずかしさを感じているのだろう。時に、人の視線は凶器となるから。
その凶器になりかけている視線を向けられている楪くんは、何かに耐えるように俯き、黙ってじっとしていた。そうするべきではないのに、彼はそうしていた。担任の表情と病院という単語が、悪い予感ばかりを想像させ、それに思考を絡め取られてしまい、結果、動けずにいるのかもしれない。
ああ、ダメだ。こんなの。見ていられない。誰も楪くんをフォローしない。ただ見ているだけ。自分には関係ない。でも、その件に関係のあるらしい楪くんの挙動は気になる。そうして、見る。注目する。それだけ。誰も何もしない。何をしたらいいのか分からない。誰も何も言わない。何を言えばいいのか分からない。楪くんは震えている。
席を立った。立ったのは自分だった。放って置けなかった。ただ、それだけのことだった。
誰かが俺の名字を呼んだ。否、呟いた。無視をして、隣の席の、楪くんの鞄に触れた。楪くんが、緩慢な動作で顔を上げた。目が合った。瞳が揺れていた。楪くんの鞄を代わりに掴み、迷いなく彼の手を取った。冷えていた。
「行こう」
それだけ。それだけだった。俺が口にしたのは、口にできたのは、それだけだった。たったの三文字だけだった。
楪くんが、俺の名字を呼んだ。呟いた風ではなかった。意思を持って、俺の名字を呼んだのだ。唇に乗せたのだ。語尾に疑問符をつけて。許可もなく触れた俺の手を、振り払うこともなく。
手を繋いで歩を進める俺の後を、楪くんは、戸惑った様子でありながらも、大人しくついてきてくれた。疑うような、はたまた好奇のような視線の網が絡みついても、俺は楪くんの手を離さなかった。楪くんは拒絶しなかった。そんな余裕はなかったのかもしれない。
ここでは見えない場所で、楪くんに関係する何かが起きて、それは、担任が慌てふためくほど大事になっている。一分一秒も無駄にはできない緊急事態なら、急ぐ必要があった。誰かが、震える楪くんのフォローに入らなければ、彼はきっとあのまま、張り付いたように動けずにいたのではないか。憶測でしかないが、そんなような気がした。
自分が、正義のヒーロー気取りで、善とされることをしたとは思っていない。彼を病院へと導く手助けをしてもよかったのか。周りからあまり良い印象を持たれていない俺が、他人の目を意に介さず感情だけで動いてしまったことで、後日、楪くんに何かしらの悪影響を及ぼしてしまうのではないか。
楪くんの手を引きながら思うことは懸念ばかりで、それでも、彼のことを放置して、我関せずといったように見て見ぬふりなどできなかった。楪くんだからそう思うのだ、ということには、息をするように気づかないふりをしてしまうのに。
楪くんの存在を、掴んでいる手のひらから感じながら、俺は、振り返らずに、言葉も発さずに、ただ、静かに、楪くんをリードした。事情を知らない他の生徒に繋がった手と手を見られても、俺も、そして、楪くんも、決して離しはしなかった。と、言えば、聞こえはいいが、実際は、俺が離させなかったに他ならない。
男に手を掴まれ歩かされているこの状況を、楪くんがどう思っているかなど、俺は知らない。知る由もない。が、言葉でも、行動でも、拒絶されていない以上、その手を離す理由などなかった。離したくなかった。
少しの間だけでも、楪くんに何かしたい。あわよくば、それで、好印象を与えられる、などと言った小さな下心を滴らせる俺の胸中には、緊急性の高い出来事が起きているにも関わらず、そういった邪な感情が僅かながら存在していたのだった。
楪くんの手を引いたまま階段を降り、既に生徒玄関にいた担任が、俺と楪くんに気づいて、一瞬、目を見開いた。楪くんを見て、それから俺を見て、何か言いたげにしていたが、それどころではないと判断し、楪、と彼を急かす。そこで俺は初めて振り返り、俯いている楪くんの手を引っ張った。担任に差し出すように、引っ張った。
繋いでいた手を、俺から離す。もう、離さなければならなかった。いつまでも、良い夢が続くはずもなかった。
足元を見ていた楪くんが、ゆっくりと顔を上げる。泣きそうな目をしていた。緊迫とした空気にやられてしまったのか、俺に手を掴まれたことが、本当は嫌だったのか、分からなかった。
感じていた楪くんの体温が、手のひらから抜けていく。それに反比例するように、片手に重みを感じた。見ると、楪くんの鞄を持ったままだった。何も言わずに差し出し、ゆるゆると手を伸ばす楪くんに渡ったのを見て、また、俺から手を離す。
「行くぞ、楪」
見計らったように、担任が楪くんの背中を押す。楪くんは、俺に会釈をするように頭を下げてから、不安を落ち着かせるように鞄を抱え、担任と共に病院へと向かった。その際、パッと俺を振り返った担任が、ありがとう、日比谷、と詳しいことは何も聞かずに、短く、なんとなく申し訳なさそうに、感謝を述べたのだった。
その次の日から、楪くんは、学校に来なくなった。それは、春の陽気が近づき始めている、三月のことだった。出会いと別れの季節でもある、三月のことだった。
その日は、近隣の高校も含め、人生の門出となる卒業式が行われていた。長時間の厳粛なムードに若干のストレスを覚えながらも、最後まで参加し続け、無事に卒業生を見送ったまではよかった。楪くんにとっても、きっとそうだった。ただの卒業式でしかなかった。毎年行われる催しでしかなかった。
でも、この世は残酷だ。理不尽なことばかりだ。誰かに恨まれることなどないであろう心優しい楪くんを、容赦なく高い崖から突き落として絶望させたこの世は、とても、あまりにも、残酷だ。理不尽だ。少なくとも俺は、そう思った。
血相を変えた担任が、慌てた様子で教室の扉を開き、俺の隣の席で、仲の良い友達と親しげに話していた楪くんを呼んだのは、卒業生が学舎を後にしてから約一時間後のことだった。
切羽詰まった担任の表情は、只事ではないことを伝えるには十分すぎるものであり、その証拠に、話し声で喧騒としていた教室が、水を打ったように一気に静まり返ったのだ。
良い知らせではないことは誰の目にも明らかで、それを今まさに、動揺しているようにも見える担任に伝えられようとしている楪くんは、酷く困惑し、尚且つ緊張している様子だった。
楪くんではない他のクラスメートは、担任と楪くんを交互に見ながら、全員が固唾を飲んでいた。俺は楪くんの横顔を見ながら、周りと同じように口を閉ざしていた。楪くんは不安そうだった。
担任が、落ち着け、と自分に言い聞かせるように大きく深呼吸をした。混乱は伝染していく。話し手が冷静でなければ、聞き手が動揺する。冷静さを欠いた発言は、心配や不安、恐怖を煽るだけだ。
楪くんが、息を止めるように唇を引き結んだ。空気が張り詰めている。ピリピリしている。卒業式が終わった後のふわふわとした余韻は、いつの間にか消え失せていた。
「楪、今すぐ荷物をまとめて生徒玄関に来い」
「何か、あったんですか」
「詳細は後だ。とにかく、先生の車で病院に行くぞ」
「病院?」
楪くんだけでなく、この場にいる誰もが抱いたであろう疑問に、担任は何も答えなかった。ただ、唇を噛み、噛んで、感情を押し殺すように息を吐き、吐いて、急げ、楪、と絞り出したような声で再度促し、そして、やはり、詳しいことは何も教えてくれないまま、担任は教室を後にしたのだった。
一方的に告げられ、上手く状況を飲み込めないまま取り残された楪くんは、病院という単語に不安を覚えているのだろう、視線を忙しなく彷徨わせていた。そうするだけで、立ち上がれずにいる。手が小刻みに震えているのが見て取れた。
そんな楪くんの動向を、皆が注目していた。一緒にいた楪くんの友達は、かける言葉を考えあぐねているらしく、彼の顔を見ては口をぱくぱくとさせるだけで。何も言わない。大人しいタイプのため、この沈黙の中、先陣を切って声を上げ、自らが先導するということに恥ずかしさを感じているのだろう。時に、人の視線は凶器となるから。
その凶器になりかけている視線を向けられている楪くんは、何かに耐えるように俯き、黙ってじっとしていた。そうするべきではないのに、彼はそうしていた。担任の表情と病院という単語が、悪い予感ばかりを想像させ、それに思考を絡め取られてしまい、結果、動けずにいるのかもしれない。
ああ、ダメだ。こんなの。見ていられない。誰も楪くんをフォローしない。ただ見ているだけ。自分には関係ない。でも、その件に関係のあるらしい楪くんの挙動は気になる。そうして、見る。注目する。それだけ。誰も何もしない。何をしたらいいのか分からない。誰も何も言わない。何を言えばいいのか分からない。楪くんは震えている。
席を立った。立ったのは自分だった。放って置けなかった。ただ、それだけのことだった。
誰かが俺の名字を呼んだ。否、呟いた。無視をして、隣の席の、楪くんの鞄に触れた。楪くんが、緩慢な動作で顔を上げた。目が合った。瞳が揺れていた。楪くんの鞄を代わりに掴み、迷いなく彼の手を取った。冷えていた。
「行こう」
それだけ。それだけだった。俺が口にしたのは、口にできたのは、それだけだった。たったの三文字だけだった。
楪くんが、俺の名字を呼んだ。呟いた風ではなかった。意思を持って、俺の名字を呼んだのだ。唇に乗せたのだ。語尾に疑問符をつけて。許可もなく触れた俺の手を、振り払うこともなく。
手を繋いで歩を進める俺の後を、楪くんは、戸惑った様子でありながらも、大人しくついてきてくれた。疑うような、はたまた好奇のような視線の網が絡みついても、俺は楪くんの手を離さなかった。楪くんは拒絶しなかった。そんな余裕はなかったのかもしれない。
ここでは見えない場所で、楪くんに関係する何かが起きて、それは、担任が慌てふためくほど大事になっている。一分一秒も無駄にはできない緊急事態なら、急ぐ必要があった。誰かが、震える楪くんのフォローに入らなければ、彼はきっとあのまま、張り付いたように動けずにいたのではないか。憶測でしかないが、そんなような気がした。
自分が、正義のヒーロー気取りで、善とされることをしたとは思っていない。彼を病院へと導く手助けをしてもよかったのか。周りからあまり良い印象を持たれていない俺が、他人の目を意に介さず感情だけで動いてしまったことで、後日、楪くんに何かしらの悪影響を及ぼしてしまうのではないか。
楪くんの手を引きながら思うことは懸念ばかりで、それでも、彼のことを放置して、我関せずといったように見て見ぬふりなどできなかった。楪くんだからそう思うのだ、ということには、息をするように気づかないふりをしてしまうのに。
楪くんの存在を、掴んでいる手のひらから感じながら、俺は、振り返らずに、言葉も発さずに、ただ、静かに、楪くんをリードした。事情を知らない他の生徒に繋がった手と手を見られても、俺も、そして、楪くんも、決して離しはしなかった。と、言えば、聞こえはいいが、実際は、俺が離させなかったに他ならない。
男に手を掴まれ歩かされているこの状況を、楪くんがどう思っているかなど、俺は知らない。知る由もない。が、言葉でも、行動でも、拒絶されていない以上、その手を離す理由などなかった。離したくなかった。
少しの間だけでも、楪くんに何かしたい。あわよくば、それで、好印象を与えられる、などと言った小さな下心を滴らせる俺の胸中には、緊急性の高い出来事が起きているにも関わらず、そういった邪な感情が僅かながら存在していたのだった。
楪くんの手を引いたまま階段を降り、既に生徒玄関にいた担任が、俺と楪くんに気づいて、一瞬、目を見開いた。楪くんを見て、それから俺を見て、何か言いたげにしていたが、それどころではないと判断し、楪、と彼を急かす。そこで俺は初めて振り返り、俯いている楪くんの手を引っ張った。担任に差し出すように、引っ張った。
繋いでいた手を、俺から離す。もう、離さなければならなかった。いつまでも、良い夢が続くはずもなかった。
足元を見ていた楪くんが、ゆっくりと顔を上げる。泣きそうな目をしていた。緊迫とした空気にやられてしまったのか、俺に手を掴まれたことが、本当は嫌だったのか、分からなかった。
感じていた楪くんの体温が、手のひらから抜けていく。それに反比例するように、片手に重みを感じた。見ると、楪くんの鞄を持ったままだった。何も言わずに差し出し、ゆるゆると手を伸ばす楪くんに渡ったのを見て、また、俺から手を離す。
「行くぞ、楪」
見計らったように、担任が楪くんの背中を押す。楪くんは、俺に会釈をするように頭を下げてから、不安を落ち着かせるように鞄を抱え、担任と共に病院へと向かった。その際、パッと俺を振り返った担任が、ありがとう、日比谷、と詳しいことは何も聞かずに、短く、なんとなく申し訳なさそうに、感謝を述べたのだった。
その次の日から、楪くんは、学校に来なくなった。それは、春の陽気が近づき始めている、三月のことだった。出会いと別れの季節でもある、三月のことだった。