──2012年

「ピンクの筆箱が落ちてるけど誰の」
 永田駆(ながたかける)は廊下に落ちているサーモンピンクの筆箱を拾い、1年3組の教室を見回した。
「ピンクだから、これ女のじゃねーの」
 言うが返事がない。怪訝に思いビーグル犬のように首を傾げた。
「永田君、それ深森さんのじゃない? 音楽の授業で見たことあるよ」
 と近くにいたクラス委員の陽子が友達と話ながらつまらなそうに言った。
「そうなん。──って居るじゃん。深森。このピンクの筆箱、お前のじゃないのか」
「えっ……」
 深森咲楽(ふかもりさくら)は目を見開き、一瞬、なにを言われたのか、わからないような顔をした。
「あ……ありがとう」
 声ちっさ。なんだよ拾ってやったのに。
 何故か深森に微妙な顔をされ、俺は不快に思った。しかし、元来の人当たりの良さから、愛想笑いを浮かべ爽やかに「ほら」っと渡した。
 前髪で瞳を隠し、うつむき加減に深森は筆箱を受け取る。
 どうにも変な奴だ。
 深森は今年の秋に親の再婚で転校して来た生徒だ。物静かで話かけてもボソボソしている。つねに人と距離を置きクラスに馴染めず、時々そこに居るのもわからない。転校そうそうは女子に質問攻めにされていたが、今じゃ誰も深森を相手にしない。
 きっちりした三つ編みに、見えにくそうな前髪は顔の半分を隠している。細身で、制服も崩さず着こなす、お堅そうな奴だ。

 さておき──季節は立春だ。
 だらけた冬休みはとっくに終わり、ようやく鈍った体が通常運転する2月。バレンタインの話に盛り上がる女子のワクワク声が聞こえるなか、駆はそろそろ憂鬱な季節到来だ。
「ヤベ目が痒くなってきた。駆。お前の家って何時からやってるっけ?」
 そらきた。
 秋もそれなりに混雑する。しかし春の方が数倍人が混む。今年の量は去年の3倍だとか……桜が咲く頃にはピークを迎えるだろう花粉症。
 いやだねぇ。1年で1番嫌いな季節だよ。はぁ。また父さんの機嫌が悪くなるな。俺はブルーな気分になった。
「永田眼科は9時からだよ。言っとくが自分で予約しろよ。じゃないと父さんに怒られるの俺なんだからなぁ」
「わかってるって」なんて軽く言う友人に、本当に頼むよっと思い「よし」っと頷いた。
 そう俺は眼科医の息子だ。末っ子でお馬鹿なので継ぐのは兄。跡継ぎが決まっているので父も兄ばかり相手にするので気楽でいい。
 とはいえ、医者の息子はそれなりに面倒で、ご近所に噂が立つような失態をしてはいけない。
 そうじゃないと、生真面目な父の雷が落ちる。しょうがなく俺は、いつだって人当たりよくしているのさ。揉めごとなんてしてみろ、父からお小遣いを没収させられる。──そうさ、小学生のとき些細なことで同級生と殴り合いの喧嘩をしたことがあった。はっきり言って未だにそいつのが悪いと俺は思っている。しかし父は暴力自体が駄目だ「家は医者だぞ」っと世間体を気にした。
 なんだよ。世間体。世間体ってマジでムカつく。が、なけなしのお小遣いを3ヶ月もおあずけにさせられたので、もう二度としないと誓った。
 さてと、眼科にとって春は1年で最も忙しい時期だ。ピークを迎える花粉症に、忙しい父の機嫌は日に日にピリピリも急上昇するだろう。
 だから桜の時期は嫌いなんだ。だってまた始まるんだぜ。父の様子を伺う毎日が。
 気鬱になりながら小さくため息を吐くと、どこからか視線を感じた。
 んっ?
 俺は辺りを見回す。するとさっき筆箱を渡した深森が、何か言いたそうに俺をじっと見つめていた。
「どうした? お前も眼科に用事か?」
 深森は声も発せず首を振る。
 なんだかなぁ。こいつ苦手かも。そういえば、こいつの下の名前は咲楽(さくら)だっけ。
 苦手なはずだ。
──俺はその時は知らなかったのだ。些細な言葉が人を傷つけることを。