やりとりを繰り返して数日目の朝、私はいつものように登校してユーフォの朝練をし、昼は中等部のある階に足を伸ばしてみた。ノートの主がいないか探そうと思い立ったのだ。
 殴られていると聞いていたから、体にあざがあるかもしれない。それっぽい生徒たちを不審がられない程度に見ていくけど、うまくいかなかった。ただでさえ、高等部の生徒が中等部エリアにいたら目立つというのに。
 先生にこっそり聞いてみようか。なんて質問しよう?
『中等部で親に殴られていそうな子はいませんか?』。
 ……馬鹿みたい。うまく立ち回れない自分が心底いやになる。
 けっきょく昼休みまで犠牲にしたノートの主探しは空振りに終わり、いつも通り図書室へ行ってノートを書架に差し込んだ。
 図書委員は変わらず菅原先輩が代理をしていた。今日でもう一週間近くが経つけど、インフルエンザならそれくらい長引いてもおかしくない。予鈴が鳴って、先輩は参考書を閉じてカウンターから立ちあがるところだった。
「今日も代理ですか?」
「うん。同級生はね、明日には治癒証明が取れて学校に来れるみたいだ」
 そうか……じゃあ明日からは、先輩と図書室で静かに話すこともできなくなるんだ。
「入江さんも図書室通い、熱心だね?」
「あ……ええと……」
 そうだ、今ここで先輩に、ノートのことを打ち明けてしまおうか。先輩ならうまく立ち回ってくれるかも。
「あの──」
「いや、ごめん」
 意を決して出した私の声は、先輩の慌てた声にかき消された。
「図書室利用者に詮索をするのはご法度なんだった。つい気になっちゃって……今の言葉は流していいよ」
 菅原先輩は苦笑しながらカウンターから出てきた。手には参考書と、鍵。
「図書室を閉めるから、一緒に出ちゃおうか」
「はい」
「部活はどう? 三年が引退した後、うまくやれてる?」
 正直、部内の空気はあまりいいとは言えない。特に菅原先輩がいるともいないとも言える今の状況は、私たちの精神衛生に否応にも影響が及んでいると思う。
 まるでコップの縁ギリギリまで溜まった水だ。そこへ先輩の曲のソロが、最後の一滴を投じようとしている。
「あの、先輩」
 扉に鍵を差し込んでいる菅原先輩の背中に声をかける。
「先輩は曲を作るとき、どうしてソロをフルートじゃなくてユーフォにしたんですか?」
「あの曲にはユーフォでしょ。フルートだと高音域は音が鋭すぎるし、だからって低い音を出すと音量が心もとない」
 だったら、いくらでも他の楽器でよかったはずだ。もっと二年、三年生でふさわしいソロ奏者が……。
「でもたぶん、聞きたいことはそこじゃないんだろうね」
 鍵をかけ置いた先輩が振り返る。
「入江さんなら吹けると思う。できるよ。……そういうシンプルな理由じゃあ、ダメなのかな?」
 そう言った先輩の顔は、いつもの優しい笑顔ではなく真顔だった。私をまっすぐ見る視線に、脈が早くなる。
「俺、人を見る目はけっこう自信あるよ。あの曲は入江さんのソロでいいものになる」
「曲にケチをつけてるわけじゃなくて、その……ちょっと不安で」
「入江さんを信じる俺を、信じてほしい」
 私を信じる先輩を……。先輩の真剣な眼差しと言葉が、全身に染み渡ってくる。
 私のことをそんなふうに思ってくれていたなんて、知らなかった。胸が締め付けられて、頭は真っ白なのに、体は浮きそうだ。
 先輩は私へまっすぐに向けていた目をそらして、すぐにいつもの穏やかでとっつきやすい笑顔に戻った。
「そんなに不安なら、今日の部活でソロを俺が見ようか」
「え?」
「ちょうど岩崎先生に、合奏の時は顔見せろって言われているんだ」
 ソロを見る。つまり、一対一のレッスン。
 先輩と二人きりで自分の音色を聞かせる状況を想像して、足元が崩れ落ちそうになる。
 同時に昼休み終わりのチャイムが鳴って、私たちは同時に「あ」と声をあげた。
「ごめん、入江さんを遅刻させちゃったね。授業の先生には俺に引き止められたって言っていいよ。じゃあ、放課後にまた」
 先輩は早歩きで教室に急いだ。そのせいもあって、ソロを見てもらう約束は、なし崩し的に確定事項にされてしまった。