朝に起きたことは、放課後には葵くんにも把握されていた。たぶん菅原先輩からフォローするように言われたんだろう。彼も彼でトランペットの演奏技術が高く、一年なのに金管パートのセクションリーダーを任されているのだ。
 セクション練習の際それとなく葵くんからソロの話をされたので、私はその場に居合わせていたことを正直に告げた。
「え。おまえ、隠れてサンドバッグになってたとかありえねえ!」
「あはは……ごめん」
「いや謝んなし」
「あの時の菅原先輩、かっこよかったなあ」
 葵くんが身震いに似たようなしぐさをした。
「かっこいいって、マジで言ってんの? 兄貴って、周りに王子扱いされてるのが信じられないくらいに辛辣(しんらつ)だからな? いや高校入ってから辛辣さを隠さなくなった感じか。明らかに『僕』ってキャラなのに『俺』って一人称に変えたのもその時だし……追っかけをする女子の気が知れん」
 葵くんはトランペットのピストンを押しながら続ける。
「でも、入江が練習熱心だからソロにふさわしいってうのは、同意見。なのに神崎たちときたら、あいつらが普段ミーハーって言ってる奴らとやってることが同じだって、分かってんのかな」
「あれは、私があの場にいないと思い込んだから言ったってだけで」
「入江も黙ってないで言い返せばよかっただろ」
「無理だよ。お互い聞かなかったら平和だったって、それだけ。別の場所で練習していればよかったのに……それこそ、屋上とかさ」
「うちの学校、屋上は数年前から立ち入り禁止になってるよ」
「え?」
「兄貴が中学の時はまだ使えたらしくて、フルートの練習をよくしてたんだってさ。二年前から鍵の貸し出しが全面禁止になったって聞いた」
 入り口に鍵がかかっていれば屋上には入れないから、あえて先生も立ち入り禁止だと言ってなかったってことか。てっきりうちの学校では屋上の出入りが自由だと決めつけていた。どうしてそんな錯覚をしていたのか考えて、ふと答えに思い当たる。
 『屋上から飛び降りようと思う』という文言を、ノートで見たせいだ。
「……屋上、立ち入り禁止になってよかったと思う」
「な。危ねえよな」
 つまりノートの主は最初から、屋上から飛び降りることなんてできなかったってことだ。