あのノートの主が校内の誰かであることは間違いないけど、同学年だけで数百人はいるのに、全校生徒の誰が自殺を考えているかなどわかるはずがない。
 誰がノートにSOSを書いたんだろう?
 そんな疑問もあって次の日の朝も図書室に向かってみたけど、鍵がかかっていて入れなかった。
 仕方がないので、朝練のため音楽室に向かった。
 音楽室に一番近い踊り場の、人が少ない静かな階段の陰が私の特等席だ。床にケースを置いて、楽器を組み立てていく。
 今日の合奏では昨日に続いて、菅原先輩が書いた合奏曲を合わせることになっていた。
 先輩が作った合奏曲はゆったりとした幻想的なバラードで、独奏部(ソロ)がある。ソロはたった一人でメロディを吹かなければいけないのだけど、それが私の楽器、つまりユーフォニアムに割り当てられていた。てっきり、先輩がやっているフルートにソロを吹かせると思っていたのに。
 だから、私は毎日の朝練にいっそう必死になっていた。
 作曲家はソロ部分を考えるとき、たぶんその楽器を弾いている人のことを思い浮かべていると思う。まるで作曲家から演奏者に送るラブレターみたいに。
 もしも菅原先輩が、私のことを考えながらソロを作っていたのだとして……。特別感があって嬉しい反面、緊張で胃のあたりがキリキリした。なぜなら──。
「──どうしてソロ、入江さんなんだろうね?」
 今まさに心の中で思っていた言葉が聞こえて、ハッとした。いつの間にか音楽室の前に、朝練に来た別の部員たちがいる。階段の陰にいた私の存在には気づかずにいるようで、声がこちらにまで響いた。
「ね。てっきり神崎さんがやるんだと思ってたよ。直属の後輩だし、フルート一番うまいしさ」
「納得いかない」
 神崎さんの低い声は、他の声よりも強く私の耳に響く。
「二年か三年がいるパートならまだわかる。だけどユーフォは一人しかいないし、入江さんはまだ一年で……。中学から楽器をやってたかもしれないけど、私は四年も菅原先輩の指導を受けてるんだし」
「できんのかな、あの子」
「プレッシャーとかに弱そうだよね、同じ一年なら神崎さんのほうが……」
 私がいないところで、私が聞いているのを知らずに、私のことを喋っている。しかも、あんまりいい気持ちにならないような意見を。その事実に遅れて気づいて、息ができなくなる。
 納得がいかないだなんて、私が一番そう思っている。だけど、先輩が好きだとかそういうことを抜きにして私は楽器が好きだし、先輩の曲が好きだし、そのどちらにも誠実でいたいと思っていた。
 もちろん周りも思うところはあったんだろうけど、今まで一度も話し合いにはならなかったし、岩崎先生や菅原先輩にも特別何も言われなかったから、ソロについては飲み込んでくれていると思っていた。
 ソロをもらえて嬉しくて、菅原先輩から特別なメッセージが込められていると浮かれて、誰よりも早く朝練に来たりして、そんなことをする自分が馬鹿みたい……。そう思った時。
「きみたちさ、俺に何か言うことあるの?」
 低く穏やかな声がした。
「す、菅原先輩……」
 誰かが呆然と名を呼んだ。
「俺はねえ、入江さんが誰よりも早く、誰よりも多く朝練をして、休日も休まず練習してるところを、見たってだけなんだけどな。こうやって俺も時々朝に来て、後輩に教え残したことがないか、みんなのこと見てるからよくわかる」
 菅原先輩の声に、神崎さんたちがしんと静まり返る。
「きみたちの演奏はもちろんそれぞれ素晴らしいけれど、相手のことをもっとよく見ることができれば、さらに上達すると思うよ。吹奏楽は一人ではできないからね」
 その言葉を先輩のそばで聞きながら私は、自分で自分を信じられなかったことを恥じた。先輩は毎日練習している私を見てくれていて、私以上に私のことを知っている。だけど実際の私は必死にならないと演奏についていけないと思っているだけで……それを褒めてくれる先輩とは違って、自分で自分を誇れなかった。