放課後、部活が終わって図書室に急いだ。ギリギリ戸締りはされていなかったので書架を覗くと、やっぱりノートは同じ場所にあった。
開いて、一ページ目を確認する。
『ありがとうございます』
その文字は、消しゴムで消して灰色になった欄に書かれたものだった。
「あ……」
思わず声が出て、私の胸にゾワっとした黒いものが広がる。なんてことをしてしまったんだろう、という後悔が。
この人はきっと『ありがとう』とは別の言葉を書こうとして、消しゴムで何度も消して、吐き出そうとした何かを吐き出せなくて、『ありがとう』と書くしかなかったに違いない。
本当に伝えようとした言葉はなんだったんだろう。『おまえに何がわかる』とか『つらい』とか、そんな言葉たちを飲み込んでしまったのだとしたら……。
消しゴムの跡が、その上にある『ありがとうございます』が、諦めの結果のように思えてならない。
「どうしよう……」
明日になったら、生徒が学校の屋上から飛び降りをしたなんてニュースが朝一番に流れているかもしれない。そんなことになったら、私は……。
そうだ。何か、思いとどまらせるようなことを書こう。続きが気になるようなことならなんだっていい。
私は学校カバンから筆箱を出した。シャープペンを出そうとして他の文房具も床にばらっと落ちる。赤ペンや消しゴム、定規。
その全部を放っておいて、筆を走らせた。
『私には今、好きな人がいます。まだ告白できずにいますが、いつかしたいと思っています。結果がわかるまで屋上から飛び降りるのは待ってくれませんか。
あなたのことも教えてください。
なんで死にたいと思うのか、その理由を誰かに話したら、ちょっと楽になるかもしれません。楽にならなかったらごめんなさい。
お返事待ってます』
「──入江さん?」
「ひゃっ」
耳元で声がして飛び上がった。反射的にノートを閉じてカバンへ突っ込む。
顔を上げると、私の目の前には見知った顔……というか、菅原守先輩が立っていた。
先輩は目元を細めて、手に持った鍵を目線の高さに掲げる。
「もう図書室、閉めちゃうけど」
「あ、はい」
「あれ、消しゴム落ちてる。ペンと定規も。入江さんの?」
先輩は私が散乱させた文房具を拾ってくれた。
一瞬、先輩の指先が触れる。この距離からだと、日焼けの知らない白い肌や長いまつ毛がよく見えた。
誰もが憧れる理想の相手が、私の好きな人が、目の前にいる。
頭が真っ白になる。
「入江さん? どうかした?」
先輩の声に我に返って、文房具を慌てて筆箱にしまった。
「ありがとうございます。あの、先輩って図書委員じゃないですよね?」
「委員の同級生がインフルエンザで、俺が代理」
「な、なるほど……」
そうだったんですね。インフルエンザ、まだ秋なのに早いですね。……そんな他愛のない話をして先輩を引き止めたかった。だけどいざという時に限って声がうまく出ない。
どうでもいいことで引き止めてどうするんだろう。私は先輩からしたらモブみたいなものなのに、抜け駆けみたいに思われないか。何か変な噂になったりしないか。
先輩のことが好きなのに、そんな気持ちばかりがぐるぐる回る。
「受験で忙しいのに、代理とか大変ですね」
絞り出した言葉に、菅原先輩は困ったように笑う。
「大変だとは、別に思わないかな。インフルエンザの子にだって受験があるし、むしろそっちのほうが大変だ」
「あ……」
そっか。先輩にとっては、誰かが困っていたら助けるのは当然のことなんだ。受験対策だって、きっと余裕で合格圏内だろうし。
先輩の懐の深さと、自分の浅はかさを思い知らされたような気がする。
下校時間ギリギリにこんなところにいて、何をやっているのか問いただされてもおかしくなかったけど、先輩は何も言わずに「外で待ってるから」と言って去っていく。
こっちに気を使ってくれたんだろうか。いや、まさか……たかが部活の後輩に話す話題なんてないだろうし、なにより下校時間が迫ってるってだけだろうな。
私はカバンに突っ込んでしまったノートを書架に戻し、図書室を出た。
これでノートの主が、少しでも自殺を思いとどまってくれるようにと願って。
開いて、一ページ目を確認する。
『ありがとうございます』
その文字は、消しゴムで消して灰色になった欄に書かれたものだった。
「あ……」
思わず声が出て、私の胸にゾワっとした黒いものが広がる。なんてことをしてしまったんだろう、という後悔が。
この人はきっと『ありがとう』とは別の言葉を書こうとして、消しゴムで何度も消して、吐き出そうとした何かを吐き出せなくて、『ありがとう』と書くしかなかったに違いない。
本当に伝えようとした言葉はなんだったんだろう。『おまえに何がわかる』とか『つらい』とか、そんな言葉たちを飲み込んでしまったのだとしたら……。
消しゴムの跡が、その上にある『ありがとうございます』が、諦めの結果のように思えてならない。
「どうしよう……」
明日になったら、生徒が学校の屋上から飛び降りをしたなんてニュースが朝一番に流れているかもしれない。そんなことになったら、私は……。
そうだ。何か、思いとどまらせるようなことを書こう。続きが気になるようなことならなんだっていい。
私は学校カバンから筆箱を出した。シャープペンを出そうとして他の文房具も床にばらっと落ちる。赤ペンや消しゴム、定規。
その全部を放っておいて、筆を走らせた。
『私には今、好きな人がいます。まだ告白できずにいますが、いつかしたいと思っています。結果がわかるまで屋上から飛び降りるのは待ってくれませんか。
あなたのことも教えてください。
なんで死にたいと思うのか、その理由を誰かに話したら、ちょっと楽になるかもしれません。楽にならなかったらごめんなさい。
お返事待ってます』
「──入江さん?」
「ひゃっ」
耳元で声がして飛び上がった。反射的にノートを閉じてカバンへ突っ込む。
顔を上げると、私の目の前には見知った顔……というか、菅原守先輩が立っていた。
先輩は目元を細めて、手に持った鍵を目線の高さに掲げる。
「もう図書室、閉めちゃうけど」
「あ、はい」
「あれ、消しゴム落ちてる。ペンと定規も。入江さんの?」
先輩は私が散乱させた文房具を拾ってくれた。
一瞬、先輩の指先が触れる。この距離からだと、日焼けの知らない白い肌や長いまつ毛がよく見えた。
誰もが憧れる理想の相手が、私の好きな人が、目の前にいる。
頭が真っ白になる。
「入江さん? どうかした?」
先輩の声に我に返って、文房具を慌てて筆箱にしまった。
「ありがとうございます。あの、先輩って図書委員じゃないですよね?」
「委員の同級生がインフルエンザで、俺が代理」
「な、なるほど……」
そうだったんですね。インフルエンザ、まだ秋なのに早いですね。……そんな他愛のない話をして先輩を引き止めたかった。だけどいざという時に限って声がうまく出ない。
どうでもいいことで引き止めてどうするんだろう。私は先輩からしたらモブみたいなものなのに、抜け駆けみたいに思われないか。何か変な噂になったりしないか。
先輩のことが好きなのに、そんな気持ちばかりがぐるぐる回る。
「受験で忙しいのに、代理とか大変ですね」
絞り出した言葉に、菅原先輩は困ったように笑う。
「大変だとは、別に思わないかな。インフルエンザの子にだって受験があるし、むしろそっちのほうが大変だ」
「あ……」
そっか。先輩にとっては、誰かが困っていたら助けるのは当然のことなんだ。受験対策だって、きっと余裕で合格圏内だろうし。
先輩の懐の深さと、自分の浅はかさを思い知らされたような気がする。
下校時間ギリギリにこんなところにいて、何をやっているのか問いただされてもおかしくなかったけど、先輩は何も言わずに「外で待ってるから」と言って去っていく。
こっちに気を使ってくれたんだろうか。いや、まさか……たかが部活の後輩に話す話題なんてないだろうし、なにより下校時間が迫ってるってだけだろうな。
私はカバンに突っ込んでしまったノートを書架に戻し、図書室を出た。
これでノートの主が、少しでも自殺を思いとどまってくれるようにと願って。