菅原先輩は父親の親戚が医者の家系で、幼い頃から当たり前のように、実家の病院を継ぐようにと教育を受けていた。中学の時に父親と再婚をして、義母と葵くんが家族になり、フルートに出会った。
 先輩はフルートに夢中になって、大会で賞に至るまで上達した。だけどそれがお父さんとの衝突の原因になって、ついに中三の受験期、初めて手を出された。
 それから物を投げられたりぶたれたりする日々が続いて、ふと、救いを求めるように文房具屋でノートを買って、あの文言を書いた。
 賭けをしたのだという。図書室に置いて、誰かがSOSを見つけてくれなかったら、屋上から飛び降りてしまおうと思っていたらしい。
「入江さんが教えてくれた相談窓口にどうしても電話できなかった時、きみは俺が三年後も生きていることを教えてくれたんだ。いきなり名前を当てられてびっくりしたけど、おかげで相談先に連絡ができて、吐き出す場所も見つけて、父さんに立ち向かうこともできた」
 図書室から学校の近くにある公園に場所を移して、ベンチに座りながら菅原先輩はそう説明してくれた。
「言っていることが全部嘘だって、思わなかったんですか?」
「思ったよ。だから、約束の日まであのノートに返事をしてくれた人間をそれとなく探していたんだ。でも、けっきょく見つからなかった。……三年後、入江さんが入部してくるまではね」
「えっ」
「入江さんの言動を見て、演奏を聴いて、話せば話すほど……この人が俺を助けてくれた人なんじゃないかな、そうだったらいいなと思っていたんだ」
 ベンチに横並びになりながら、前を見ていた菅原先輩が、ゆっくりこちらに首を向ける。
「今日、約束の日に来てくれたのが入江さんでよかった」
 先輩が誰にも見せたことがない、無邪気で甘酸っぱい笑顔を見せてくれた。
 ノートのやりとりを放り出していたら、この笑顔を見ることもできなかったかもしれない。
 諦めないで、勇気を出して一歩を踏み出して本当によかった。
 私は少しだけ、変われたんだ。
「私も、ノートの相手が先輩でよかったです。先輩のおかげで私、自分のことが少しだけ好きになれた気がします」
「入江さん。突然こんなことを言って申し訳ないんだけど……」
 菅原先輩は大きく息を吸って、吐いた。
「入江さんのことが好きです。俺と、付き合ってくれないかな」
「え、で、でも先輩には私が高校(うち)に来る前から好きな人がいるんじゃないですか?」
「それ、入江さんのことだよ」
 先輩が食い気味に答えた。
「三年もの間ずっと、きみが来るのを待ってた」
「それって、ノートのやりとりをした相手を好きになっていたってことですか?」
「それもそうだけど、もちろん俺は入江さんのことをずっと見ていて、ちゃんと好きだと思ったよ。大人しそうな子だけど、向き合うべきことにしっかり向き合っている。自分の意見も胸の中にちゃんとある」
「だ、だから買いかぶりすぎですって。言いたいことも言えないんです、私」
「言いたいことを言えないって、俺には言えるじゃない」
「ソロでも私が見えないって、先輩、言ったじゃないですか」
「それは、ごめん。入江さんがあのノートを書いてくれた人だと思えば思うほど、自分の殻にとじこもろうとしてしまう入江さんを見るのが、つらくて。俺が勝手に、脳内で作り出したノートの相手の理想像を、入江さんに押し付けていたのかもしれない」
 理想像、という言葉にどきりとする。私も先輩に対して『優しくてなんでも受け入れてくれる人』という理想を押し付けていた。
 先輩の顔をじっと見つめると、耳の先が赤くなっていた。いつも穏やかで、誰に対してもまっすぐに優しさを込めて、堂々と物を言う先輩が、告白に緊張をしている。
 菅原先輩は決して王子様でもアイドルでもなくて、私と同じ等身大の高校生だ。
「入江さんのおかげで、俺は変われた。救われたんだよ」
 誰もがみんな、自分の気持ちを出すことは怖い。それでも私のことを好きだとまっすぐに伝えてくれる。
 ノートを通じて不思議な体験をしたから好きになったわけじゃない。
 菅原先輩だから、私は好きになったんだ。
「私も、先輩が好きです。もしよかったら、付き合ってください」
 先輩が弾かれたようにベンチから立ち上がった。
「ほんと!?」
 普段の穏やかな声からは想像もつかないほどの大音声に、先輩は自分自身でも驚いて、慌て口を閉ざした。だけどそのあとも「やった……!」と小さな声で繰り返す。
 その姿がなんだか、ノートのやりとりをしていた時の先輩と重なって、無性に愛おしさがこみ上げてくる。
 先輩が私に手を差し出してきた。
「これからもよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
 握手だと思って差し出した手を、菅原先輩は両手でギュッと包み込んでくれた。
 三年分の思いを受け止めて、私たちはお互いにかしこまった言葉を交わし、緩く手を握る。それがなんだかおかしくて、二人で同時に少しだけ吹き出した。