『あなたが書いてくれた相談窓口に電話したいのですが、スマートフォンをタップする指がどうしても動きません。
 変わりたい。この状況を変えたい。僕は父の道具じゃないんだと訴えたい。
 なのに、どうしても最後の通話ボタンを押せないんです。自分の起こした行動でさらに状況が悪化することが本当に怖くてしかたがないです。
 『電話をするだけなのに』と、あなたは笑ってしまうでしょうか。『せっかくサイトを調べたのに全部無駄になった』と怒り出してしまうでしょうか。
 嬉しかったんです。こうして見ず知らずの人に親身になってくれるあなたの優しさが。
 あなたの厚意を無駄にしたくはないのに、一歩がどうしても踏み出せない僕は、』

 文字は途中で途切れていた。
 文章の合間合間に涙の跡がにじんで、文字がゆらりと乱れている。気づけば私はその上に、新しい涙のシミを作っていた。
 この人は菅原先輩本人じゃなくて、先輩のフリをしているだけかもしれない。だから私がどれだけがむしゃらにノートの主を助けても、菅原先輩の片思いの相手にはなれないし、振り向いてももらえない。
 でもこの人は、私と同じなんだ。
 震えた文字が、涙の跡が、演技や嘘だったなんて思いたくない……!
「あなたはいったい誰なの……?」
 葵くんは、菅原先輩がお父さんに支配されていたのが中三の頃だと言っていた。その後お父さんに反抗して、折り合いをつけて、おそらく現在の菅原先輩のデータベース通り、医大に進むのを条件にしてフルートを続けたんだ。
『¥108』と書かれた、まだ消費税が8パーだった頃の値札シール。学校内で有名な菅原先輩の存在を知らないノートの主。二年前には鍵がかけられているはずの校舎屋上から飛び降りようとしている事実。
 私の頭の中を、ありえない仮説が一気に通り抜けていく。
「このノートは、三年前の菅原先輩とつながっている……?」
 もしそうだとしたら、私がここで書くのをやめた瞬間、一人称を『僕』から『俺』に変えた菅原先輩がこの世界から消えてしまうかもしれない。
 私はシャープペンをとった。たとえ嘘だって、イタズラだって、時空を超えるノートなんてありえなくったって、構わない。
 もしも彼が三年前の先輩だったら、救いたい。このノートに救われて、一人称を『俺』に変えて、ノートの主を私だと気づいて、ソロを振ってくれていたのだとしたら──。
『入江さんを信じる俺を、信じてほしい』
 菅原先輩が信じてくれる私の気持ちを、言葉の限りを、ぶつけたい。

『私が好きな人の名前は、菅原守といいます。
 私は高校一年生で、ユーフォを吹いています。菅原先輩に合奏のソロを見てもらう機会があったのですが、『自分が見えない』と言われました。思っていた先輩と違う一面を突きつけられ、正直に言うとすごく落ち込んでいます。
 ですが、先輩がただ優しいだけではなく、つらい時期を乗り越えたのだと知りました。好きな人のことを三年も想っている、だから諦めろと弟の葵くんにも言われました。
 それでも、私は菅原先輩が好きです。
 まっすぐに言葉をくれるからです。私を信じる自分を信じてほしいと、言ってくれたからです。
 おかしなことを言っている自覚はあります。
 でもたぶん、菅原守さんは、あなたのことではないでしょうか。
 今私がいる時代では、菅原先輩は高校三年生で、みんなの憧れの存在です。でも、過去にこんなにも思い悩んでいるとは、ほとんどの人が知らないでしょう。
 あなたは三年後、吹奏楽部を無事引退します。自作の曲を部員に演奏してもらいます。
 先輩は三年後、私と出会います。
 あなたはお父さんの支配に打ち勝って、生きるんです。決定事項なんです。だから、諦めないで。……お願いです。
 あなたを信じる私のことを、信じてほしい。

 もしあなたが三年前の菅原先輩だとしたら、三年後にまた会ってくれますか。
 2022年10月12日の放課後、図書室で待っています』

 初めて自分の言葉で文を書き切った時、演奏をした後よりもクタクタになっていた。
 下校のチャイムが鳴る。
 もしもノートの主が菅原先輩じゃなかったら、別の誰かの人生をめちゃくちゃにしてしまうかもしれない。菅原先輩だったとしても、未来のことを教えてしまって、運命が変わってしまうかもしれない。
 でも私は、たとえ誰かに影響してしまったとしても、自分の言葉で気持ちを伝えたかった。
「そっか……私、今でも先輩が好きなんだ」
 先輩が王子様みたいに優しく笑うから好きなんじゃない。たとえ強い言葉を使われても、まっすぐに私を見てくれる先輩が好きだ。フルートに一生懸命になる先輩が好きだ。自分が忙しくても、インフルエンザになった同級生のほうが大変だと言ってしまう先輩が好きだ。
 三年前に、届け。そんな思いを込めてノートを書架に戻す。
 涙を拭きながら、図書室を後にした。