その後はどうやって練習をしたのか、あんまりよく覚えていなかった。
 金管セクションのパート練習になった時、リーダーの葵くんに「おい入江」と指されて、やっと我に返った。
「さっきから入江の音だけグダグダなんだけど。やる気あんの?」
「す、すみません」
 私は菅原先輩に言われた言葉を頭の中でかき回していて、その後の練習も散々だった。部活が終わった後は、なんとなく菅原先輩がいる音楽室に残りたくなくて、階段の陰へ逃げるようにしてケースを置き、楽器を片付けていく。
「おい」
 背後からぶっきらぼうに声をかけられて、肩がびくりと震えた。振り返ると葵くんが立っていた。
「さっき『やる気あんの』とか言っちゃったけどさ。もしかして体調悪いの? 顔青いよな」
「う、ううん、平気。ごめん迷惑かけて」
 今さら隠すことでもないと思って、私は菅原先輩にソロを見てもらった時に言われた言葉を葵くんにも聞かせた。
「それで、すごく恥ずかしくなっちゃって……」
 私は先輩の優しさを好きになったんじゃなくて、先輩に甘えたいだけのかもしれない。先輩となら恋人になった後も言い争うようなこともせず、こちらの言うことを笑って受け入れてくれると、どこか夢みたいな理想像を作っていたのかも。
「ああーそういうことか。つか、あいつ余計なことしやがって。金管メンバーのモチベ下げないでほしいんだよな」
 葵くんはそう言いつつ、いつになく真剣な顔つきになり声を落とした。
「兄貴はおまえのこと見て、昔の自分と重ねたのかもしんない」
「え?」
「入江には言ったことあったっけ、兄貴が『僕』から『俺』に一人称変えたって話」
 その話は確か数日前に聞いたので、私は黙って頷いた。
「うちの家って親戚全員が医者で、父親は『医者になれ』、『家を継げ』、『菅原の長男たるもの常に他人を蹴落としてでも一番になれ』って、兄貴が幼い頃からずっと言い聞かせてた。父親は、テストの点数が一点下がっただけで興奮して殴ってくるようなやつでさ」
「え?」
 いつかどこかで聞いたような話に、全身が固まった。
「これは入江にだから言うんだけど、俺の母さん、父親とは再婚したんだ。だから母さんは、連れ子の俺に暴力が間違っても飛び火しないようにって兄貴を助けなかった。俺も小学生で怖くて何にもできなかったんだけど、それがずっと後ろめたくて、つらくて……兄貴もフルートや音楽を続けたい意思を押し殺して、一人で耐えるしかなかった」
「待って、その話……!」
 間違いない。葵くんの口から語られる内容は、ノートの主の話とほぼ一致していた。
 まさか、あのノートの主は……菅原先輩?
 やりたいこと、というのはフルートや吹奏楽のことで、父親にぶたれると言うのは、医者になれと無理やり従わされていたってこと?
 じゃあ、自分が中等部と言ったのは? 文通の相手を私だと気づいてとっさに嘘をついたんだろうか……。
「慰めになるかわかんねえけど、兄貴が入江の演奏を聴いて自分を勝手に重ねたんじゃないかって思ってさ。いい迷惑だよな、まったく」
 気づけば私は、葵くんの言葉をそっちのけで彼の両腕を掴んでいた。
「あ、あの、見て欲しいものがあるの」
「え、ちょ……!」
 私は葵くんを連れて図書室まで行って、書架に挟んでいた新品のノートを取り出して見せた。
「なにこれ……」
「いいから読んで!」
 私は押し殺した声で叫んで、葵くんは文面を目で追い始めた。最初こそ当惑ぎみだったけど、読み進めていくたびに顔をこわばらせていく。
 葵くんの表情を見て、確信した。
「ねえ、これって菅原先輩なんでしょ? 今も先輩ってお父さんに殴られたりしてるの? 誰も助けられないって、一人で悩んでたりする?」
 いままで漠然としていたノートの主の像が、いきなり輪郭を帯びてきたように思えた。もしも菅原先輩が、笑顔の裏で死にたいほど悩んでいるのなら、なんとか助けなきゃ……。
「ふざけてんの?」
 顔を上げた葵くんが険しい表情で吐き捨てたので、とっさに声が出なくなった。
「ここに書かれてること全部、兄貴が中三の時の話なんだけど」
「え……」
 菅原先輩は今、高校三年生だ。中学三年というと……三年前。 
「兄貴は中三の秋頃、父親にブチぎれたんだよ。父親の思い通りにはならないって、大げんかして、父親も自分の身勝手さが兄貴を死ぬほど追い詰めてたって気づいて、いろいろ話し合ってさ。それからなんだよ、兄貴の一人称が『俺』になったのも、好きな人がいるっていうのを隠さなくなったのも」
 葵くんは私を睨みつけながらノートを突き返してきた。
「どうやって兄貴の過去を調べたのか知らないけど、俺を使って、こんなことまでして兄貴に取り入ろうとすんなよ。ミーハーよりタチ悪いぞ」
「うそ……だってそんなわけない! この文のやりとりは、ついこの一週間から続けてきたことで……!」
 言葉が最後まで出てこなかった。
 だって葵くんが、信じていたのに裏切られたという表情をしていたから。私が〝ミーハー〟とは違うっていう彼の信頼を、打ち砕いてしまった。
 ああ……葵くんにはもう何を言っても信じてもらないだろうな。
「言っとくけど、兄貴の片思いの相手は少なくとも入江じゃないから。そいつのこと好きなのは三年前からだし、その頃のおまえはまだ兄貴と会ってないだろ。だから、過去の境遇に同情して近づいたって意味ないと思う」
 葵くんはそう(まく)し立てた後、ここが図書室だと気づき口をつぐんで、静かに私へ背中を向けて去っていった。
 私はただ、ノートを握りしめて立ち尽くすしかなかった。
 意を決して自分なりの言葉で相談したのに、私も葵くんのどっちも傷ついただけじゃない。
 涙が溢れてくる。
 ノートの主は、菅原先輩の過去を調べ上げて私に先輩の演技をしていたとでもいうのか。
 許せない。私の気持ちを返してよ。
「こんなノートがあるからいけないんだ……」
 はち切れそうな思いを最後に相手へ書き殴りたくなって、ノートの最後のページをめくる。
 そこには、ノートの主の新しい文言が書かれていた。