部活前に現れた菅原先輩は、葵くんに話を聞こうと群がっていた女子生徒たちにとっては不意打ちだった。部内もいつもよりざわめいているような気がする。一人がやってきただけでその場の空気を変えてしまうカリスマのような人、それが菅原先輩だ。
 そんな人と教室で二人きりなんて信じられない。
 菅原先輩は椅子に手をつけて、いつもと変わらぬ様子でこちらに微笑みかける。私がどれくらい緊張しているかなんて、知りもしないんだろう。
「じゃあ、ソロ吹いてみよっか」
「は、い……」
 声が裏返る。ユーフォのマウスピースに唇をつけて、息を吸う。指がいつものように動かない気がする。何を考えればいいのか。何を伝えればいいのか。目の前の菅原先輩に向かって吹かなきゃいけないのに、普段どう楽器に息を吹き込んでいたのかも思い出せず、私は必死に十数小節のフレーズを吹ききった。
「うん」
 菅原先輩がうつむかせていた顔を上げる。
「入江さんが見えないね」
「……え?」
「楽譜通りに弾いてはくれているけど、同時に個性もない」
 菅原先輩の口から出てくるとは思えないような言葉の一つ一つに、私の脳が揺さぶられた。
「思いあまって音が裏返ってしまっても、テンポが外れてもいい。俺はもう一度(・・・・)……きみの主張が聞きたい」
 技術は問題ないし、ミスもないんだけど……と、先輩は指導を続けるが、私の耳にはほとんど入ってこない。
 今すぐ「違うんです」と叫びたくなった。
 私に『自分』がないのは自分でわかっているんです。でも、自分の言葉で余計なことを言って、相手が困ったり迷惑に思ったりするくらいなら、大勢の人の集合知をそのまま倣ったほうがいいじゃないですか。
 ──あの日書こうとして消してしまった、ノートの主への言葉が頭に浮かぶ。
『いつか、あなたと会って話がしてみたいです』
 あの言葉だって、相手にとっては迷惑じゃないですか。
 関係を悪化させてしまうくらいなら、状況が良くも悪くもならないように維持するのがいいに決まってるじゃないですか。
 ……だけど、先輩が変わらず柔らかく笑っていたので、そんな言い訳じみた言葉も言えずじまいだった。とっさに反論しようとしたのが恥ずかしい。それこそ我を通してまで先輩に意見するなんて、間違っているんじゃないか。
「ご、ご指導ありがとうございます」
 この期に及んでも、そう言って頭をさげるしかできなかった。
 個性がない。自分がない。何も言えない。言うのが怖い。誰かの右に倣えをしているだけの、コンプレックスだらけの自分が浮き彫りになっていく。
 それ以上に、私は心のどこかで、菅原先輩ならすぐに実践できるようなコツや細かい技術的な指摘をくれると決めつけていた。まさかこちらが受け止めて困るような、抽象的なことをあんなに強い言葉で聞くなんて思ってもいなくて。
 朝練で神崎さんたちの陰口に抗議を申し出てくれたから、私の演奏を肯定してもらっているものと甘く考えていた。