「──さ、梓!」

揺り動かされて目を開ける。シンが切羽詰まった顔で私を覗き込んでいた。昨夜、あれだけ失礼なことを言ったくせに何食わぬ顔して部屋にやって来たことに憤りを感じたが、様子がおかしい。
長い前髪から覗く瞳は血の色に似ていたはずなのに、とても明るい朱色に見える。それもそのはず、朝でも薄暗いこの部屋が妙に白々とくっきりその輪郭を見せている。
朝日が照らす、私が知っている早朝の眩しさだ。

「ど、どうしたの」
「時間切れだ。お前も御役御免だよ」

随分時代がかった言い回しをするんだな、と何処かで冷静に考える。けれど、それは言葉の意味に至らないように逃げているだけだ。
寝起きではっきりしない私の目を覚ますため、シンは噛んで含めるようにゆっくり言葉を続ける。

「魔界は崩壊寸前だと言った。寸前が取れただけだ」
「それ、って」

見せた方が早いと思ったのか、シンは窓辺に立つとカーテンを引いた。
途端にまばゆい朝日が、朝はかくあるべしという正しい光を持って部屋を白く染め上げる。

「これが朝日ってやつなんだろ。白魔道士か聖女か知らんが、特大級の白魔法だ。こっちが弱体化しているところを徹底的に根絶やしにかかってきたようだな」

──清らかで美しい、反吐の出るような正しい世界に塗りつぶされるってわけだ。
そう毒づいたシンの横顔は、逆光で輪郭だけしか見えない。

「シンは……それでいいの」

私の問いには直接答えず、顎でこちらに来るように促されてベッドから下りる。バルコニーに連れ出されて下を見れば、目が痛くなる程に白い光の球が真珠のネックレスのように連なって城を囲んでいた。その球がガリガリと崖を、外壁を侵食していく。

「この部屋もその内ああなる。来い」

廊下にも光が溢れていた。
薄明かりだけを頼りに恐る恐る歩いていたのが嘘のように、駆け足でシンの背中を追って魔王の眠る部屋に入る。
分厚いカーテンでも遮られない力強さを轟かせた太陽が、天蓋付きのベッドとその主を煌々と照らし出していた。
昨夜から変わらないその姿は、闇の中での朧気な記憶より弱々しく見える。照らし出される程に魔力が──そして生命が、蒸発していく錯覚に襲われて膝の裏が震えた。

「術者の生命が尽きれば、お前を縛り付けている鎖も解ける」

頭の中を覗かれたようなそのひと言に肩が上がる。隣を見上げるが、シンは私を見ていなかった。

「お前が解放されるが早いか、この城ごと光に消えるのが早いか──最後の運試しだな」

他人事のような口振りに唇をわななかせながら言葉を振り絞った。

「もし、私が先にいなくなったら、貴方たちは」
「……言わせたいのかよ、魔族より性格悪いな」

片方の眉だけ釣り上げて嗤うシンは父親が眠るベッドの端に腰を下ろした。力の抜けた上半身が前に傾ぐ。

「最初から勝ち目はなかったってワケか。面倒なことに巻き込んだな。悪かった」
「なに……それ」
「俺はここで滅びを待つ。お前は好きにしろ。外に出て魔族に攫われた一般人ですーって喚けば、待ち構えてるお優しい勇者様やらが助けてくれるかもしれねえぜ」
「そんなの……信じてもらえる保証は無い、でしょ」
「ごもっともだな」

シンはひらりと手を振って、そっくり返る。顔を決して見せたくないのだと気がついた。
何と声をかけるべきか逡巡していると、そよ風のような弱々しい羽音と共にクロとヤミが近寄ってきた。

「ゴシュジン、バイバイ?」
「ゲンキデネ」

キュウ、と弱々しい鳴き声。濡れた黒い瞳。
もう自分たちの運命を悟りきっているのだと伝えてくるまなざしに胸が痛くなる。
こんな──こんな終わりが、あっていいはずがない。

「……馬鹿、言わないで!」

ぐるぐると回転するだけ回転して定まらない感情が、ようやく出口を見つけた。

「シン! あんた魔王の息子でしょ、しぶとくしたたかに生きなくてどうするの! 倒しても倒しても鬱陶しいほどに湧いてくるのが悪役よ。今のあんたみたいに竹を割ったように諦めがいいなんて魔王の風上にもおけない!」

ようやくシンがこちらを見た。信じられないものを見る目つきだ。その瞳に挑まれているように感じて、受けて立とうと言葉を重ねる。

「崩壊寸前だろうと魔界の王子でしょ、身分あるものは従えるものを守らなくてどうするの!」

呆気に取られているクロとヤミを腕に抱く。すっぽり収まってしまう温もりが確かに脈打っていて、どっと胸が熱くなった。

「クロとヤミは私を助けてくれたの。最初の夜からずっとそばにいてくれた。慕ってくれた。私はこの子たちの“ゴシュジン”なの。見捨てるなんて絶対しない! 愛ってのは男と女が抱き合って乳繰り合うだけじゃなくて、誰かのために身を投げ打てる勇気のことでしょ!」

目の前がチカチカして白くなってくる。血圧が上がり過ぎなのかもしれない。
こんなにも言葉がぽんぽんと溢れ出てくるのが自分でも信じられない。一度決壊した感情の奔流は留まることができなかった。
シンが、クロとヤミが、何かを言っているけれど耳の奥でどくんどくんと鼓動がうるさくて聞こえない。
聞こえないのに──

「──よう言うた!」

空気が爆ぜる音がした。
朝日に弱々しく揺れていた燭台の炎が一気に力を増す。溢れんばかりの紫炎がドロリと凝って漆黒となり、部屋全体が光を駆逐せんばかりに夜へ戻っていく。
霧が。
どこまでも力強く禍々しい黒い霧。
瘴気と喩えるのが相応しいはずなのに、無意識に勝利の狼煙に見えて息を飲む。
シンがベッドから転げ落ちた。助け起こそうと駆け寄る。

「……ちちうえ」

半身を起こした魔王が私達を見下ろしていた。

「劣勢に立たされてこそ、我らが魔族の見せ所よ。土壇場上等、ドラマチックで盛り上がるわい!」

カッカッカ、と呵呵大笑したその目尻に刻まれた深い皺が恐ろしくも頼もしい。ぽかんと口を開けている私に、魔王は今までに見せたことの無い穏やかな笑顔を見せた。

「梓、ようやってくれた。亡き妻──シンの母親に勝るとも劣らん啖呵を切ったな」
「えっ、お、お母様?」

いきなり知らない人のエピソードを持ち出されて虚をつかれた私を置き去りに、魔王はころりと表情を変えて歌うようにシンを茶化す。
「そこの腑抜け、それでもワシの息子か! そんなんでは一生かかっても梓を口説けんぞ」
「ばっ……そんなんじゃねえ!」
「ふん、おおかた最期の時まで一緒にいたいだとか、消える直前に気持ちに気づくだとか、そういうベタなお涙頂戴を妄想して酔ってたんじゃろ。そんなお約束、飽き飽きするわい」
「ああ〜もう! 人の話聞けって!」

地団駄を踏む息子とおちょくって遊ぶ父親──感動の再会はハンカチ必須なのかもしれないけれど。

「あ、あの! この部屋はともかく、外はまだ白い光に囲まれてますよ。どうするんです──」

言い切る前に耳元で何かが弾け飛ぶ音がした。咄嗟のことに辺りを見渡すこともできず固まっていると、視界がどんどん傾いていく。
自分の平衡感覚がおかしくなったのかと思いきや、部屋が──否、城が崩れているのだ。
取り囲む光の圧に耐えきれず窓ガラスが割れている。
ブラックホールに吸い込まれるように燭台が窓の外に放り出されたのを目の当たりにして背骨が掴まれたような恐怖感に身を竦めたのも束の間、私自身も部屋の傾きに合わせて窓に投げ出されそうになる。

「うそっ、や、いやあっ」
「梓っ!?」

伸ばされたシンの手が上手く掴めない。
ぶわ、と体が浮きかけた時──

「ゴシュジン!」
「アブナイ!」

私の背中に回り込んだクロが体当たりしてシンの方に突き飛ばす。
ヤミは窓の外に飛び出して大きく翼を広げた。

「ゴシュジン、マモル!」
「シロ、マモル!」

くりくりとした黒い瞳が紫に燃える。
シンに抱き止められた腕の中で見たのは、二匹の小さな体躯を核として膨張した炎の翼だった。
滑り落ちるサイドテーブルが、燭台が、クロの翼に堰き止められる。
傾いていくばかりの視界が平行に戻されて、がくんと一度大きく揺れた。
窓の外でヤミの翼が外壁を支えて滑落を食い止めてくれたのだ。

「クロ、ヤミ!」

手を伸ばせばクロとヤミはたちまち私に飛びついてくる。先程の揺らめく炎は見る影もなかった。

「ゴシュジン、ホメテ!」
「ヤレバデキル!」
「す、すごいよ! あんなことできたんだね、えらい……!」

飛んでは食べてばかりを繰り返していた二匹にこんな力があるなんて。
嬉しさのあまり固く抱きしめて撫でていると、シンが「このくらい使い魔なんだから当然だろ」と呆れ気味に水を差してきた。

「まあそう言うな。主人たる梓の想いに応えた結果であろう。どうやら愛の力というやつは、まこと劣勢を跳ね返す堅牢な盾であることよ」

したり顔の魔王が砕けた窓ガラスに指を向ければ、たちまち床の破片が形を成して再び窓枠に嵌っていく。
しかし直す傍から周囲の白い光の球が城全体を押し潰さんばかりに迫ってくるのだ。闇に覆われた中だからこそ僅かな光が亀裂となって襲いかかってくるようで、気の休まる暇がない。
片手で私を抱きしめたシンが四方に炎を巡らせる。
すべて無に帰す白が紫炎に牙を剥く。
黒い霧が光を押し戻す。
息の詰まる一進一退の攻防の最中、真上から白い矢の雨が降り注ぎ黒の防御が崩れた。
押し流すような光の束が穴の空いた天井から私たちを狙い撃ちにしてくる。

「ふんッ!」

魔王の黒い霧が天井を覆って光の束を押し返す。しかし病み上がりと言ってもいい体だ。真下からの突き上げるような激しい気配にまで割ける余力は無いようだ。
クロとヤミも炎を床に広げるが猛攻はおさまる気配がない。

「シン、下が!」
「わかってるよ! クソ、どうすれば……」

ずどん、と脈打った床が割れる。勢い良く突き飛ばされると、私たちが居たところから光の槍が突き出てシンの脇腹を抉った。
かは、と声にならない呻きが血と共にシンの口を伝う。

「シン!」
「くっ……そ、やってくれたなァッ!!」

ぶわりと長い前髪が舞い上がる。血の色に沸いた瞳の奥で喩えようのない激情が咆哮した。
目の前がぐらぐら揺れる。
城が崩れているからなのか、それともシンの激情にあてられているからなのか。
わからないまま、なんとかシンに近づこうと床を這う。
伸ばした手を掴まれて顔を上げる。シンがまっすぐ私を見つめていた。

炎が燃え盛るあかいひとみ。
血に濡れたあかいくちびる。

魅入られたようにゆっくりと彼の頬に手を添える。視界の端でアミュレットが揺れた。
クロとヤミの声が聞こえる。
最初に教わったアミュレットの使い方。

「──シン」

祈りを込めて名前を呼ぶ。
頷いたシンが顔を近づける。
私たちの距離が埋まる直前、シンの唇が吐息で私の名前を呼んだ。

「────…………梓」

血の味が、口の中に広がった。