夜はなかなか寝つけなかった。
ころん、と何度目かの寝返りを打って、真っ暗な視界に目が慣れるまでぼんやりと闇を見つめる。
梓、とぶっきらぼうに呼び捨てられる声音がだんだん柔らかくなってきていることに、シンは気づいているんだろうか?
指摘したら機嫌を損ねる気がして言えずじまいだけれど、これは良い兆候だ。シンは誰かを想う心を知っている。ただ、それを意識してこなかっただけなのだ。
奇しくも父親が倒れたことで、居合わせた私に発露しているのだろう。
身内相手では照れ臭くて認められなかった感情と向き合わせる──確かに、世界すら異なる私にならば、旅の恥はかき捨てレベルにまで希釈できるのかもしれない。ここまで考えて召喚の儀式に踏み切ったなら、魔王天晴れだ。
愛情は男女間のものだけを指すわけではない。
彼自身が自覚したその感情を、父親のみならずクロやヤミなど使い魔たちにも向けてやれば、きっと打開の決め手になる。
そんなことをつらつらと考えていたら何となく方向性が定まった。小学生の道徳の授業を実践する要領かもしれない。
「よし、すっきりしたことだし本当に寝よ……?」
扉の向こうで音がした。
足音だ。
シンだろうか。それともまだ見ぬ他の魔族?
はたまた侵入者?
見えないままで巡らせる思考はどんどん切羽詰まったものになる。
起き上がってカーディガンを羽織る。手首に巻いたアミュレットを握りしめてそっと扉を開けた。
暗くて何も見えない。
明かりをつけるべきだろうか。けれど、足音の主が侵入者だとしたら、こちらの居場所を教えてしまうことになる。
葛藤してアミュレットを握りしめる。
厭な汗が背中を伝ったところで──
「梓」
「ひゃあっ」
シンが目の前に立っていた。
流石に暗くともこの距離ならわかる。
「何してんだ」
「し、シンこそ」
「俺はいいんだよ」
そのまま会話を断ち切って踵を返す彼の袖を咄嗟に掴む。
「…………んだよ」
「大丈夫?」
顔色が悪い気がしたのだ。私の手など振り解こうと思えば振り解けるし、そもそも握らせないはずだ。それがそうたやすく、となると心配にもなる。
暗闇で表情を悟らせるギリギリの距離でも、離れようとは思わなかった。
「着いて来い」
「えっ」
「嫌なら来なくていい」
「い、行く」
ぎゅっと袖口を握り直してシンの後を追った。明かりをつけていいのかわからないし、消したまま離れられたら確実に方向感覚を失う。
何度か曲がり角に差し掛かったかと思いきや、何も言わずシンが階段を上がったせいで段差に思いっきり蹴躓いた。彼の背中に鼻からダイブし、転ぶまいと袖口どころか腕全体にしがみつく。
「おい」
「か、階段あるなら言って……!」
不機嫌を隠そうともしない声音に慄きながらも何とか言い返せば、シンは手のひらから紫色の炎を出して足元に浮かべた。
私たちの三歩先くらいを逃げ水のようにふよふよ漂うそれのおかげで、ようやく自信を持って歩き出せる。
「……ありがとう」
返事のないままもうしばらく歩く。
蔦のような装飾がなされた扉の前でシンは深くお辞儀をした。慌ててそれに倣う。
夜の闇が具現化したような重たい音がお腹に響く。開いた扉の向こう側には天蓋付きのベッドに横たわる彼の父親──魔王がいた。
金の燭台には足元と同じ紫色の炎が灯っていて、部屋全体を最低限の明るさに保っている。
青白い横顔は、ひっそりとした炎の色のせいだけでは無いだろう。
「……お父様は」
「あれから何も変わらない。魔力は空になったが器が割れたわけではない。器が満ちれば目を覚ますだろう」
「どうやって……満たすの」
「生きている限り魔力の根源が失われることはない。時間をかけるか、何かきっかけが必要だ」
そう説明したシンは魔王の腹部あたりに手をかざす。朝焼けの乱反射のような明るい紫の光が輪になって体に吸い込まれていった。
はあ、と深く息をつく彼の額には脂汗が滲んでいた。
「もしかして、顔色悪いのって」
「……少しでも足しになればと俺の魔力を分けてる。気休めだがな」
手元のアミュレットに目を落とす。それをかざそうとしたら手首を握り込まれた。
「やめろ」
「これ、貴方の魔力の一部なんでしょう。全部を空にすると私を生かしておくのに支障が出るなら最低限だけ残せば──」
そう言い募るが、ハッと鼻で嗤われた。
「お前にそんな微調整ができるかよ」
「だけど」
「これは俺らの問題だ。退け」
思うところはあったもののの、きっぱり宣言されて頷くより無い。解放された手首はまだ熱かった。
「私に……手伝えることは」
「最初の条件以外、何もねえよ。余計な気を回すな。だいたいお前、巻き込まれた被害者だろうが。ここに縛り付けてる張本人を心配してる場合か」
「確かにそうだけど……こんなの、見せられたら」
「あーあー俺のせいかよ。どこに行くだの何してるだのチョロチョロうるせえから情報出してやったら妙な同情か? おめでたいこったな」
「ひどい……!」
確かに巻き込まれた身だけれど、こうして苦しんでる姿を見たら何かできないか考えただけなのに。
「部屋に戻れ」
扉が開いた先にはクロとヤミが飛んでいる。あの自由気ままな二匹が決して部屋に入らず私を待っていた。
無言で踵を返して部屋を出る。
「──梓が…………なら」
「え?」
聞き返すより先に、再び扉は唸り声を上げて閉まった。
元来た廊下を歩いて部屋に戻り、ふて寝するようにベッドに伏せた。クロとヤミは何も言わない。何か察しているのだろう。
何も考えずに目を閉じて、夢も見ずに眠りに落ちていた。
ころん、と何度目かの寝返りを打って、真っ暗な視界に目が慣れるまでぼんやりと闇を見つめる。
梓、とぶっきらぼうに呼び捨てられる声音がだんだん柔らかくなってきていることに、シンは気づいているんだろうか?
指摘したら機嫌を損ねる気がして言えずじまいだけれど、これは良い兆候だ。シンは誰かを想う心を知っている。ただ、それを意識してこなかっただけなのだ。
奇しくも父親が倒れたことで、居合わせた私に発露しているのだろう。
身内相手では照れ臭くて認められなかった感情と向き合わせる──確かに、世界すら異なる私にならば、旅の恥はかき捨てレベルにまで希釈できるのかもしれない。ここまで考えて召喚の儀式に踏み切ったなら、魔王天晴れだ。
愛情は男女間のものだけを指すわけではない。
彼自身が自覚したその感情を、父親のみならずクロやヤミなど使い魔たちにも向けてやれば、きっと打開の決め手になる。
そんなことをつらつらと考えていたら何となく方向性が定まった。小学生の道徳の授業を実践する要領かもしれない。
「よし、すっきりしたことだし本当に寝よ……?」
扉の向こうで音がした。
足音だ。
シンだろうか。それともまだ見ぬ他の魔族?
はたまた侵入者?
見えないままで巡らせる思考はどんどん切羽詰まったものになる。
起き上がってカーディガンを羽織る。手首に巻いたアミュレットを握りしめてそっと扉を開けた。
暗くて何も見えない。
明かりをつけるべきだろうか。けれど、足音の主が侵入者だとしたら、こちらの居場所を教えてしまうことになる。
葛藤してアミュレットを握りしめる。
厭な汗が背中を伝ったところで──
「梓」
「ひゃあっ」
シンが目の前に立っていた。
流石に暗くともこの距離ならわかる。
「何してんだ」
「し、シンこそ」
「俺はいいんだよ」
そのまま会話を断ち切って踵を返す彼の袖を咄嗟に掴む。
「…………んだよ」
「大丈夫?」
顔色が悪い気がしたのだ。私の手など振り解こうと思えば振り解けるし、そもそも握らせないはずだ。それがそうたやすく、となると心配にもなる。
暗闇で表情を悟らせるギリギリの距離でも、離れようとは思わなかった。
「着いて来い」
「えっ」
「嫌なら来なくていい」
「い、行く」
ぎゅっと袖口を握り直してシンの後を追った。明かりをつけていいのかわからないし、消したまま離れられたら確実に方向感覚を失う。
何度か曲がり角に差し掛かったかと思いきや、何も言わずシンが階段を上がったせいで段差に思いっきり蹴躓いた。彼の背中に鼻からダイブし、転ぶまいと袖口どころか腕全体にしがみつく。
「おい」
「か、階段あるなら言って……!」
不機嫌を隠そうともしない声音に慄きながらも何とか言い返せば、シンは手のひらから紫色の炎を出して足元に浮かべた。
私たちの三歩先くらいを逃げ水のようにふよふよ漂うそれのおかげで、ようやく自信を持って歩き出せる。
「……ありがとう」
返事のないままもうしばらく歩く。
蔦のような装飾がなされた扉の前でシンは深くお辞儀をした。慌ててそれに倣う。
夜の闇が具現化したような重たい音がお腹に響く。開いた扉の向こう側には天蓋付きのベッドに横たわる彼の父親──魔王がいた。
金の燭台には足元と同じ紫色の炎が灯っていて、部屋全体を最低限の明るさに保っている。
青白い横顔は、ひっそりとした炎の色のせいだけでは無いだろう。
「……お父様は」
「あれから何も変わらない。魔力は空になったが器が割れたわけではない。器が満ちれば目を覚ますだろう」
「どうやって……満たすの」
「生きている限り魔力の根源が失われることはない。時間をかけるか、何かきっかけが必要だ」
そう説明したシンは魔王の腹部あたりに手をかざす。朝焼けの乱反射のような明るい紫の光が輪になって体に吸い込まれていった。
はあ、と深く息をつく彼の額には脂汗が滲んでいた。
「もしかして、顔色悪いのって」
「……少しでも足しになればと俺の魔力を分けてる。気休めだがな」
手元のアミュレットに目を落とす。それをかざそうとしたら手首を握り込まれた。
「やめろ」
「これ、貴方の魔力の一部なんでしょう。全部を空にすると私を生かしておくのに支障が出るなら最低限だけ残せば──」
そう言い募るが、ハッと鼻で嗤われた。
「お前にそんな微調整ができるかよ」
「だけど」
「これは俺らの問題だ。退け」
思うところはあったもののの、きっぱり宣言されて頷くより無い。解放された手首はまだ熱かった。
「私に……手伝えることは」
「最初の条件以外、何もねえよ。余計な気を回すな。だいたいお前、巻き込まれた被害者だろうが。ここに縛り付けてる張本人を心配してる場合か」
「確かにそうだけど……こんなの、見せられたら」
「あーあー俺のせいかよ。どこに行くだの何してるだのチョロチョロうるせえから情報出してやったら妙な同情か? おめでたいこったな」
「ひどい……!」
確かに巻き込まれた身だけれど、こうして苦しんでる姿を見たら何かできないか考えただけなのに。
「部屋に戻れ」
扉が開いた先にはクロとヤミが飛んでいる。あの自由気ままな二匹が決して部屋に入らず私を待っていた。
無言で踵を返して部屋を出る。
「──梓が…………なら」
「え?」
聞き返すより先に、再び扉は唸り声を上げて閉まった。
元来た廊下を歩いて部屋に戻り、ふて寝するようにベッドに伏せた。クロとヤミは何も言わない。何か察しているのだろう。
何も考えずに目を閉じて、夢も見ずに眠りに落ちていた。