「……ん」
「おい、梓、起きろ」
「んんん!!?」

聞きなれない声に慌てて飛び起きた。見ればベッドにシンが腰掛けている。

「な、なな、なんで」
「朝だ。様子を見に来た」
「朝?」

窓を見ても、カーテン越しとはいえ朝日が射し込むような明るさではない。これで朝なのか。体内時計がおかしくなりそうだ。それよりどうして──

「鍵、かけたのに」
「俺にそんなものが通用するか?」
「……魔法って不法侵入も許されるんですね」
「違う。この城のセキュリティはそんなにヤワじゃない。お前がかけた鍵もきちんと機能している。それを突破できるのは俺がそれを上回る魔力を持っているからだ」

つまり弱ければプライベートな空間で眠ることもできないのか。いくら魔界とはいえ弱肉強食すぎる。

「わ、わかりましたから離れてください。私、昨日はお風呂入れてないんです」

腕を突っ張ってしっしっと遠ざけようとするが、シンはさして気にした様子もなく私の手首を掴むと小さな紫色の石を握らせた。細いチェーンがついていてアミュレットのようだ。

「お前が持っていてもくたばらない程度の魔力を入れてある。この城の動力源は魔力だ。これで湯も沸かせる」
「そんな便利グッズあるなら昨日渡してくださいよ……!」

そう言った直後に、昨日は彼とてそれどころではなかったのだと思い至って、慌てて口を噤んだ。
自業自得とはいえお父様が昏倒したのだ。客人へのもてなしが不充分なのは仕方ない──と思いつつも、私とて招かれたくてやってきた客人ではないのだから配慮してくれ、と心の中だけで抗議した。
そんな胸中など一切通じていない彼はそ知らぬ顔でベッドから立ち上がる。

「必要なものはこの部屋に用意させた。足りないものはコウモリに頼め。湯を使ったら下で食事を摂れ。それが終わったら本題に入る」

それだけ一気に言い放ってシンは部屋を出て行った。
再び静かになった部屋で、私の周りをコウモリ二匹が囲んで飛んでいる。

「えっと……」

片方がクローゼットの辺りに移って高く鳴いた。開けろということか。
軋む扉をそっと開ける。昨日は空だったそこにはモノトーンの服が多く掛けられていた。
更に調べてみたら下着や靴もある。どう見ても男所帯なのに女物があるのが解せなかったが、かつては女性の魔族も多くいたのだろうと結論づけた。
バスルームにはもう一匹のコウモリがいた。コウモリと入浴するのはかなり抵抗があるが、頼れるのは彼らしかいないのだ。
服を着たままバスルームに入り、蛇口をひねってもやはり水しかでない。
このアミュレットでお湯が出せるそうだが使い方がわからずにいると、キィキィと鳴いて両の翼を前に合わせて拝むようにしている。祈れ、ということか。

「ええと……お湯、出て!」

その瞬間、真上にあったシャワーヘッドからゲリラ豪雨もかくやという勢いで熱湯が降り注いだ。

「ひゃあああ!! あっつ! 熱い! ストップ!!」

ずぶ濡れで悲鳴を上げながら念じるとぴたりと熱湯は止まった。

「そ、そういうことなの……」

床にくずおれて肩で息をしていると、先程の熱湯が直撃したコウモリが床で目を回していた。
慌てて掬い上げて介抱すれば、すぐに意識を取り戻してバスルームの外で待っていた仲間の元へ飛んで行った。図らずもこれでコウモリと入浴せずに済んだかと思うと、人間万事塞翁が馬である。

「入浴に適した温度と水量を保ってください」と念じることで無事にバスルームから生還した。
漠然とした内容でも叶えてくれるのは有難いが、チュートリアルにしては難易度が高すぎはしないだろうか。魔界はこれが標準なのか……
クローゼットから選んだ白のブラウスと紺色のロングスカートを身に着ける。靴は動きやすいようにローヒールのものにした。
髪を乾かし、着ていた服も洗濯して乾かすことができた。魔法様々である。
昨夜あれほど怖かった鏡台だが、意を決して観音開きの戸を開けば、何の変哲もないただの鏡だ。拍子抜けして座り、髪を梳る。
鏡の向こうではコウモリが飛んでいる。熱湯に撃たれたことなど忘れたかのように元気なようだ。どちらが被害者だったか、と目を凝らしていると、翼の内側に赤みが見えた。火傷の痕かもしれないが飛ぶには支障がなさそうだ。

「見た目も殆ど同じだし……名前をつけていい?」
「キィ!」

元気よく返事をされたのは肯定だろう。

「黒いからクロ? いや安直過ぎるし両方とも黒いものね。ううん、クロ太郎……いや、性別がわからない。ええと……」

視線を泳がせて窓の外を見る。相変わらずの闇だった。

「……闇か。うん。クロとヤミにしよう」

貴方がクロ、貴方がヤミね、と人さし指を杖のように揺らして教えれば、彼らは一層甲高く鳴いた。喜んでくれているようだ。

「クロ! ナマエ、ウレシイ!」
「ヤミ! ゴシュジン、アリガト!」
「いえいえどういたしまして……って、えっ? 言葉ぁ!?」
「ゴシュジン、ゴハン、コッチ!」
「ゴシュジン、ハヤク!」

名前をつけただけなのに、一体何が起こったのかちんぷんかんぷんな私を置き去りにして、クロとヤミは部屋を飛び出して行く。
慌てて後を追って口を開けた。クロとヤミが通るなり、廊下も階段も昨日とは打って変わって宮殿かと見紛うほどに整いだしていく。
昨夜、私が引っこ抜いた手すりもぶち抜いた床も最早何処だったのかわからない。

「ま、魔法、なの……?」

もう考えるのが面倒になってきた。
ダイニングには鏡のように光を放つカトラリーが用意され、温かいスープとパンを始めとして卵料理にパイやら果物までずらりと並べられていた。とても美味しそうで、普段なら飛びつくところだけれど、正直この状況で食べ切れる自信はない。

「ええと、クロとヤミは食べるのかな」
「タベル!」
「あっはい、どうぞ」

適当に取り分けた皿を差し出せば、二匹は競うように食べ始めた。その旺盛すぎる食欲に面食らいつつパンにバターを塗って頂く。

「……美味しい!」

そういえば昨晩は食べていなかったと思い出したら急にお腹が空いてきた。もうひと口、ふた口と手が止まらない。
さっきまで食べきれないと断言していたくせに変わり身が早いと我ながら呆れるが、そのくらい美味しいのだ。クロとヤミががっつくのもわかる気がする。

「オムレツも頂いちゃおうかな……ああでも朝から多いかな……」

ほかほか湯気を立てるお皿を前に葛藤していると、ふいに料理に影が差した。

「食うなら食え」
「うわっ!」

背後から声をかけられ座面から文字通り飛び上がる。椅子からずり落ちかけた体ががくんと傾いだが、寸でのところで抱きとめられた。

「何やってるんだ」
「び、びっくりした……」

見上げればシンが私の体を支えてくれていた。彼の腕にしがみつきながら座り直す。

「あの、ありがとうございました」
「別に」

斜向かいにある椅子を引いて座った彼は昨日より少しラフな格好だ。上衣がなくダボッとしたシルエットの服はやはり黒かった。彼は何も言わずテーブルの上の料理を眺めていたが、そこで食事をしているクロとヤミを見て、ぎょっとした風に眉間に皺を寄せた。

「おい、ここで食事するな」
「ゴシュジン、ドウゾ、イッタ!」
「クロトヤミ、タベル!」

使い魔って口答えしていいのかとツッコミつつ、オムレツを頂こうとフォークを手にした時、シンがにんまりと笑ってこちらを見た。

「早速手懐けるとは、意外とやるな」
「名前をつけたらいきなり喋りだして……あの、ダメでした……よね?」
「いや? お前につけた時点でお前のものだ。こいつらがどれだけ慕うかは使い手次第だが……名前と食事で縛るやり方は悪くない」
「縛るって……そんなつもりじゃありません」

一応、本人たちに許可を取ってから名前をつけたのだ。食事もそうだし。
そんなことを口の中でもごもご主張しているとシンが机に頬杖をついてじっとこちらを眺めてくる。

「……あの」
「なんだ」
「お腹、空いてるんです?」

まだ手をつけていないパイの皿を彼の方へ近づければ、露骨に厭な顔をした。

「俺も手懐けようってか」
「そうじゃありませんよ。食事がまだならと思って……」
「もう済ませた。お前の支度が遅いから見に来ただけだ」
「…………そう、ですか」

沈黙が刺さる。見られながらの食事は嫌だ。

「あの、お父様のお加減は」

そこで勢いよく彼が立ち上がった。ガタンと椅子が大きく揺れる。

「俺を手懐ける必要はねえよ」

くるりと踵を返して部屋を出ていく背中を黙って見送る。
先程までの食欲は消え失せていた。

「ゴシュジン、タベナイ?」
「ヤミ、タベル、イイ?」

無言で皿を差し出せば二匹はわっと食らいつく。無駄にならなくて良かったな、と投げやりな気分の中でふと思った。