「この魔界は崩壊の危機に瀕しておる!」
私が呆然としているのをいいことに、お爺さんは朗々と演説を続ける。
もしかして、あの服装といい、あの椅子を玉座と見なすならば魔王なんだろうか。
確かに崩壊の危機は嘘じゃなさそうだ。普通、魔王の城にはもっと手下がうようよしていると思っていた。
だけれど、ここには私たちしかいないように見える。
「下級魔族共を使い捨ての駒として人間どもの世界を闇に染め、地上を草木ひとつ生えぬ暗黒地帯に堕としてやろうなど、夢のまた夢」
「はあ」
「なぜか──いま、そう言うたな?」
「え? いいえ」
「うむ。興味を持ったか。それは重畳」
「は、話聞いてください」
演歌でも歌い出しそうにこぶしを効かせた演説はまだまだ続く。
「それもこれも我らが覇道を阻まんとする聖なるモノどもの仕業よ。我が物顔で魔界に押し寄せ、貴重な資源を奪い、我が眷属を狩り尽くす──あやつらの暴挙は留まるところを知らぬ」
それは貴方たちが姫を攫ったり何かを奪ったり壊したりするからでは──と言いかけたが、アウェーでそれを言ったらアウトだ。慌てて口をつぐむ。
確かに、昔話やおとぎ話でも魔王や鬼は「退治されるもの」として存在している。
深く考えたらヒーロー側の行動だって悪と似たり寄ったりな時もあるのだが、そこに突っ込む人は少ない。
悪は滅びる。それがお約束だ。
物語の外側の人間──つまり読者はそれを知っている。しかし実際の当事者にしてみれば何をやっても滅ぼされるのだから、多少とんちんかんでも一矢報いるために力を尽くしたくなるのだろう。
「我らも無策ではいられぬ。戦局が小康状態の今、文献を紐解いてみたところ、どうやら我らが住まう世界の外側ではまったく別の営みがあるそうではないか。そこでは物語という数多の平行世界に於いて、憎々しいことに我らは滅びるべき運命として綴られている」
考えていたことを読まれたように続けられてヒヤリとした。しかし私の反応など気にも留めず、魔王は声音をころりと変えた。教師が問いかけるように穏やかな声だ。
「古今東西、あらゆる物語で聖なるモノに力を与える無敵のアイテムがある。わかるか」
声音と裏腹に、ぎろりと眼光鋭く睨まれて身が竦む。額に刻まれた深いシワが生き物のように動く。
「……愛でしょうか」
話の流れで言えば、ここが着地点なのだろう。そう答えれば、忌々しいものを見る目で睨まれる。私が作り出した概念じゃないのに。
「そう、愛! 愛する姫のため、故郷のため家族のため! いつもいつも目障りな聖なるモノどもは決まってそれを口にする。見えぬ触れられぬ形なきもの。存在すらもあやふやなそれのせいで、どれだけ我らが苦汁を飲まされてきたことか」
愛。他者を労り健やかであれと願う力。思うだけで胸の奥に火が灯ると形容される心の原動力。
ファンタジーでは決まって主人公たちの助けとなり、悪を諭すために使われる無敵の言葉だ。
それを厭うのは──敵対する魔界としては当然だろう。
「しかし我らは気がついた。愛こそが、我らにとっても起死回生の一手になるのではと!」
劣勢に立たされた聖なるモノは、愛の力でハンデを跳ね除け勝利する。
ならば! 聖なるモノに成せることが魔界で成らぬ道理があろうか!
いつの間にか玉座から立ち上がって拳を握り、スポーツ観戦さながらの姿勢で熱弁を奮っていた魔王はすうと肩の力を抜いて座り直す。
「そこで、おぬしの出番だ」
「……あ、愛が知りたい理由はわかりましたけど、なんで私なんですか。身近に博愛精神に溢れた方とかいないんですか」
博愛主義者が魔界にいたら、もうそこは魔界ではないだろう。発言してから自分の馬鹿さ加減に気がついたが、魔王には気にならなかったらしい。
「この世界に住む誰かを攫ったところで、その者を愛おしく思う誰かがここに乗り込んでくる。それではかつての繰り返しだ。しかし外の人間──お前はどうだ。この世界にお前を知るものはいない。知らぬものが失われたところで誰の愛も刺激せぬ」
ぞっとした。
ひとは愛するもののためなら、いくらでも強くなれる。
しかし裏を返せば、知らぬものにはどこまでも無情になれる。
誰かに捧げる愛で精一杯だ。そこから零れた──否、はなから手のひらに入っていないものになど石ころと同じだろう。
ふさわしい人材として選ばれたのではない。
この世界での有象無象であること。それが私の利用価値だったのだ。
「さて、ここまで話したからには──協力してもらおう」
魔王が指を鳴らせば私の足元に魔法陣が光る。
この世界に来た時と良く似たそれは、光の色が違っていた。
明るさを帯びた紫ではなく、墨を流したような黒。
禍々しい気配に顔を覆った私の手首に足首に、陣が絡まりまとわりつく。
きゅうと絞るように締め付けられて、それは呆気なく姿を消した。
「お前の役目が終わるまで、それは解けぬ縛めだ。この世界から縛り付ける枷となろう」
「な、な……!?」
絶句する私を他所に魔王の笑みは凶悪な程に深くなる。
「愛を説け。魔界に勝利をもたらす一縷の望みを我が息子──第一王子が得るまで元の世界に還ること能わず」
「え!? ひどい、そんな、なんで……」
あまりに身勝手な展開だ。思いつく限りの罵詈雑言を浴びせようとしたのに、悲しいかな、溢れ出る言葉が喉で大渋滞を起こして肝心な言葉が何ひとつ出てこない。
呵呵大笑した魔王はにんまりと己を指さした。
「魔王なものでな」
視線でひとに危害を加えられるならスプラッタにしてやりそうな勢いで睨みつける。
すると、魔王の顔色がすうと白くなり玉座にくずおれた。
「えっ、なに、私何もしてな」
「父上!」
傍に控えていた息子が様子を見に近寄る。何か調べているようだったが眉間に皺を寄せた。
「そんな、まさか」
「生きてはいる。今ので魔力が底をついただけだ。聖なるモノから魔界を護るのに加えて召喚までやってのけたんだから当然だが……諦めろ。今の俺じゃお前は還せない」
さらりと宣告された中身を上手く咀嚼できない。お腹の中が忙しなくざわめきだす。
かえれ、ない?
震え始めた体が床に沈む。壊れた人形のようにがくがく揺れる腕をなんとか押さえつけて彼を見上げた。
「今の貴方じゃ……なら、貴方が愛を知ったら、還してくれるんですか」
「さあな。充分な魔力があればやれないこともないだろう。何せ魔王クラスの大魔法だ。愛とやらのお手並み拝見といこうじゃないか」
へたりこんだ私に彼は笑顔を見せた。逆光なのでラスボスの邪悪な笑みにしか見えない。
「せいぜい歯の浮く愛でも説くんだな──導き手サマ?」
失恋直後の私が、彼をいったい何処に導けるというのだろう。
方位磁石など持っていないのだ。
頭の中で遭難信号がけたたましく鳴り響いていた。
私が呆然としているのをいいことに、お爺さんは朗々と演説を続ける。
もしかして、あの服装といい、あの椅子を玉座と見なすならば魔王なんだろうか。
確かに崩壊の危機は嘘じゃなさそうだ。普通、魔王の城にはもっと手下がうようよしていると思っていた。
だけれど、ここには私たちしかいないように見える。
「下級魔族共を使い捨ての駒として人間どもの世界を闇に染め、地上を草木ひとつ生えぬ暗黒地帯に堕としてやろうなど、夢のまた夢」
「はあ」
「なぜか──いま、そう言うたな?」
「え? いいえ」
「うむ。興味を持ったか。それは重畳」
「は、話聞いてください」
演歌でも歌い出しそうにこぶしを効かせた演説はまだまだ続く。
「それもこれも我らが覇道を阻まんとする聖なるモノどもの仕業よ。我が物顔で魔界に押し寄せ、貴重な資源を奪い、我が眷属を狩り尽くす──あやつらの暴挙は留まるところを知らぬ」
それは貴方たちが姫を攫ったり何かを奪ったり壊したりするからでは──と言いかけたが、アウェーでそれを言ったらアウトだ。慌てて口をつぐむ。
確かに、昔話やおとぎ話でも魔王や鬼は「退治されるもの」として存在している。
深く考えたらヒーロー側の行動だって悪と似たり寄ったりな時もあるのだが、そこに突っ込む人は少ない。
悪は滅びる。それがお約束だ。
物語の外側の人間──つまり読者はそれを知っている。しかし実際の当事者にしてみれば何をやっても滅ぼされるのだから、多少とんちんかんでも一矢報いるために力を尽くしたくなるのだろう。
「我らも無策ではいられぬ。戦局が小康状態の今、文献を紐解いてみたところ、どうやら我らが住まう世界の外側ではまったく別の営みがあるそうではないか。そこでは物語という数多の平行世界に於いて、憎々しいことに我らは滅びるべき運命として綴られている」
考えていたことを読まれたように続けられてヒヤリとした。しかし私の反応など気にも留めず、魔王は声音をころりと変えた。教師が問いかけるように穏やかな声だ。
「古今東西、あらゆる物語で聖なるモノに力を与える無敵のアイテムがある。わかるか」
声音と裏腹に、ぎろりと眼光鋭く睨まれて身が竦む。額に刻まれた深いシワが生き物のように動く。
「……愛でしょうか」
話の流れで言えば、ここが着地点なのだろう。そう答えれば、忌々しいものを見る目で睨まれる。私が作り出した概念じゃないのに。
「そう、愛! 愛する姫のため、故郷のため家族のため! いつもいつも目障りな聖なるモノどもは決まってそれを口にする。見えぬ触れられぬ形なきもの。存在すらもあやふやなそれのせいで、どれだけ我らが苦汁を飲まされてきたことか」
愛。他者を労り健やかであれと願う力。思うだけで胸の奥に火が灯ると形容される心の原動力。
ファンタジーでは決まって主人公たちの助けとなり、悪を諭すために使われる無敵の言葉だ。
それを厭うのは──敵対する魔界としては当然だろう。
「しかし我らは気がついた。愛こそが、我らにとっても起死回生の一手になるのではと!」
劣勢に立たされた聖なるモノは、愛の力でハンデを跳ね除け勝利する。
ならば! 聖なるモノに成せることが魔界で成らぬ道理があろうか!
いつの間にか玉座から立ち上がって拳を握り、スポーツ観戦さながらの姿勢で熱弁を奮っていた魔王はすうと肩の力を抜いて座り直す。
「そこで、おぬしの出番だ」
「……あ、愛が知りたい理由はわかりましたけど、なんで私なんですか。身近に博愛精神に溢れた方とかいないんですか」
博愛主義者が魔界にいたら、もうそこは魔界ではないだろう。発言してから自分の馬鹿さ加減に気がついたが、魔王には気にならなかったらしい。
「この世界に住む誰かを攫ったところで、その者を愛おしく思う誰かがここに乗り込んでくる。それではかつての繰り返しだ。しかし外の人間──お前はどうだ。この世界にお前を知るものはいない。知らぬものが失われたところで誰の愛も刺激せぬ」
ぞっとした。
ひとは愛するもののためなら、いくらでも強くなれる。
しかし裏を返せば、知らぬものにはどこまでも無情になれる。
誰かに捧げる愛で精一杯だ。そこから零れた──否、はなから手のひらに入っていないものになど石ころと同じだろう。
ふさわしい人材として選ばれたのではない。
この世界での有象無象であること。それが私の利用価値だったのだ。
「さて、ここまで話したからには──協力してもらおう」
魔王が指を鳴らせば私の足元に魔法陣が光る。
この世界に来た時と良く似たそれは、光の色が違っていた。
明るさを帯びた紫ではなく、墨を流したような黒。
禍々しい気配に顔を覆った私の手首に足首に、陣が絡まりまとわりつく。
きゅうと絞るように締め付けられて、それは呆気なく姿を消した。
「お前の役目が終わるまで、それは解けぬ縛めだ。この世界から縛り付ける枷となろう」
「な、な……!?」
絶句する私を他所に魔王の笑みは凶悪な程に深くなる。
「愛を説け。魔界に勝利をもたらす一縷の望みを我が息子──第一王子が得るまで元の世界に還ること能わず」
「え!? ひどい、そんな、なんで……」
あまりに身勝手な展開だ。思いつく限りの罵詈雑言を浴びせようとしたのに、悲しいかな、溢れ出る言葉が喉で大渋滞を起こして肝心な言葉が何ひとつ出てこない。
呵呵大笑した魔王はにんまりと己を指さした。
「魔王なものでな」
視線でひとに危害を加えられるならスプラッタにしてやりそうな勢いで睨みつける。
すると、魔王の顔色がすうと白くなり玉座にくずおれた。
「えっ、なに、私何もしてな」
「父上!」
傍に控えていた息子が様子を見に近寄る。何か調べているようだったが眉間に皺を寄せた。
「そんな、まさか」
「生きてはいる。今ので魔力が底をついただけだ。聖なるモノから魔界を護るのに加えて召喚までやってのけたんだから当然だが……諦めろ。今の俺じゃお前は還せない」
さらりと宣告された中身を上手く咀嚼できない。お腹の中が忙しなくざわめきだす。
かえれ、ない?
震え始めた体が床に沈む。壊れた人形のようにがくがく揺れる腕をなんとか押さえつけて彼を見上げた。
「今の貴方じゃ……なら、貴方が愛を知ったら、還してくれるんですか」
「さあな。充分な魔力があればやれないこともないだろう。何せ魔王クラスの大魔法だ。愛とやらのお手並み拝見といこうじゃないか」
へたりこんだ私に彼は笑顔を見せた。逆光なのでラスボスの邪悪な笑みにしか見えない。
「せいぜい歯の浮く愛でも説くんだな──導き手サマ?」
失恋直後の私が、彼をいったい何処に導けるというのだろう。
方位磁石など持っていないのだ。
頭の中で遭難信号がけたたましく鳴り響いていた。