高校三年生になると、模試や受験の話題ばかりが飛びかうようになり、受験期特有のぴりついた空気に居心地の悪さを覚えはじめていた。
眠りが浅くなり、夢をよく見るようになった。それも過去や理想が混じったものばかりだ。
夢の中の俺は、こぢんまりとしたライブハウスでギターを弾いていたり、新に俺の似顔絵を描いてもらったりしていた。庄司さんと一緒に海辺で弾き語りをしている日もあった。
目が覚めて嫌でも現実に引き戻されるあの感じがとにかく大嫌いで、それがまた俺のストレスを誘うのだった。
変われない自分のまま、時々周りの不幸をこっそり願って、心の中で悪口を言って、だけど現実では機嫌を窺っていくくらいがちょうどいい。
なんとかバランスを保っていたつもりだった。俺は、俺の生き方に慣れているつもりだった。
けれど所詮、「つもり」は「つもり」に過ぎなかった。
夏休みが明けてすぐ行われた実力テストの返却日。
第一希望にしていた国公立大学の判定はAで、それ以外の大学の判定はS。バイトをしながらも、母をがっかりさせないために勉強も時間をきちんと充てていたので、それなりに成果が出てほっとしていた。A判定ならほぼ安泰。このままいけば、多分、受かる。
「うわ、仁科またAかよ。やば」
「勝手に見んなよ」
一年生の頃から行動をともにしていた友人の堂島に試験結果を覗き見された。近くにいた藤田も便乗して覗き込んでくる。
同じ高校に通っている時点で学力はお互い平均以上はあったはずの堂島と藤田は、入学してからどんどん勉強しなくなっていき、赤点の常習犯だった。
「俺はヨユーでE」と堂島がお茶らけ、「おれもおれも」と藤田が同意する。かける言葉の正解が見つからず、いつも通り適当に話を流そうとおもっていた俺に、堂島は言った。
「あーあー、お前はいいよなあ。努力しなくてもできるやつでさ」
思わず、「は?」と声がこぼれる。そんな俺に気づかないまま、堂島はさらに言葉をつづけた。
「センセーにも気に入られてるし、評定も安泰だろ? バイトもやってその成績とかもう勉強しなくても受かるって。あーまじでいいなー、天才は苦労しなくて」
「いや……そういうんじゃないと思うけど」
「いやいや、ここでの否定は逆に嫌味だから! なあ藤田?」
「まじそれな? 仁科ってまじ恵まれてるよなー」
言葉が出てこなかった。入学してから築いてきたふたりとの楽しかった思い出とか、青春らしいこととか、途端に全部霞んでしょうもないものに思えてしまう。
なんでこいつらと仲良くなったんだっけ?
中学時代、全員に平等に接することで特定の存在がいなかったから、高校では関わり方を少し変えてみようと思った。席が近かった。進学校のわりにゆるそうな人たちだったから接しやすかった。深く干渉してこないから楽だった。
ああ、そうか。仲良くなったのなんて、そんな適当なる理由だったっけ。
恵まれている。天才は苦労しない。否定は嫌味。
うるせえ、黙れ。そんなこと言われたら、また俺が死にたくなってしまう。
俺の成績が良いのは才能じゃない。母を裏切らないための武器で、この学校でそれなりに過ごすための保険だ。
努力してないわけじゃない。授業も模試もしんどいし、本当はやりたくない。
だけど、ひかれたレールの上を歩くことを選んだのは俺だから。選んだからには、外れるわけにはいかないんだ。
「ハハ、逆にEで焦ってないお前らのほうが天才かもね」
「うわうぜー!」
「冗談」
本心だ。本心だけど、冗談にしないと空気が悪くなる。
こんな時でも、俺は良い顔をしてしまうのかと、そんな自分に吐き気がした。
俺が俺でいる限り、この生きづらさも死にたい気持ちもなくならない。つまらない。俺の人生、このままじゃ何も楽しくない。俺の日々を脅かすもの全部無視して遠くへ行きたい。
俺が俺を捨てることができたら───もっと新しい気持ちで生きていけるだろうか?
その夜のこと。SNSを見ていた時、ふと、俺のタイムラインに綺麗な海の写真が流れてきた。
青が煌めいていて、太陽が眩しくて、とても美しかった。
そういえば、最後に海を見たのはいつだろう。父方の祖父母は、海が良く見える山の上に住んでいて、昔はよく長期休暇になると家族全員で顔を出しに行っていた。
けれど、中学生になったあたりからはどうしても部活や塾の関係もあって祖父母の家にはなかなか顔を出せなくなっていった。
「海いいなー……」
綺麗な海が見たい。美味しい空気を吸いたい。自然に触れて、俺のことを開放してあげたい。
ふと思い立ったこの気持ちが、今の俺にとっては学校やバイトよりずっとずっと大切なものに思えたのだった。
祖父母の家に行くことにした。電車を乗り継いで一時間半。
遠すぎなくて近すぎない、程よい距離の、俺だけの秘かな旅だ。
頭を冷やすにはちょうどいい。一週間ほどスマホの電源を切って、家族にも友人にも内緒で、俺は俺をやめてみよう。
大きな理由もなく死にたいと思う毎日は、思うだけでひとりじゃ実践する勇気もない。
だけど、これからもしかしたらすごく良いことがあるかもしれない。どこか、何かのタイミングで音楽の道に進めるようになるかもしれない。
俺がこれから大丈夫になる保証なんてどこにもないけれど───先のことなんて、生きてみないとわからない。
例えば今突然死んだって、俺の人生は素晴らしいものだったと思えるような毎日にしたいから。
卒業以来一度も動いていない、中学のグループライン。メンバーのなかから、彼女の連絡先を見つけて追加した。このグループは何度も退会しようと思ったけれど、しなくてよかったと心の底から過去の自分に感謝した。
トークルームを開き、震える手で文字を打つ。今更なんだと思われるかもしれないし、忘れられている可能性も捨てきれなかったが、そんなことは今の俺にとっては大した問題ではなかった。これがひとつの区切りのようなものだった。
【海いかない?】
庄司絢莉。烏滸がましいかもしれないけれど、君にだけは、わかってもらいたかった。
海につくまでの間、俺と庄司さんはいろんな話をした。歩くには疲れるような道と時間だったけれど、それがあっという間に感じるほど、俺たちは確かに濃い時間を共有していた。
中学時代のこと。今ある日々のこと。
改まって自分たちの話をするのは恥ずかしくて、けれどとても大切な時間だった。
「でも、仁科くんはやっぱり仁科くんのままだったなって思う」
きらめく海を見つめながら、庄司さんがふと声をこぼす。どういうこと? と視線を移すと、光が差し込む彼女の瞳と目が合った。潮風に黒髪が靡いている。ふ、と笑われ、心臓が鳴った。
「なんかこう、ちょっと尖ってるっていうか。仁科くんはやっぱり今も良い人のふりしてるなあって」
「それ、褒めてないよね?」
「わはは、うん。でも、それが仁科くんなんだって知れたからいいの。むしろ今更仁科くんに優しくされても怖いもん」
あまり変われないまま、俺は十八歳になってしまった。
まだまだ子供なはずなのに、世間じゃもう大人に括られるようになり、クレジットカードも作れるようになった。
大人になっても俺はまだ、自分の行動や言葉にすら責任が持てない。
真面目に生きようと頑張るのは疲れるし、友達や家族にはどこか気を遣うのをやめられない。
毎日悩みはつきなくて、生きているだけで疲れてしまうような日々を、俺たちは生きている。
「……俺、帰っていいのかな」
こぼれた本音があまりにも情けなくて、自分で言っておいて少し笑えた。
本当は、こんな日々を終わらせて楽になりたかった。
母親の前でいい子のふりをするのも、やりたいことを諦めてひかれたレールの上を歩くのも、自分より上手に生きている人を羨むのも、全部やめてまっさらな俺になりたかった。
死にたいとか消えたいとか、そんなこと思わないくらいの人生を歩めるような人間でいられたらよかったのに。
「いいんだよ。だってもう過去の仁科くんはいないんだから」
けれど、不安に駆られる俺に、彼女は言う。まっすぐな声だった。
「今までの仁科くんだったら、こんなふうに電車乗り継いで遠くに来ようなんて思わなかっただろうし、海行こうとか、そんな突然私のこと誘ったりしないと思うもん」
「……それはそうかも」
「これは逃げじゃない、仁科くんは戦に来たんだ。過去の自分を殺すための旅、でしょ?」
俺が抱える悩みも、庄司さんに刺さる棘も、あの子が言わずにいたことも、彼が考えていることも、例えば言葉に起こせたとしても、すべてがわかり合えるわけじゃない。
他人にわかってもらおうなんて、ただの我儘で、傲慢だ。
それでもどうしても、大切な人には、わかってもらいたい。
「ね、考えてみてよ。生きて帰ったら警察の事情聴取もあるだろうし、親にも学校にも説明しないといけないし、バイト先に誤ったりもするんでしょ? 死んだほうがマシなのに、仁科くん生きて帰ろうとしてる。ぜったいぜったい、死んだほうマシなのに」
「庄司さん俺のこと殺そうとしてない?」
「違うよー中学の時言われたこと引きずってるだけだよー」
「あの時はごめんって……」
この海まで背負ってきた俺の青い棘が、彼女の言葉にやさしく溶かされていく。
「どれだけ逃げたって死ぬまで生活って終わんないわけだし。でも本当に死ぬほどの度胸もないし、だったら生きててよかったって思えること、増やしたほうがいいんだよねえ」
「そうだよなー……」
「なんかさ、勿体ないなって私も思い始めた。私ももっと正直に生きてたい。仁科くんに会って私も前向きになれた気がする」
青が綺麗だった。俺たちが暮らす街にも海があったら、もっとおいしい空気を吸えていたかもと考えて、海があったところで悩みは尽きないし、それはそれで死にたくなりそうな気がしてやめた。
どんな家に生まれても、どんな場所で息をしていても、自分なりに生きるだけだから。
「帰ろう、仁科くん」
こうやって生きてしまうんだ、きっと。
それなりに悩んだり苦しんだりしながら、自分の信じたいものを信じて日々を越える。
死にたくなるような毎日すら、愛しくなってしまうまで。
「仁科くんさ、帰る前に一個お願いがあるんだけど」
「なに?」
「ちょっとだけ仁科くんのギター聴きたい」
「へたくそだよ俺」
「でも、こんなところに背負ってくるくらい大事にしたいことなんでしょ?」
「……わかったよ。笑わないでね」
「私の好きなバンド、これなんだけどさ、知ってる?」
「ああ、うん。俺このバンドいつもコピーしてた」
「……ふうん」
「え、なに?」
「なんでもない。それより早く聴かせてよ、仁科くんのへたくそなギター!」
彼女に聴かせた俺のギターはとんでもなく下手くそだったが、その瞬間、どうしようもなく、生きていてよかったと思った。
「ちょ、あやちゃん! ニュース見た!?」
友人のユウナからその話題が振られたのは、登校してすぐのことだった。
背負っていたリュックを机の上に降ろした状態で、「見たよ」と短く返事をする。彼女の隣で、幼馴染のモモコが「あんた声でかい」と呆れている。
「死んでるとか言われてたけど、生きてんじゃん! ってなった! あやちゃんに絶対報告しないとって!」
「報告って大げさな」
「大げさじゃないよ! あやちゃんの大切な人なんでしょ? 生きててよかった本当。あたし全然仁科くんと仲良くなかったのにうれしくなったもん!」
人口二万の小さな町じゃ、誰がどこの高校に行ったとか、誰が高校を中退してどこで働いているとか、誰と誰が付き合っているとか、そういった情報は全部筒抜けだ。おまけに彼に関するニュースは一度全国に放映されている。
だから、ユウナや私にその話が流れてきたことは、べつに不思議なことじゃなかった。
「はあ……自殺と行方不明が同義とか言ってた人の発言とは思えないよねホント」
「ちょっとぉ! モモちゃんなんで今そんな意地悪なこと言うの⁉ あたしが無神経すぎてめっちゃ落ち込んでた時に励ましてくれたくせに!」
「えー、いつの間に? 私その話知らない」
「言ってないからねえ」
けれどそれは、前までの私じゃ気づけなかったことだ。
ユウナが自分の発言を振りかえって反省していたことも、それをモモコが励ましていたことも私は知らなかった。
実際のところ、世の中、知らないことのほうが圧倒的に多いような気がする。
「やっぱさあ、噂もニュースも当てになんないんだ。あたしすーぐ耳に入った情報信じちゃうからなー……生きづらい」
ユウナが枝毛をちぎりながら言う。
生きづらい、とか、いつも元気はつらつなユウナでも思うことがあるらしい。きっとモモコにも、言わないだけでそう思う瞬間があるのだろう。私にもあるから、わかる。
「多分、この世に本当だって確信できることなんてないんだよね」
「ねーホント」
「結局、自分が信じたいもの信じるのが一番なんだよ。本当のことなんて本人しかわかんないんだから。ねえ絢莉?」
同意を求められ、私は頷いた。妥協じゃない。
私は今、確かに本音で息をしている。
「私は思ってたよ。──仁科くんは絶対生きてるって」