「お会計、四五〇円です」


結局、おれは一時間ほどでカフェを出ることにした。勉強をしようにも、頭の隅に翼がいて気が散るのだ。鉛筆の芯は、大胆に底から折ってしまったせいで簡易的な鉛筆削りでは上手く修復できず、絵を描くことすらできなかった。


全部が少しずつうまくいかない。そういう瞬間が重なってストレスや焦燥感を煽るのかな、と他人事のように思う。


会計をしてくれているのは、注文を取ってくれた男性店員だった。

おれと同じ中学校に通っていた、らしい人。

ちらりと名札に目を向けると「青砥」と書いてあり、そこでようやく思い出した。


青砥千春。名前と顔はかろうじて一致するけれど、クラスは一度も同じになったことはなくて、これといって接点があったわけでもない。その程度の距離感だから、話しかけるか迷って最終的に遠慮した青砥の気持ちもわからないはなかった。



「あ……青砥」
「え?」
「僕、青砥……、一応中学同じだったんだけど。えーと……仁科、僕のこと知ってる?」
リュックから財布を取り出したタイミングで青砥が口を開いた。

遠慮したんじゃなかったのかよ。話しかけられるとは思わず、おれは驚いて数秒固まってしまった。


「ごめん、急に。その……えーと、あんまりこの店、知り合い来ないから」
「へえ……」
「元気?」
「それなりに」
「へえ……」



青砥が申し訳なさそうに目を逸らす。意味がわからなかった。

なんだこの中身のない会話は。

過去にまともに会話をした記憶はないから、青砥がどんな人でどんな風にコミュニケーションをとる人なのかは知らないけれど、今のやり取りから察するにおれより人と関わるのが下手なんじゃないかと思う。

無理をしてでもおれと話したいことがあるのだろうか? 考えながら、四五〇円ちょうどあったので、取り出してトレイに載せた。

そのタイミングで、「あのさ」と青砥が再び開口した。


「仁科……早く帰ってくるといいよね」



そう言われた瞬間、そういうことかと納得した。関わったことのない同級生に話しかけるのに理由がないわけがない。

青砥がおれに話しかけてきたのも、最初に話しかけづらそうにしていたのも───行方不明になった仁科翼と双子だからだ。



「なに? 翼のこと聞き出したかった?」
「え、いや。ごめん、そういうんじゃなくて」
「だったらおれに聞くよりテレビとかネット見たほうが良い情報あると思うけど。おれ、翼と仲良くなかったし。性格も全然違うからさ、なんで翼がいなくなったのかとか想像もできないんだよね」



一週間前、翼が突然姿を消した。いつも通り制服を着て学校に行ったはずの翼は、突然返ってこなくなった。

学校からは来ていないと連絡が来て、母はとても動揺していた。普段は落ち着いている父もその日は柄になく焦っていて、翼を探すために近所を走りまわっていた。

おれも父と一緒に翼を探したが、あいつが行きそうな場所も行動範囲もわからなくて、ただ当てもなく走り回るのは苦痛な時間だった。


結局、二時間ほど近所を探し回ったけれど翼は見つからず、汗だくになりながら家に帰った。
日記を見つけたのはその夜のことだった。

風呂から上がり、ただなんとなく、翼の部屋を覗いた。今思えば好奇心だったのだと思う。ほとんど入ったことのない翼の部屋がどんな内装なのか気になっていた。


落ち着きのあるシンプルな部屋は翼らしくて、物で散らかったおれの部屋とは大違いだった。

整頓された机の上にあった一冊のリングノートと使ったまま放置されたボールペンが置かれていて、おれは引き寄せられるようにノートを手に取った。


綺麗に片付けられた部屋に似つかない出しっぱなしのそれらに、おれは違和感を覚えていた。



『……新? なにしてるの』


中を読もうとしたところで、母に声を掛けられた。息子がいなくなり、すべてに敏感いなっていたのだろう。咄嗟にノートを閉じ、「なんでもないよ」と曖昧に答える。



『何か翼のことわかるかと思って』
『そう……。でも、勝手に漁ったらだめよ。お母さん、それで翼に怒られたことあるから』
『翼に?』
『勝手に触んないでって。まあ、普通に考えたらそうよねえ。お母さん過保護すぎたかもってちょっと反省したのよ』



翼も母に怒ることがあったなんて知らなかった。

しかしながら、確かに母はかなり心配症で、時々鬱陶しく感じるほどだ。高校生になってからは緩和されたけれど、中学生の頃は帰宅時間や対人関係を細かく知りたがろうとしていた。

おれと翼の性別が今と違っていたら、もっと厳しくて口うるさい母になっていたのではないかと思う。


『お母さん、やっぱり警察に連絡しようと思う』
『……そう』
『帰って、くるわよねぇ……』


母の弱弱しい声が、静寂に溶けていく。警察が来たら、このノートも参考資料として預かられてしまうかもしれない。そう思ったら置いたままにはできなくて、母が部屋を出たあと、おれは自分の部屋にノートを持ち込み、リュックの中にしまった。


翌日、翼が消えたことは全国ニュースになり、自宅は警察の捜査が始まった。



それから一週間後の今日。警察の捜査や、知り合いからの連絡に追われて家自体がバタバタしているうちに、おれもノートの存在を忘れてしまっていた。


ふと思いだしたのが今朝のことで、おれはようやくあのノートが翼の日記だったことを知ったのだった。


けれど、それくらいだ。血のつながった兄弟なのに、おれは文字を通してようやく翼の本音をほんの少し知れただけで、それ以外はなにも知らない。



おれたちは真逆だ。本音を知ったところで、きっとひとつもわかり合えない。