「お待たせしました」
「あ、はいっ」
突然声を掛けられ、目の前に珈琲が置かれる。色々考えていたせいで、関くんの気配に全く気づけなかった。反射的にスマホを伏せ、わたしは「ありがとうございます」と小さく頭を下げる。
一か月前までは、関くんではなく「にしなくん」が接客してくれていた。
店長さんや他のスタッフからも頼りにされているようだったから、クビになった可能性は考えられない。
彼のことは名字と顔と高校以外何も知らないけれど、なんとなく、突然辞めるような人にも思えなかった。
そうなると、考えられるのは怪我や事故などといったネガティブな理由になる。
関くんは、何か知っているだろうか? クラスメイトに自分から声を掛けるほどわたしは積極的な人間ではないが、全然話せないわけでもない。
幸い、彼とは席が前後だ。最低限の会話のキャッチボールはできるし、周りに相沢さんのような派手な同級生もいないから気が楽だ。
「ごゆっくりど……」
「あの、関くん」
ごゆっくりどうぞ、と言ってその場を去ろうとした彼を呼んで、引き留める。わたしから話かけたのは、記憶にある限り今が初めてだ。
関くんは数回目を瞬かせるも、表情を変えずに「なに?」と返事をした。途端に脈拍があがる。
「関くんと同い年くらいの店員さん……いたと思うんだけど、さ」
「あー……男?」
「うん、そう。えっと……その人、最近、いないよね」
本当はちゃんと覚えているくせに、「たしかニシナって名前の」と、他人感を強く出して保険をかける。
わたしは緊張していた。
学校じゃいつもひとりで行動しているわたしのような人が、スタッフが辞めたかどうかを気にしているのは変なことなのかもしれない。
それでも、答えてほしかった。知りたかった。突然「にしなくん」が出勤しなくなったのはどうしてなのか、一方的に知る権利があるとわたしは驕っていたのだった。
「あ、いや、他意はないの。ただ、いつもいたのになって思って……」
「それ、俺らもわかんねえんだよな」
「え?」
関くんからの返答は意外、かつ、わたしが想像していたようなものではなかった。
「仁科が本当に辞めたのかどうかもわかんねーの。生きてるか死んでるかも」
「は……」
「〝消えた〟って言い方がいちばん正しいのかもな」
「にしなくん」は消えたらしい。
辞めたかどうかも、生きているかどうかも定かではなく、名前だけがまだ在籍になっているそうだ。「そのうちクビ扱いになるんじゃね」と関くんが吐き捨てる。
やめたかもしれない。しんだかもしれない。にしなくんは、いなくなってしまった。
脳が詰まり、言葉がうまく出てこない。
だってじゃあ、古乃はどうしたらいいの。「にしなくん」がいなくなったら、古乃で載せる写真がなくなってしまう。
当然、「消えた」なんて言っても誰も信じてくれない。別れたことにしたとして、励まされるのも可哀想って思われるのもいやだ。
「あー……へえ。そうなんだ」
「……古橋、あのさ」
「なんか関くんたちも大変だね。ここいつもバイト募集してるし。人手足りなそう」
「え? あー、まあそれは」
他人事のようにそう言ってみせたけれど、本当は不安と焦燥感が押し寄せて、心臓がざわざわして落ち着かなかった。
どうしようどうしようどうしよう、だめだ、このままじゃわたしは。
わたしがわたしであるために「にしなくん」は必要不可欠だったのに、いなくなってしまったら、同時にわたしも〝普通〟じゃいられなくなってしまう。
勝手なことしないでと怒りたかった。けれどそれとわたしの勝手な怒りであることもわかっていた。
わたしと「にしなくん」は他人だ。自分が勝ってにつくった他人の存在に、わたしはこんなにも振り回されている。
わたしの〝普通〟は、こんなにも簡単に壊れちゃうんだ。
「仕事の邪魔しちゃってごめん。教えてくれてありがとう、頑張って」
「え、ああ……うん」
関くんに一方的にそう言って、それからわたしは、珈琲を半分飲んで店を出た。
? @furuno**chan 今
なんか消えたい
アイコンを真っ白に変えて、名前も「?」に変えた。
よくある病み垢みたいでばかばかしい。そう思う反面、そうしたくなる気持ちが痛いくらいわかって虚しかった。
知らない誰かがいなくなったくらいで壊れてしまうほど脆い存在だってことくらい、ちゃんとわかっていたはずなのに。
こんな時でも、わたしはこの場所に縋ってしまう。むしろこんな時こそ、縋りたくなる。それが余計にわたしを虚しくさせるのだった。
どうしてこんな生き方しかできないんだろう。
長い間拠り所にしてきた古乃という人格が、途端にしょうもないものに思えて苦しかった。
「答案回収するので後ろの人集めてきてくださーい。5点以下の人、昼休みに再テストねー」
翌週、月曜日。いつも通り行われた英語の小テストは二点。隣の席の生徒には答案を返される時に少々気まずそうな顔をされた。
この一週間、考えごとばかりしていたような気がする。厳密には考えごとではなく、心にぽっかり穴が開いてしまって何かを考える余裕がなかったというだけなのだけど。
ずっと胸のあたりが苦しくてふとした瞬間に泣きたくなる。その原因が、自分のくだらない生き方にあることも、ちゃんとわかっていた。
「古橋、答案」
「……あ、ごめん」
後ろの席が関くんであることをすっかり忘れていた。二点の答案を伏せて手渡すと、「再テストじゃん」と言われた。
馬鹿にしているわけでも気まずそうにしているわけでもなく、ただ事実を呟くと、彼はわたしの横を通り過ぎていった。
そうだよ、再テストなんて最悪だ。
堂々と再テストを受けるほうが効率的だってことも、不合格だったとて評定に大きく影響するわけじゃないってこともわかった上で、わたしはこれまで毎週ちゃんと勉強していたのに。
学校にいるわたしは、再テストを受けるようなキャラじゃない。キャラ、と呼べるほど存在感があるわけではないけれど、自分が周りから「ひとりが好きそう」で「真面目」で「頭が良さそう」な人に思われていることはなんとなく察していた。
月朝のために英単語をきちんと覚えるのは、再テストに行きたくないからだ。要領よく生きているクラスメイトに囲まれて昼休みを無駄にしたくない。「古橋さんって真面目そうなのに意外と勉強できないんだ」って、誰かひとりにでも思われていたくない。
わたしにとって勉強は将来のためでもなんでもなくて、わたしを守るための鎧だ。
だから、何がなんでもちゃんとしていないといけないのに。
最近のわたしは全然だめだ。わたしが勝手に作り上げた〝普通〟は、わたしのせいで壊れていく。
昼休み。なんとか再テストを終えたわたしは購買に向かっていた。
今日に限ってお弁当を忘れてきてしまったのだ。母から「お弁当忘れてる」と連絡が入っていたけれど、わざわざ学校に届けてくれるほど時間に余裕はなかったようで、わたしが忘れたお弁当は母が職場にもっていくことになった。
歩きながらスマホを開き、古乃のアカウントにログインする。心臓が不穏な音を立てている。フォロワーが五人減っていることと、通知が一件も来ていないことを確認して、ため息が出た。
一週間前、アイコンを真っ白にして、名前を「?」にして、弱すぎる本音を呟いたあの日のこと。『消えたい』というその投稿にはわたしを心配するリプライが何件もついた。
↳お茶漬け @oishii*gohan*dayo
なんかあった? 大丈夫? 無理しないでね、、、
↳Haruka @ha**ru**20
ふるちゃん大丈夫? なんかあったら話聞くよ~…
大丈夫じゃないのに大丈夫なんて言いたくなくて返信は敢えてしなかったけれど、内心ほっとしていた。わたしが消えたいと言えば、みんなこうして心配してくれる。いなくならないでと言ってくれる。
だからやっぱりわたしにはSNSが必要で、今更突然手離すこともできない。
その日の夜、古乃宛てに一件のダイレクトメッセージが届いた。
メッセージリクエスト
あ @gxnNj9knAKg*Kg* 1時間前
彼氏と別れたんですか?笑
お疲れ様です笑笑
あなたのツイートみてて痛いからもう二度と呟かないでほしいです笑
古乃としてSNSを長らくつかっていたけれど、マイナス的なコメントが来たのはそれが初めてで、鋭利な刃物で心臓を一突きにされたような、そんな感覚に陥った。
すぐにブロックしたけれど、一度刺さった言葉の棘は簡単には消えてくれなくて、わたしはSNSを開くのが怖くなってしまった。
それから今日までの一週間、呟くこと、誰かの投稿に反応することもせず、フォロワーが減っていないかとか、マイナスコメントが届いていないかとか、そんなことを確認して安心するためだけにSNSを開いていた。
見たくないのに見ようとしてしまう。フォロワーが減っていたら落ち込むとわかっているし、メッセージが届いていたら心が不穏になるだけだということもわかっているのに、止められなかった。
紛れもなくわたしは依存していた。インターネットにも、作り上げた自分の存在にも。
わかっているのに止められない自分が恐ろしくてたまらなかった。
メディア欄を遡り、「にしなくん」が映っている投稿を見返す。やっぱり顔がとても整っていてかっこいい。
いつか、フルネームくらいは自分で聞いてみたかった。あわよくば連絡先を交換して、ふたりで会う予定を立てて。それで、ちゃんと恋ができるような関係になりたかった。
そうしたら、わたしはもっと違う日々を送れていたかもしれない、なんて、画面に映る「にしなくん」の姿を見て、また同じことを思う。
──ドンッ。
そんな矢先のこと。スマホに夢中になりすぎていて、角から出てくる人の存在に気付けなかった。声をあげた時にはもう遅く、ぶつかった衝動で手元からスマホが滑り落ちた。
慌てて手を伸ばしたけれど、先に拾ったのは相手だった。
「あ、ご、ごめんなさ───」
「なあ古橋」
「え?」
「やっぱさ、これ仁科だよな?」
唐突に問われた質問に顔を上げる。わたしがぶつかった相手は、「にしなくん」と同じファミレスで働くクラスメイト──関陽介だった。拾われたスマホの画面には、わたしがたった今見返していた「にしなくん」についての投稿が映し出されている。
「……覗く気なかったんだけど、こないだ古橋が店に来た時も画面軽く見えたんだよね。似てるだけかって思ってたけど、仁科のこと聞いてきたからやっぱりそうかもって」
わたしは何も言えなかった。ネット上じゃ息を吐くように嘘をついてきたくせに、現実じゃ否定の言葉すらつっかえて出てこない。
こんな不運が重なるってわかっていたら、関くんに「にしなくん」について聞いたりなんかしなかったのに。
「これさ、何が満たされんの?」
「は?」
「他人を他人に自慢するのって、古橋にとって何が楽しいの」
静かな声だった。関くんのまっすぐな瞳がわたしを映している。
他人に他人を自慢するのって何が楽しいんだろう。少し考えて、楽しさを得るためにそうしていたわけじゃないことを思いだした。
「楽しくないよ、なんにも」
「じゃあなんでこんなことしてんの?」
「……安心するの。関くんには、わかんないかもしれないけど」
楽しいんじゃない。安心したかったのだ、わたしは。
架空のわたしに縋ってでも、インターネットに依存してでも、この安心感の中で息がしたかった。
「彼氏って言って載せると反応がいいの。わたしのこと、みんな羨ましいって言うんだよ。わたし生きてるって感じるの」
「……本当の自分じゃないのに?」
「だってもうやめられないの。今更無理なの、依存しちゃってるんだもん。嘘でもこの安心感がないと生きていけない。開くの怖いって思ってても癖で開いちゃうの、病気だよねホント」
「……」
「……わかってるの。でもだめなの、わたしは〝普通〟じゃないといけないから」
わたしは〝普通〟でいなくちゃいけない。お母さんが安心するような「わたし」でいるためには、「古乃」の存在が必要だった。
自分で言葉に起こすと、あまりにみじめで泣きそうになる。こんなくだらない生き方しかできないのに、ひとりでは解決策が見つけられないままだ。
「いや、別にSNS自体をやめるべきとは思ってねーよ俺は」
「……え?」
「でも、今古橋が必死につくってる〝普通〟は古橋を苦しめてるだけな気がする。だから一旦その「古乃」っていう人格は捨てたほうがいいんじゃねーのかなって」
関くんの声は落ち着いていた。依存していることをばかにするわけでも、そんな普通はおかしいと否定するわけでもなく、本当にただ、関くんは考えを共有しているだけのように思えた。
「彼氏がいない人なんていっぱいいるし、病み垢つくってる奴もいっぱいいるだろ。古橋が〝普通〟だと思ってないこと、誰かにとってはただの日常で、〝普通〟だったりするんじゃねえの?」
「……なにそれ」
「俺からすれば、〝普通〟になりたがる古橋のほうがよっぽど異常だって思っちゃうけどな」
関くんになにがわかるの。そう思ったのは一瞬のことで、実際に言い返すことはできなかった。
関くんにとって、わたしは異常。それでも、関くんの言葉には、先日届いたアンチコメントみたいな棘は感じられなかった。
否定も肯定もせず、わたしの存在を受け入れてくれている。
「使い方次第だと思う。無理して充実してるふりするんじゃなくて、今の古橋が思ってることを発信してくだけでも全然違う使い方できるんじゃねえ? ネットなんてもともと綺麗なもんじゃないだろうし。突然存在ごと消したって、クソみたいな弱音吐いたって、そんなの本人の自由なわけだし」
「……でも、消したらわたしも消えちゃう、」
「消えるのはアカウントだろ?」
「っ、でも、これがわたしで……」
「いや全然別人だわ。古橋は古橋じゃん」
全部事実で、関くんの言う通りで、泣きそうになってしまう。どれだけ理想の自分を作っても、
わたしはわたしで、わたしにしかなれないんだ。
古乃のアカウントを作ったのは、吐き出せる場所が欲しかったからだ。母の望む理想のわたしにはなれない、その苦しみを、誰かにわかってもらいたかった。
それなのに、いつの間にかフォロワーが増えて、誰かに認めてもらうことに生きがいを感じるようになった。
「古乃」でいることは、わたしを否定することと同義。それに気づかないふりをして、わたしはわたしを苦しめていた。
「なくなってからようやく気付くこともあるんだよ、きっと。実際俺もそうだったし」
「……関くんも彼女いるって嘘ついたりしてたってこと?」
「いやそれはしてねーけど。なんで今まで気づけなかったんだろうみたいな、そういうのはちょうど最近あったから」
このアカウントを消したら、古乃を殺したら。
そうしたら、わたしはわたしを認めてあげられるだろうか?
「みんな普通で異常なんだよ、きっと」
そう言った関くんは、初めて見る優しい顔をしていた。
その夜、わたしは思い切って古乃のアカウントを消した。一六〇〇人のフォロワーに向けて何かを呟くことはしなかった。
古乃はもういない。
優しいフォロワーにかまってもらうためでも、わたしに「二度と呟かないでほしい」と送って来た捨て垢を喜ばすためでもない。
かつて縋っていた自分を殺して気づくことがあるなら、わたしはその気づきを信じてみたいと思ったから。
よしの @Yoshino**reborn18 今
自分のこと、もっとちゃんと好きになりたいな
これは、わたしがわたしを認めてあげるための選択。
*
タイムラインを眺めていて、ふと流れて来た写真に目を奪われた。
翼 @247a**new 21時間前
海でギターを弾く女の子の写真に、言葉は添えられていなかった。
海の青が眩しくて、ギターが光っている。写真を撮ったのはアカウントの主である翼という人なのだろう。
「……すっごい、素敵だ」
海と、ギターと、きっとこの人にとっての大切な人。ただの他人でしかないわたしが見ても、その写真は愛しさで溢れていて、とても美しかった。
静寂は孤独、だと思う。
怖いとまではいかないけれど、寂しいと感じる。だから、生活には常にBGMが欲しい。おれの部屋にはテレビがないので、代わりに音楽をかけるのが日課だった。
いつかのおれが一時間かけて作った最強のプレイリスト。一一八曲、七時間三十四分。夜を越えるには十分すぎるかもしれない。再生すると、寂しさを含んだ空気が少しずつ消えていくような気がした。
壁を背もたれにするようにベッドの上で胡坐を掻いた。「あっちもこっちも付けないで節電しなさい」とよく母に言われるので、部屋の電気は付けずベッドの脇に置かれた間接照明を灯す。ほんのり睡魔を誘うオレンジのライトが、おれは結構好きだ。
手元にあるのは一冊のリングノート。
一週間前、兄の部屋で見つけた。
兄とは言っても、数時間後にはおれも生まれているので兄と呼んだことは一度もない。
双子だから仲が良いとか、同じ道を歩むとか、そんなのは現実的な話じゃないと思う。
実際、おれと兄は義務教育を終えてから全く別の学校に進学したし、家でもろくに話さないような関係性だった。おれたちは全く違う人間なはずなのに、顔と背丈だけはそっくりで、それが時々鬱陶しくもあった。
ノートの表紙には何も書かれていなかったけれど、質感を見ただけで、使い古していることはなんとなくわかった。
パラパラとページをめくると、日付と一緒に短い文章がいくつも綴られていて、すぐにそれが兄のつけていた日記であると気づいた。
4/15
進路の話キモ。まだ4月なのに。
4/28
やりたいこととかなにもないしギター持って旅でもするか?
5/3
GWこんなバイト入れなきゃよかった
セキと帰った セキって意外とよくしゃべる
おれもピアスあけたい.
5/21
ギターうまくなりたい
6/10
雨ってだけでうつ
6/24
梅雨うぜーーーー北海道に移住したい(空気うまそう)
ページを捲るたび、心臓の音が速くなる。おれの記憶じゃ、兄はそんな荒い口調で話すような人ではなかった。母に怒られているところなんてまともに見たことがないし、反抗期と呼べるものも来ていなかったように思う。
性格も口調も生き方も、周りからの評価も。どこをとってもおれとはまるで正反対だった人だ。
ここに綴られているのは、きっとおれが知らない兄のこと。
裸を覗いているような気分だ。少しの背徳感と、それに勝る好奇心がおれを襲う。
日記が八月にたどり着いたところで、誰かがドアをノックした。反射的にノートを閉じたタイミングでゆっくりドアが開き、風呂上りの母が顔を出した。いつも思うことだけど、返事を聞く前に開けるならノックをする意味はない気がする。
「まだ起きてたの?」
「あー、うん」
「電気つけなさいよ。目悪くなるでしょう」
薄暗い部屋を見て母は言った。節電するように言うのは母なのに、間接照明だけでは目が悪くなるから電気をつけろだなんておかしな話だ。母が言う節電の正解を教えてほしい。
「ほどほどにしなさいね」
机の上に積んだままの漫画や広げたままのスケッチブックを一瞥した母は、そう言うとドアを閉めた。無駄なことに時間使うのも大概にしろ、と、多分そういうことだ。「ほどほどに」と言うあたり嫌味が含まれている気がする。苛立ちが募り、おれははあ、と大きなため息を吐いた。
再び日記を開き、続きに目を通す。
8/1
もう8月こわ.
2か月くらい絶対勝手にどっかいっただろ
8/15
模試ばっか頭おかしくなる
ベンキョーベンキョー死ね
8/18
大学いってやりたいこととか別にないな
労働とか給料日以外人を不幸にする気がするし
8/30
全部捨てて電車とか乗り継いで遠くにいきたい
9/1
夢に庄司さん出てきた
ひさびさに中学おもいだす 今何してんのかな
読み進めていくにつれ、日記はマイナスな言葉が多く吐き出されるようになった。
おれは、兄がそんな感情を抱えて生きていたことを知らなかった。同じ家で暮らしているけれど、お互いの進路すらわからない。いつも涼しい顔をして生きているから、視界に入るだけで焦燥に駆られるのだ。
高校生になってからは、目を合わせて会話をした記憶がほとんどないくらいだった。おれたちは確かに、「不仲」だったのだと思う。
九月七日の日記にたどり着き、おれは手を止めた。そのページは黒い線で何度も塗りつぶされていて、日付だけがかろうじてそのまま残されている。
何かを書いて、消した。そしてそれが何だったのかは、さらにページを捲ってすぐにわかった。
どれだけ力強く書いたのか。裏面にうっすら写った四文字が、俺の胸を締め付ける。
そんなふうに思うことあったなら、話してくれたらよかったのに───なんて偉そうなことは、間違ってもおれが言えることではなかった。
おれたちが双子じゃなくて、年の離れた兄弟だったらわかり合えていただろうか。同じ家に生まれていなければ、良い友達にでもなれていただろうか。
どうしておれたちは家族で、よりにもよって双子だったんだろう。
日記を閉じ、スケッチブックと漫画が散らかる机の上に雑に置いた。こんなもの見つけなければよかった。いなくなった今でも、おれは兄のことが嫌いなままだ。
日曜日の昼下がり。こんなおれでも一応受験生というやつなので、休日は勉強道具とスケッチブックを持って図書館やカフェに行くことが多かった。
学習にスケッチブックは当然必要ないけれど、持ち歩いているだけで安心する。ナントカ効果ってやつ。ナントカが何かは覚えていないし思い出す気もないのだが。
「新、どこ行くの」
玄関で靴を履いていると、後ろから母が声を掛けて来た。ああうん、と短く返事をすると「どこに?」ともう一度聞かれる。
母は最近、というか、この一週間、外出に対して敏感だ。原因はわかりきっているが、この場にいない人間のせいで環境に影響が出るのは、超時期かなり鬱陶しい。
「勉強しに図書館行ってくる。夕方には帰るよ」
「ああ、そう……ちゃんと連絡してね」
安堵する母に、それ以上返事はしなかった。苛立ちを抑え、おれは家を出る。清々しいほどの青空が憎たらしかった。
*
図書館に出向いたが、日曜日ということもあってか学習スペースが満席で利用できなかったので、代わりにカフェに行くことにした。
駅から歩いて五分ほどのところにあるこぢんまりとしたカフェバー。ちょうど一か月前くらいに、歩いていてたまたま見つけた店だ。
昼時だったので客数はかなり多く見受けられたが、ひとりだったので、運よく空いていた隅のカウンター席に通された。コンセントもWi-Fiもあるし、椅子がソファのように柔らかいのでかなり快適なので、長居するには条件が良い。
いつもいる若い女性の店員にアイスティーを注文したあと、バッグから参考書やノートを出して広げた受験なんてめんどくさくて人を苦しめる仕組みは、だれがいちばん最初にやり始めたんだろう。頭脳とか学歴とか、そんなもので評価されていたくないと思うのは単なるおれの我儘なのだろうか。
英語の参考書を見つめながら、ぼんやり思考を巡らせる。
おれは、これからどうなっていくんだろう。
勉強が特別できるわけじゃない。騒がれるほど運動能力に長けてはいないし、人と長時間同じ空間にいるのも苦手。将来の夢はなんにもなくて、興味があることもやりたい仕事もひとつも思いつかない。
高校三年生のこの時期になっても、おれはふらふらしたままだ。
ぼんやり思考しながら、開いたノートの隅っこにペンを走らせる。スケッチブックとはまた違うノートの紙質は、さらさらしていて脳死で落書きするにはちょうどいい。
手抜きで描いた好きな漫画に出てくるキャラクター。我ながら、結構似ていると思う。
何もないおれが、かろうじて人に話せる特技は絵だった。好きになった経緯は多分幼少期のどこかにあるんだろうけど、思い出せるほど記憶力があるわけじゃない。
スケッチブックを持ち歩くのは昔からの癖。
コミュニケーションが上手にできなくて、思っていることを伝えることが苦手だったので、消化しきれなかった感情をぶつけるという意味があったのだと思う。
癖付いた習慣はなかなか消えないもので、もうすぐ十八歳になる今でもやめられずにいる。
自慢できることでも将来に活かせることでもないが、スケッチブックと鉛筆はおれの心臓だった。
『新はいいな。才能があって』
ふと、脳裏をよぎったあいつの言葉に苛立ちを覚えた。生きているだけで才能の塊のようだったひとに羨ましがられたところで、むかつくだけだ。
人の記憶は、どうしてこんなに都合よくできているんだろう。
ここにはいない人間から言われて嫌だったことばかり思い出してしまう。兄と双子で良かったと勘違いできるくらい、嫌な記憶の全てを忘れられたらよかったのに。
双子の兄───仁科翼は、憎たらしいほどよくできた人間だった。
頭がよく、中学時代からテストでは常に上位をキープしていた。美術でしか五を取れなかったおれに比べ、翼はほとんどの教科で四以上をとっていて、「翼は何にも心配いらないねぇ」と母がよく褒めていたのを覚えている。
おれはそんなふうに褒められたことなんか一度もなかった。いつもどこか心配されていて、言葉にされなくても「翼を見習いなさい」と訴えかけられているような気がしていた。
勉強だけじゃない。運動もジャンル問わずだいたい人並み以上にはできていたし、コミュニケーション能力にも長けていた。周りにはいつも人が集まっていて、その全員が、翼のことを信頼したり好意を寄せたりしていたように思う。
翼の心臓は、おれみたいにスケッチブックと鉛筆が無くても正常に動いている。
それがずるくて、憎くて、消えればいいと思っていた。
双子なのに、光があたるのはいつも翼だけ。
日に日に募る劣等感も、同じ顔なのにひとつもわかり合えない性格も、全部大嫌いだった。
自分を見失いそうになるのも、ふとした瞬間に生きている意味がわからなくなるのもあいつのせいだ。
嫌悪と劣等感をかき消すように、ノートに描いたキャラクターの顔をぐりぐりと塗りつぶす。
指先に力を込めると、ボキっと音を立てて鉛筆の芯が折れ、芯の黒い粉が散らばった。
心臓がざわついて落ち着かないの何故なのか。
「お待たせしましたアイスティーで──……え?」
目の前にアイスティーを置いた店員の声が途切れる。あまりに不自然だったので視線を移すと、目が合った。同い年くらいの男性店員。記憶をほじくり返せばどこかにいそうな顔だ。
「えーっと……同じ中学で…」
「は?」
「…いや、なんでもないです。すみません、ごゆっくりどうぞ」
同じ中学で。小さくて聞き取りずらかったけれど、店員は確かにそう言っていた。
言われてみればいたような、いないような。少なくとも、この店員とおれが親しい関係じゃなかったことだけは確実だろう。こういうとき、あいつだったらすぐに名前を思い出せるんだろうか。
おまえはいいよな、なんでも完璧で。
劣等感はこんなにもおれを皮肉にさせる。心の中でこぼれた本音に、大きなため息がでた。
「お会計、四五〇円です」
結局、おれは一時間ほどでカフェを出ることにした。勉強をしようにも、頭の隅に翼がいて気が散るのだ。鉛筆の芯は、大胆に底から折ってしまったせいで簡易的な鉛筆削りでは上手く修復できず、絵を描くことすらできなかった。
全部が少しずつうまくいかない。そういう瞬間が重なってストレスや焦燥感を煽るのかな、と他人事のように思う。
会計をしてくれているのは、注文を取ってくれた男性店員だった。
おれと同じ中学校に通っていた、らしい人。
ちらりと名札に目を向けると「青砥」と書いてあり、そこでようやく思い出した。
青砥千春。名前と顔はかろうじて一致するけれど、クラスは一度も同じになったことはなくて、これといって接点があったわけでもない。その程度の距離感だから、話しかけるか迷って最終的に遠慮した青砥の気持ちもわからないはなかった。
「あ……青砥」
「え?」
「僕、青砥……、一応中学同じだったんだけど。えーと……仁科、僕のこと知ってる?」
リュックから財布を取り出したタイミングで青砥が口を開いた。
遠慮したんじゃなかったのかよ。話しかけられるとは思わず、おれは驚いて数秒固まってしまった。
「ごめん、急に。その……えーと、あんまりこの店、知り合い来ないから」
「へえ……」
「元気?」
「それなりに」
「へえ……」
青砥が申し訳なさそうに目を逸らす。意味がわからなかった。
なんだこの中身のない会話は。
過去にまともに会話をした記憶はないから、青砥がどんな人でどんな風にコミュニケーションをとる人なのかは知らないけれど、今のやり取りから察するにおれより人と関わるのが下手なんじゃないかと思う。
無理をしてでもおれと話したいことがあるのだろうか? 考えながら、四五〇円ちょうどあったので、取り出してトレイに載せた。
そのタイミングで、「あのさ」と青砥が再び開口した。
「仁科……早く帰ってくるといいよね」
そう言われた瞬間、そういうことかと納得した。関わったことのない同級生に話しかけるのに理由がないわけがない。
青砥がおれに話しかけてきたのも、最初に話しかけづらそうにしていたのも───行方不明になった仁科翼と双子だからだ。
「なに? 翼のこと聞き出したかった?」
「え、いや。ごめん、そういうんじゃなくて」
「だったらおれに聞くよりテレビとかネット見たほうが良い情報あると思うけど。おれ、翼と仲良くなかったし。性格も全然違うからさ、なんで翼がいなくなったのかとか想像もできないんだよね」
一週間前、翼が突然姿を消した。いつも通り制服を着て学校に行ったはずの翼は、突然返ってこなくなった。
学校からは来ていないと連絡が来て、母はとても動揺していた。普段は落ち着いている父もその日は柄になく焦っていて、翼を探すために近所を走りまわっていた。
おれも父と一緒に翼を探したが、あいつが行きそうな場所も行動範囲もわからなくて、ただ当てもなく走り回るのは苦痛な時間だった。
結局、二時間ほど近所を探し回ったけれど翼は見つからず、汗だくになりながら家に帰った。
日記を見つけたのはその夜のことだった。
風呂から上がり、ただなんとなく、翼の部屋を覗いた。今思えば好奇心だったのだと思う。ほとんど入ったことのない翼の部屋がどんな内装なのか気になっていた。
落ち着きのあるシンプルな部屋は翼らしくて、物で散らかったおれの部屋とは大違いだった。
整頓された机の上にあった一冊のリングノートと使ったまま放置されたボールペンが置かれていて、おれは引き寄せられるようにノートを手に取った。
綺麗に片付けられた部屋に似つかない出しっぱなしのそれらに、おれは違和感を覚えていた。
『……新? なにしてるの』
中を読もうとしたところで、母に声を掛けられた。息子がいなくなり、すべてに敏感いなっていたのだろう。咄嗟にノートを閉じ、「なんでもないよ」と曖昧に答える。
『何か翼のことわかるかと思って』
『そう……。でも、勝手に漁ったらだめよ。お母さん、それで翼に怒られたことあるから』
『翼に?』
『勝手に触んないでって。まあ、普通に考えたらそうよねえ。お母さん過保護すぎたかもってちょっと反省したのよ』
翼も母に怒ることがあったなんて知らなかった。
しかしながら、確かに母はかなり心配症で、時々鬱陶しく感じるほどだ。高校生になってからは緩和されたけれど、中学生の頃は帰宅時間や対人関係を細かく知りたがろうとしていた。
おれと翼の性別が今と違っていたら、もっと厳しくて口うるさい母になっていたのではないかと思う。
『お母さん、やっぱり警察に連絡しようと思う』
『……そう』
『帰って、くるわよねぇ……』
母の弱弱しい声が、静寂に溶けていく。警察が来たら、このノートも参考資料として預かられてしまうかもしれない。そう思ったら置いたままにはできなくて、母が部屋を出たあと、おれは自分の部屋にノートを持ち込み、リュックの中にしまった。
翌日、翼が消えたことは全国ニュースになり、自宅は警察の捜査が始まった。
それから一週間後の今日。警察の捜査や、知り合いからの連絡に追われて家自体がバタバタしているうちに、おれもノートの存在を忘れてしまっていた。
ふと思いだしたのが今朝のことで、おれはようやくあのノートが翼の日記だったことを知ったのだった。
けれど、それくらいだ。血のつながった兄弟なのに、おれは文字を通してようやく翼の本音をほんの少し知れただけで、それ以外はなにも知らない。
おれたちは真逆だ。本音を知ったところで、きっとひとつもわかり合えない。
「あのさ、仁科」
青砥の声にハッとした。トレイに載せた四五〇円はレシートへと姿を変えている。
「他人の僕がいうのも変な話だと思うんだけど……、わかり合えない人のこと、わかろうとするだけでも違うのかもって思う」
「……はあ?」
「僕も最近気づいたんだ。だけどさ、言わないだけで、みんな意外と色々抱えて生きてるみたいだから」
久しぶりに会った、まともに話したこともない同級生にそんなことを言われるなんて思っても見なかった。急に話しかけてごめんと謝られ、曖昧に返すことしかできない。
言わないだけで、意外とみんな色々抱えて生きている。
そんなこと言われなくてもわかっている。
おれにだって、言わずにいることがある。翼のことが本当はずっと嫌いだということを母に伝えなかったのも、あいつをずるいと思っていたことも、おれ以外の誰も知らない。
言ったところでどうせわかってもらえない。
他人にわかったように話されたくもない。
仮に誰かに話したとして、わかってもらいたい人に分かってもらえなかった時が怖いから。
だから、言わないだけだ。
翼も、そういう気持ちを抱えていたのだろうか?
たとえわかり合えなくても、わかろうとしていたら───おれたちはもっと仲良くできていただろうか?
「ありがとうございました」
レシートを握りしめ店を出る。「またお待ちしております」と、青砥の控えめな声が遠く聴こえた。
*
「わはっ、アオハルくんすっごい緊張してたね。会話レベルが二だった」
「やっぱり僕人と関わるの苦手だなって思いました。なんか、自分のこと棚に上げて説教臭いこと言っちゃったし」
「いいんだよ。人間関係とかべつに得意になろうとしてなるようなことでもないしさ。他人のために無理することでもないでしょ」
「わかろうとしてもわからないことばっかですね人生」
「アオハルくんも「人生」で括るようになったかあ、いいねえいいねえ」
「すごいうざいんでもう喋らないでもらえます?」
「なははっ。でもねえ、すごい良かったよ、さっきのアオハルくん。さっきの男の子にも響いたんじゃないかなあ」
「どうですかねえ…」
*
カフェを出た足で、おれは家の近くの公園に立ち寄った。日が暮れ始めた空はオレンジ色に染まり始めていて、ほんのり切なさを含んでいる。
おれはベンチに座り、リュックから日記をとりだした。ぱらぱらとページを捲り、八月の日記にたどり着く。不穏さが増し始めたのはこの辺りからだ。
高校三年生の夏は、一般的に、模試や課外講習が詰まっている時期。翼が通っていたのは県内じゃ有名な進学校だったから、いっそう空気が詰まっているのかもしれない。詳しいことは何も知らないけれど。
8/1
もう8月こわ
2か月くらい絶対勝手にどっかいっただろ
8/7
ギターかっこいい おれにも才能あったらな
8/9
新しいピック買った!弾くぞ
8/15
模試ばっか頭おかしくなる
ベンキョーベンキョー死ね
8/16
新いいなー
絵描けたらおれももっと違ったのかな
前に目を通した時は見落としていた八月十六日の日記。記憶のなかの翼が喋り出す。
『新はいいな、才能あって』
思い返せば、翼にそう言われたのも夏のことだった。
部屋にこもり絵を描いていた時、翼が部屋に入って来た。その理由は、シャープペンの芯が切れたから一本だけほしいとか、ルーズリーフ一枚ちょうだいとか、どうでもよすぎて思い出せない程度の用事だったことだけは覚えている。
おれたちは最低限の会話しか交わさない。それもだいたいは翼からの用事であって、おれから翼に話かけることはほとんどなかった。
『また絵描いてんの?』
『べつにいいだろ。見んなよ』
『いいな、才能あって』
あの時、おれはバカにされていると思った。絵なんか描けても、将来なんの役にも立たない。美術について深く学びたいわけでもないから芸術大学に行くなんて選択肢は持っていなかったし、専門に行く気にもなれなかった。
気が向いた時に手癖で描くくらいがちょうどいい。仮に絵が描けることがおれの才能だったとしても、翼に羨ましがられるようなことじゃない。
おれよりずっと良いものを持っているくせに何言ってんだよと、褒められている事実を純粋に受け取ることができなかったのだ。
あの時、翼がどんな悩みを抱えていたのかとか、誰かに言えない気持ちがあったのかとか、そんなことは一ミリも考えたことはなかった。考えようとすら、おれはしていなかった。
9/7
九月七日の日記。黒で塗りつぶされたそのページに書かれた四文字が苦しい。
何が、翼をそんな気持ちにさせていたんだろう。
勉強も運動もできて、周りには好かれていて、期待もされている。翼は、双子でいることが苦痛に思うほどよくできた人間だ。
そんな翼にも、日記に吐き出したくなるような感情があった。おれを羨むことがあった。
黒で塗りつぶしてしまうような気持ちを、本当はずっと抱えていたのだろうか?
考えてもわかりそうになくておれは空を仰いだ。
いなくなってから気づくなんて、死にたくなるほど情けない。
母に「少し遅くなる」とラインしたのは十七時を回ったときのこと。送った直後に母からは電話がかかってきたけれど、帰りが遅くなる理由を全て説明するのは面倒だったので出なかった。
【遅くなるって何時頃?】【迎えいく?】と続けて送られてきたラインには、既読だけをつけた。
翼が何も言わずいなくなった理由が、なんとなくわかった気がする。
相手が諦めるまで鳴り続ける電話も連続で送られてくるラインも鬱陶しくて言葉を返したくない。だけど、心配性の母が不安がる気持ちもわからなくないので、既読だけは一応つけておこう。
そういうことをいちいち考えて思考を奪われるのが嫌だったんじゃないか? なんて、今ここにいない人間の思考をわかろうとしたところで、どうせ正解はでてこないんだけど。
人を探していた。遭遇できるかどうかの確証はなかったけれど、地元の高校に通う生徒たちの通学路を辿ったり、街の真ん中にあるいちばん大きな交差点で辺りを見渡したりした。
翼が残した日記のなかに名前があったあの子。夢に出てきて、何をしているか気になってしまうようなあの子。彼女なら、おれが知らない翼のことを知っているかもしれない。
時間が経ってだんだん周りが翼のニュースに興味を示さなくなる前に、おれは彼女に会っておきたかった。
「おーい、新くーん」
だからその日、彼女───庄司絢莉と偶然遭遇できた時は、柄にもなく、神様とかまじでいるかも、と思ってしまった。
彼女は、中学時代と変わらず永田百々子と木崎祐奈と一緒にいた。
おれは三人のうち誰ともきちんと関わったことはなかったけれど、彼女たちが中学時代一緒に行動していたことは知っていたので、時間が経てば経つほど翼とわかりあえなくなってしまった俺からすれば、変わらない関係を築けているのが少しだけ羨ましかった。
「庄司さんは、どう思う?」
「どうって?」
「翼は、やっぱり死んだって思う?」
彼女に何故そんなことを聞いたのか、自分でもよくわかっていなかった。
自分だけじゃないと思いたかったのかもしれない。信じたかった、───希望を抱いているのがおれだけじゃないってことを。
スケッチブックを開き、削りたての鉛筆を握った。
記憶をたどって、翼の顔を描いてみる。一卵性の双子だから、鏡を見ながら描けば大体の特徴をとらえることはできるのかもしれないが、それをしなかったのは、妥協したくなかったからだ。
手癖で描く漫画のキャラクターの何倍も難しくて何度も描きなおしたが、結局できあがった似顔絵はこの上なくへたくそで、おれはひとり、部屋で笑ってしまった。
双子なのに、おれは翼の顔をきちんと認識できない。それだけ長い間、おれは翼を避けていたということだ。
まったく似てない似顔絵の隣に、深く考えずにギターを描いた。
つばさとあまり話した記憶はないけれど、中学一年生の頃まで翼が時々ギターを弾いていることは知っていた。あの頃、隣の部屋からやさしい音色が聴こえると、おれはBGMを止めていた。翼には死んでも言わないことだけど。
ある日突然聞こえなくなったのは、多分、母の影響だと思う。俺がちゃんとしていない代わりに、母は翼に期待していたから、無駄な時間を許さなかった。
好きなことを禁止されるのはどんな気持ちなんだろう。その点、おれは絵を手離したことはなかったから、翼の苦しみは到底想像できなかった。
おれは、翼のことを何も知らない。
知らないから、話をしなければならない。
おれは変わらずひねくれていて、翼のことはどうしたって羨ましいと思ってしまうし、おれには何もないとも思ってしまう。
翼よりおれのほうがずっと死にたいって思ってるとか、わけのわからないマウントを取りそうにもなるし、運動も勉強もできるんだから絵なんか描けなくてもいいだろとかクソみたいなことも思う。
おれのことをわかってもらいたいなんて思わないし、おれの気持ちはきっと一生、翼には理解できないことだ。
だけどきっと───それはお互いさま、だから。
おれたちに必要なのはお互いをわかり合うことじゃなくて、おれたちが双子で、違う人間であることを分かろうとして、受け入れること。
まだ間に合うだろうか。
おれたちは、まだ、これから仲の良い双子になれるだろうか?
「つっても、話してみないとわかんねーよなあ……」
おれのひとりごとが静寂に落ちた時───玄関のドアが開く音がした。