仁科が消えてから二週間が経った。
たった二週間、されど二週間。
情報番組で扱うニュースは日々入れ替わっていき、仁科の名前を聞くこともなくなっていた。
覚えが悪かった鈴木さんはバイトを辞めた。彼女と入れ替わるように新しく入ってきたのは、白石くんという、物腰が柔らかくて爽やかな男の子だった。出勤はまだ数える程度だが、覚えが早いので、周りからの評価が高かった。「指導した関くんも悪いでしょ」とかなんとか裏で言われたらやだなと思っていたので、白石くんがちゃんとできる人で、俺は正直ホッとしていた。
「白石くん、関くんにちゃんと教えてもらえてる?」
出勤してすぐのことだ。「関くん名札忘れてるよ」と店長に言われ、慌てて休憩室に名札をとりに戻ると、ドアを開けようとしたタイミングでそんな声が聞こえ、俺は咄嗟に動きを止めた。
「はい」
「本当はね、仁科くんっていうすごい仕事できる子がいたのよ。新しい子の指導は全部彼がやってたんだけど、突然やめちゃって」
「はあ、そうなんですか」
「関くんじゃちょっと不安っていうかねぇ……ほらあの子、うちの娘と同じ中学校だったんだけど、昔かなりヤンチャしてたっていう話でね」
ババアの退勤と白石くんの出勤が被ったせいか、ババアのマシンガントークに曖昧に相槌を打っている。
噂話ならもっと小さい声でやれよ、なんて思いながらも、自分がいないところで話題にされるのは良い気がしなかった。
バイト歴一年にしてようやく判明した。パートのババアが俺にだけやたら厳しくてねちっこいのは、俺の中学時代の素行を知っていたからみたいだ。
ババアの記憶のなかで俺は、迷惑をかけることでしか自分を見てもらえなかったあの頃のままで止まっている。
それってつまり、俺は変われていない、ということで。
「それに関くん、仁科くんに対しても結構態度悪くてね。嫉妬って怖いわよねぇ、今時恋愛だけに言えることじゃないのよ? 関くん、きっと本当は仁科くんみたいになりたかったんだと思うわ」
「はあ、そうなんすか」
「うんうん、きっとそうよ。でも可哀想よね、関くんと仁科くんじゃ全然違うのに。なんかねえ、なんていうのかしら。関くんってちょっと恩着せがましいところとかない?」
「はあ、どうすかねえ」
ああ、くそだ、本当。
全部全部、仁科のせいだ。
おまえがいなくなったせいでお前の仕事は全部俺に回って来たし、店長の頼みは増えたし、お前と比べられて評価されるようになったし、自分の陰口まで聞く羽目になった。
可哀想とか、ババアに勝手に決められるようなことじゃないのに。
「仁科くんが今もいてくれたらよかったんだけど」
「はあ」
「SNSとかでも流れてたりしない? ほら、彼が自殺したかもってやつ。結局どうなったのかわからないんだけど、やっぱりまだ見つかってないってことは死んじゃったってことなのかしら」
ここにいない仁科にむかついたところで何の解決にならないこともわかっているのに、苛立ちがおさまらない。
あーあ、ホント、嫌になる。長く続いても高校の卒業と同時に辞める予定だったわけだし、だったら今辞めても──……そうだ、今日辞めるか。
それから俺は、ドアを開けずにホールに戻り、店長には「名札家に忘れましたすいません」と雑な嘘で謝った。
「店ちょ……」
「あ、関さんすみません、今いいっすか」
閉店後の締め作業を終え、カウンター席に座って事務仕事をする店長に辞めることを伝えようとしたところで、白石くんに声を掛けられた。
「この枯れた花ってどうしたらいいですかね?」
「花?」
「え、はい。なんかすげー枯れてて見栄え悪いんでどうしたらいいかなって」
どこから持ってきたのか、彼は花瓶を見せてそう言った。枯れた花がみすぼらしくそこにいる。
見たことのある花瓶だった。たしか、トイレ前の通路に置いてあったやつだ。けれど、俺の記憶にあるのは色鮮やかに咲いているもので、こんなふうに茶色くなったものじゃない。
この店でバイトをはじめて一年。そこに過敏が置いてあることは知っていたが、俺は一度も、この花に水を与えたことはない。
昼間のバイトやパートの人が水やりしていたのか? いや、だとしたら枯れていることにもっと早く気づいていたはず。
じゃあ一体だれが───。
「あ、それねー、育ててくれてたの仁科くんだ」
思い出したように店長が口を開く。「仁科ですか」と、反射的に声がこぼれてしまった。
「そう。まかせっきりにしてたからすっかり忘れてた。枯れたのはもうしょうがないから捨てようか」
「わかりました」
白石くんが小さい声で「ごめんね」と言いながら枯れた花を捨てた。店内が静かだったから聞こえたが、有線がついた営業中の店内だったら絶対聞こえなかったであろう声だった。
「これって、新しい花買う感じですか? 空いた花瓶は……」
「いやー、ね、そうだよねどうしよう。水やり忘れたらすぐ枯れちゃって可哀想だよねぇ」
仁科くんがいてくれたらよかったんだけど。なんの気なしに呟かれたその言葉に、ちくりと胸が痛んだ。
突然辞めたのが俺だったとしたら、こんなふうに言われていないだろう。辞めてからもこんなふうに求められる仁科が、俺は羨ましくてしょうがない。
はあ、と小さくため息を吐くと、「関さん」と名前を呼ばれた。
「仁科さんって、ニュースになってた人っすよね」
「え? あー……うん」
「ぼくその人と会ったことないんであれですけど、関さんに教わることに不便感じたことないっすよ」
思いがけない言葉だった。動揺のあまり、「え、何急に……」とたどたどしい返事になってしまう。
「あ、すみません。さっき休憩室で話してたとき、関さんが聞いてたの見えちゃって。ドア半開きだったんで」
白石くんの表情からは、何を考えているのか読み取れなかった。
「今日パートの人も仁科さんのことめっちゃ褒めてたんですよね。でもぼくからしたら、今ここにいない人のこと話されても知らないから、比較のしようがないんですよ。てか全然、頼りになります関さんは」
「あ、ああ……そう」
「気にしてるのかと思って。あの、一応です。要らない情報だったら忘れてください」
後輩に気を遣わせるなんて情けない。そう思う俺とは裏腹に、白石くんは言葉を続ける。
「でも今言ったこと、まじですよ。関さんかっけーっすもん。あとなんか、人間らしくて安心します。ぼくも関さんに甘えていいんだって思えるっつーか。あ、ちなみにこれめっちゃ褒めてるんですけど伝わってます?」
「え? あー……えーっと……」
誰かに褒められた経験が乏しいので、こういうとき、どういう反応をするのが正しいのかわからない。
俺はただ、自分ができる範囲で言われたことをやっているだけだ。仁科に比べたら、そこまで影響力のある人間じゃない。
そんな俺のことをこんなふうに思っている人間がいることに、俺は純粋に驚いた。けれど同時にどこか照れくさくもあって、俺は白石くんからそっと視線を逸らした。
「そういえば仁科くんも前に言ってたな」
「……仁科が、ですか?」
「『関は俺と違って根が真面目で律義なやつだから、もっと任せていいと思います』って。仁科くんが辞める話は前から聞いてたもんだから、その時に関くんの話になってね。まあ、こんなに急に辞めるとは思わなかったんだけど。仁科くんが信頼してるならってことで、指導係は関くんにお願いしたんだよ」
「急に仕事ふやしてごめんね」困ったように店長が笑う。白石くんは、何も言わず俺をじっと見つめていた。
「関ってさぁ、俺のこと嫌いだよね」
突然仁科にそう言われたのは、バイトを始めて一か月ほど経った時の出来事だったと思う。
退勤時間が仁科と偶然同じで、俺たちは成り行きで一緒に店を出た。仁科がその話題を振ってきたのは、歩き出して直後のことだった。
「……は、え?」
「俺のこと嫌いだよねって聞いた」
「……え、いや、なんで?」
「いやいや、滲み出てるじゃん。俺そういう雰囲気察するの得意だよ」
その瞬間、そんなわけないだろと否定できるほど俺と仁科の関係は深くなく、というより、言われたことが図星であり否定の余地がなかった。
人に知られたくない感情ほど、上手く隠せないのは何故だろう。
どう返していいかわからず目を逸らすと、仁科はハハ、と笑った。
「いや、いいんだよ全然。ごめん、別にそれが嫌だとかじゃなくてさ」
「はあ」
「ただちょっと、俺はお前に興味あったから」
言っている意味がわからなかった。なんでも持っている仁科が、俺に興味を持つ理由なんてあるはずがない。
「中学生でピアス開けるとかかっこいいじゃん。関のこと、ちょっと羨ましかった」
馬鹿にされている。そう、思った。
羨ましいって何がだよ。仕事で帰ってこない母がいて、部屋から一歩も出てこない兄がいて、俺はいつも一人だった。上手な頼り方を知らないまま、人に迷惑をかけることでしか自分を見てもらえなくなった。
「……はっ。そういうとこだよ、俺がお前のこと嫌いだったのは」
「え?」
「お前はいいよな、悩みも地獄も知らなそうでさ。俺は、ずっと見返り求めて生きてるってのに」
ひとつ口に出した途端、感情はあふれ出す。こんなのはただの僻みでしかないって、頭ではわかっているのに止まらなかった。
俺がどんな気持ちで生きているか、なんて、仁科にわかるはずがない。
仁科みたいに愛想が良くて、誠実で、明るくて、勉強も運動もできてコミュニケーションに困らない。俺みたいに、他人の不幸を願って生きているような奴と比べたら、仁科のような人間が人生をうまくこなせるのは当たり前のことだ。
俺だって、本当はもっと真面目に生きていたかった。抱える孤独を誰かのせいにするんじゃなくて、本当はもっと前向きに生きて、自分で自分を認めてあげたかった。
あの時よりはまだ今のほうがマシとか、そういう過去の自分と比べて生きていたいわけじゃないのに。
ピアスを開けたくらいじゃ満たされない。
そういう感情を、俺はひとつも消化できないまま生きている。
「そういうとこだよ関。俺がお前を羨ましいって思うのは」
仁科の声が鮮明だった。
「見返りを求めるって、人を信用してるってことじゃん。俺は逆。他人ごときに俺のことわかってもらいたくないって思ってるから。本当に俺が考えてることなんてさ、きっと誰も知らない」
「……なんだそれ意味わかんね。つまんない冗談やめろ」
「みんな急に俺がいなくなって困ればいいのに、とかね。人に優しくする理由にしちゃ曲がってるけど。俺も大概そんなこと思って生きてたりすんだよね」
「だから、意味わかんねえって」
「俺も」
「はあ……? 頭おかしいんじゃねーの」
「関ってホント俺のこと嫌いだよね」
「おまえと喋ってると疲れる。もう黙れようぜーから」
仁科翼。俺はお前のことが嫌いだった。
無駄にキラキラしたオーラは鬱陶しかったし、何を考えているのかわからない瞳も怖かった。
俺たちは絶対に交わらない。同じ思考を持つこともない。仁科がその日言っていた言葉の半分も、俺は理解できないままだった。
それでも俺は───俺たちは。
「あーなんか、関と全然仲良くないのに言わなくていいことまで言った気がする」
「知らねーよ、こっちの台詞だわ。まじでお前日本語不自由」
「まあでも関ならいいか。言いふらす友達いなそうだし」
「死ねお前まじで。性格ゴミ。人間界の最低種族」
「それ絶対言いすぎ」
「は? おまえが元凶な」
今、やっと気づいた。
俺は仁科のことを羨ましいと思ってたんだ。
──…うん、そんな気がする。
過去のできごとを辿って、今更気づきを得ることがあるなんて知らなかった───いや、気づきたくなかったのだ、ずっと。
仁科が羨ましい。その感情を認めたら、俺があいつより劣っていることも認めることになる。
だけど、それは仁科も同じだったのかもしれない。
仁科が俺を「羨ましい」と言っていたのが、本心からこぼれたものだったとしたら。
思い出したとて、仁科の生死はわからないままだし、あいつがいなくなったことで増えた俺の負担も減らない。それでも、あの時仁科が言っていた言葉の意味は、今の俺なら素直に受け止められる気がした。
「店長」
「ん?」
「新しい花、俺が育てますよ」
お前がいなくなっても別に困らなかった、お前の影響力なんてそんなもんだった、って笑って言えるように、俺は今をちゃんと生きることにする。
「つか関さん、辞めないでくださいね。関さんいなくなったら俺も辞めたくなっちゃうかもしんないんで」
「……花のことあるし当分はいるんじゃね?」
白石くんの言葉に、俺は照れ隠しでえらそうに返事をした。
その日、帰宅した俺は、何を思ってか静寂に包まれたリビングで、「ただいま」と言ってみた。
思い込みでも幻聴でもなんでもよかった。ただ、「おかえり」と、消えるように小さな声で言われたような気がした。
学校という仕組みを最初に生み出したのは誰なんだろう。その人がもし今も生きてたら絶対わたしがぶっ殺してやったのになあ、とか。
わたしの一日は、そんな物騒なことを懲りずに思っちゃうとこから始まる。
「ねーねー、小テスト勉強してきた?」
「いや全然。無理くり覚えるより堂々と再テスト受けたほうが効率的かなって」
「だははっ、屁理屈すぎ!」
「thoughtだけ覚えた。思考ね」
「thの発音うますぎだろ」
「先生の真似。あの人thだけやたらこだわるじゃん」
SHRが始まる五分前。
わたしはスマホを鞄にしまい、覚える気なんてないくせに形だけでも、と英単語の参考書を机の上に広げた。
毎週月曜日の朝は英語の小テストがあって、この時間はクラスメイトの大半が駆け込みで単語を覚える光景が基本。十点中六点以上が合格で、それ以下だったものは昼休みに再テストを受けなければならないというルールだけど、再テストが不合格だったとて評定に少しばかり影響するだけ。
初めの頃は真面目に取り組んでいた生徒たちも、だんだん月朝(月曜日の朝をなぜかうちの学校の生徒はこう略す)の億劫さに気がついて、一部の生徒は平気で零点を取ったりするようになるのだ。
堂々と再テストを受けたほうが効率的、というのは、わたしもとてもよくわかる。
「はいはい皆さん、テストしますよ~」
そのうち担任が入って来て、B6サイズのテスト用紙が配られた。答案用紙にしては結構こぢんまりとしていて、せめてA4だったらもうちょっとテスト感出るんだけどな、とあまり周りに伝わらなさそうな不満を抱えたままわたしは月朝を終える。
隣同士で答案を交換してすぐに答え合わせ。
わたしの結果、十点中七点。今週も再テストは免れた。
その日、テストの中でthoughtと答える問題はひとつもなかった。
昼休みになると、クラスメイトの半分が部活の昼練に行ったり食堂に昼食を食べに行ったりするので、教室は密度が下がる。
今日は月曜日なので、英語の再テストに向かう人もちらほら。塞がれていた空間に風が通る時間。すうっと息を吸うと、息苦しさが少しだけ消えていった。
昼食にお弁当を持参しているけれど、今日は家を出てすぐにお母さんから「お箸いれわすれちゃった」とメッセージが届いていたので、購買まで割り箸を買いに行かなければならない。
教科書をしまうついでに鞄の中からスマホと財布を取り出し、わたしは教室を出た。
購買に向かいながら、慣れた動作でSNSを開く。
古乃 @furuno**chan 5時間前
今日は学校終わったら彼氏くんと映画!
ひさびさのデートだから顔面気合いれた(,,> <,,)♡
そのツイートには、いいねが五十三件、リプライが三件ついていた。文字だけのツイートにこの反応はまあまあ良いほうだと思う。
↳Haruka @ha**ru**20 4時間前
前にのせてたすきぴくんだよね!?
デート楽しんで~!
↳お茶漬け @oishii*gohan*dayo 1時間前
学校まじえらい、、、
↳ゆうな @yuuna1103sub* 36分前
彼氏くんの写真また見たい!^-^
いいね欄を表示すると見慣れたアカウント名がたくさんあって、わたしはほっとした。
届いたリプライを見て、Harukaさんは「デート」とか「彼氏くん」とか呟くと反応しがちだよなあとか、お茶漬けさんはたくさん褒めてくれるなあとか、ゆうなさんはいつもいいねしてくれるなあとか。
本名も顔もしらない人たちの反応で得られる安堵が、わたしにとっては心地よい。
「……あ、お箸、ください」
「五円いただきますけどいいですか」
「はい、すみませんありがとうございます」
購買につき、いつもいるおばちゃんに錆びれた五円玉を渡す。
忘れっぽいお母さんのせいで月に何度か割り箸だけを買いにきているけれど、このおばちゃんは多分、わたしの顔なんて覚えていないんだと思う。覚えてくれていたら、割り箸に五円かかることをわざわざ教えてくれたりしないだろうから。
割り箸を受け取り、おばちゃんに小さく頭を下げてわたしは来た道を戻った。
教室に戻ると、わたしの席には人がいた。クラスのなかでも派手なグループの女子たちが集まってお昼を食べている。
そこわたしの席なんだけど。心の中ではっきり言えても音にならなければ言っていないのと同じだ。
どうしようかと考えていると、グループのうちのひとり、相沢さんがわたしに気づいて「あれ」と声をあげた。なんでいんの? と言いたげな顔をしている。
それ、こっちが言いたいんですけど。
「古橋さんごめん。いなかったから使っちゃってた」
いなかったからって、割り箸を買いに行ったたった数分離れたなのに。
わたしは毎日お弁当を持参しているから、食堂をつかうことはほとんどない。昼休みは自分の席で過ごしているはずなのに、それすら認識されていなかったみたいだ。
「相沢」
言葉に詰まっていると、前の席の関陽介という男子生徒が口を開いた。
「俺今から学食行くからお前こっち使えよ」
「え、なに急に」
「いや、古橋いつも席で食ってんじゃん。それで古橋の席使うのはお前が100悪いわ」
「えーそうだった? いつも食堂行ってるからわかんなかったんだもん、あんたが怒ることないじゃん」
「怒ってねえから。こういう顔なんだよ俺は」
関くんは目つきが鋭くて、口調も乱暴だから外見だけだとどうしても怖い印象があるけれど、彼が意外と優しい人だとわたしは知っていた。
プリントを配る時にきちんとわたしに身体を向けて渡してくれたり、今みたいにわたしが言えないことをズバッと言ってくれたり。
本人は何も気にしていないのかもしれないけれど、少なからずわたしにとって彼の存在はありがたかった。
とは言え、相沢さんに退けてもらった席でお弁当を広げるほどのメンタルは持ち合わせていなかった。派手な女子たちに囲まれて昼休みを過ごすなんて拷問だ。
「古橋さんごめんねえ」
「……あ、えっと、大丈夫。お弁当取りにきただけだから」
「あ、そうー? ならこのまま借りるねえ」
「うん、どうぞどうぞ」
心のこもっていない謝罪に内心舌打ちを打ちながら、机の横に掛けていたランチバッグを持って、わたしは再び教室を出る。食堂の隅の席でお弁当を広げ、スマホを片手におにぎりを食べる。
五円で買った割り箸は、強く握りしめたせいでぐしゃぐしゃになっていた。
古乃 @furuno**chan 今
ママが今週も箸入れ忘れててともだちからフォーク貸してもらった!
ともだちみんな優しくて大好き🍰
投稿を送信して、すぐに何件かいいねがついた。いつのまにか増えた一六〇〇人のフォロワーだけがわたしを認識してくれている。
わたしは毎日充実している女子高生で、デートの時に化粧に気合を入れるくらい大好きな彼氏もいるし、箸を忘れたらフォークを貸してくれるやさしい友達もいる──なんて、くだらない嘘で囲んだ架空の人物を、平気で演じてしまう自分のことが時々こわくもなるけれど、それに勝る安心感は、そう簡単に手放せない。
わたしをこんなふうにしたのは、世の中が勝手に作り上げた〝普通〟だ。
だから、わたしは悪くない。
彼氏くんと映画、なんていうのはSNSで作り上げたわたしの話だ。
そんなの妄想にすぎなくて、実際のわたしは学校を出たその足で本屋に向かい、好きな漫画の新刊と、毎月買っているファッション雑誌を買った。
リアルの友達がいないわたしにとって情報源はこのふたつだ。わたしに恋人や友達がいたらこんな感じの青春を過ごせていたかもしれない、という期待を少女漫画で消化させ、流行りのメイクや服装は雑誌で摂取するようにしていた。
いつからこうなったのか。
いつからわたしは、嘘でつくられた自分を認めてもらうことで安心するようになってしまったんだろう。
『美乃も、高校では良い友達たくさんできるといいね』
時々思い出すのは、あの時言われた母の言葉だ。
中学校の三年間で、わたしには心を許せるほど仲の良い人はひとりもできなかった。
いじめられていたわけじゃない。直接的な嫌がらせを受けていたわけでもない。それでもただ、漠然とした疎外感を、わたしは抱え続けていた。
二年生にあがるまでスマホを持たせてもらえなかったので、同級生が学校外でもやりとりをしている内容を、わたしは知らなかった。
「ラインでも言ったけどさー」とか「あとで連絡しとくね」とか、わたし以外は誰も気にしていないような言葉を拾って、勝手に傷つくようになった。
わたしの知らない会話ややりとりがたくさんある、その事実がこわかった。
女子たちが数人で集まってひそひそと話しをしているのを見ると、わたしの悪口を言っているのではないかと疑うようになった。人を信じられなくなって、だんだん人と距離をとるようになった。
スマホを持たされた頃には、すでにわたしは孤立していて、誰かと連絡先を交換するようなことはなかった。
学校に行くのがだんだんと億劫になり、休みがちになった。月に何度も学校を休む癖がつき、それは卒業まで治ることはなかった。
三年生になると必然と進路についての話が多くなり、わたしは毎日、不安と不満に押しつぶされそうだった。
絶対に高校生にならないといけないルールなんてなかったはずなのに、高校に行かない選択をしている人は周りにほとんどいなかった。
いつもへらへら笑っていて、救えないほど頭が悪かった同級生は面接だけで受験可能な私立高校に合格していたし、「うちはお金がないから」と言っていた学級委員長は、成績に応じて学費が免除される高校に進学を決めていた。
一年生の時、わたしより試験の成績が悪かったクラスメイトも、いつの間にか県内じゃ偏差値が高い進学校に合格していた。
義務教育は中学校で終わりなのに、頭が悪くても、お金がなくても、不登校でも、高校生になることがあたりまえみたいになっているのはどうしてなんだろう。
勉強も運動もできないし、芸術センスに長けているわけでもない。困った時に弱音を吐ける存在はひとりもいなかった。
本当は、高校生になんてなりたくない。
学校なんてもう行きたくない。
そう思っても、世間はそれを〝普通〟だと言ってはくれない。
結局、わたしは家から少しはなれた私立高校になんとか合格し、高校生になった。
「美乃も、高校では友達たくさんできるといいね」
入学式を終えて家に帰ると、母はわたしにそう言った。
中学校にうまく行けなかった時期、母はわたしを怒ったり責めたりしなかった。
だから勝手にこんなわたしのことも受け入れてくれていると思っていたけれど、それはわたしが勝手に思い込んでいただけだったみたいだ。
「美乃も」の「も」も、「高校では」の「では」も、「良い友達」も全部チクチクして、痛かった。
あたりまえのことをあたりまえにこなさないと普通じゃいられない。
毎日ちゃんと学校に行くこと。たくさん友達をつくること。雑誌で特集されているような流行りのものを友達と共有すること。漫画みたいに、誰かに恋をして浮かれたり傷ついたりすること。
そういう〝普通〟を、中学の時からちゃんとこなせていたら、今とは違う未来にいたかもしれない。
友達がたくさんいて、放課後に流行りのカフェに行って写真を撮ってそれをSNSにあげたり、誰かを好きになって、私も知らない自分のことを知ったり。そういう世界線を生きてみたい。
そうだ、私は普通になりたかったんだ。
母に心配をかけないくらい、そこらじゅうにいそうな女子高生でありたかった。
古乃というアカウントは、そんな願望から生まれた、わたしの架空の日々を綴るものだった。
古乃でいる間は、わたしは〝普通〟の女子高生になれる。反応をもらうことで安心感を得るようになったのも、それからすぐのことだった。
わたしはもう、SNS無しでは生きていけない。
本屋を出て、わたしは学校の最寄駅からふたつ離れた駅を降りて、さらに数分歩いたところにあるファミレスに向かった。この区間は定期圏内なので、電車は乗り放題だ。
店内に入ると、からんからん、とベルが鳴った。
「らしゃいませー……あ、」
わたしを迎えてくれたのは、いつも見かける男性スタッフ、兼クラスメイトの関くんだった。
軽く会釈をすると、「お好きな席どーぞ」と促される。
窓際の席が空いていたので、わたしはその席を利用することにした。密かにお気に入りの場所だ。日当たりが良くて、コンセントもある。
それから、店内全体を見渡せる、絶好の場所。
「ご注文は」
「あ……ホットコーヒーひとつで」
「かしこまりました」
呼び出しボタンを押さなくなったのは最近のことだ。関くんは、わたしがいつもホットコーヒーを頼むことを覚えてくれたようで、水を置きに来るついでに注文を聞いて戻るようになった。私はこの店の常連、なんだと思う。
特別仲が良いわけでもないクラスメイトが働いていることを知った上で利用するのは少々気まずさを感じるけれど、気まずさを感じてでも、わたしにはこのファミレスに来る理由があった。
店内を見渡し、〝彼〟を探す。
今日いるのは、関くんと、店長さんらしき男性と、時々見かけるパートのおばさんがふたり。
黒髪で色白で、特別柔らかな雰囲気を纏っていた〝彼〟の姿は、今日も見つけられなかった。
なんでいないの。そろそろ出勤してくれないと困るんですけど。
心の中で愚痴をこぼしながら、スマホを開く。
古乃のアカウントにログインし、届いているいいねやリプライの通知は開かないまま自分のメディア欄を遡った。
何度か画面をスクロールすると、ひとりの男の写真にたどり着いた。このファミレスの制服を着て、笑顔で仕事をする姿。写真越しでも、彼の持つ柔らかく爽やかな空気感が伝わって来てドキドキしてしまう。
古乃 @furuno**chan 20**/09/20
彼氏くんかっこよすぎてこっそり写真撮っちゃった(,,> <,,)
世界一かっこいいだいすき~~!!!!
写真は半年前、わたしがこの店でこっそり撮ったものだ。フォロワーに万が一同じ学校の人がいても身バレしないために顔が映らないような角度で収めている。
↳Haruka @ha**ru**20 20**/09/20
顔見なくてもイケメンなのわかる
↳🌸メル🌸 @meruru*275 20**/09/20
古乃さん彼氏いたの知らなかった、、、流石に勝ち組
↳満身創痍 @NHK*dont*come 20**/09/20
生きる意味の具現化って感じする(???)
いいね四五九件、リプライ十七件。彼の写真を添えたその投稿には、いつもに比べてたくさんのコメントと反応がついていて、そのどれもが古乃を羨ましがるものだった。
なんとなく顔が好みだった。周りのお洒落な日常系アカウントはみんな恋人の顔を隠して写真を載せていて羨ましいと思っていた。
〝普通〟のふりをするには、恋人の存在を作らないとだめだと思った。そんな気持ちからほんのちょっと魔が指した、だけ。
カメラロールには、SNSには載せていない分の写真も何枚かあって、全部お気に入りにして保存していた。顔が映っているものも、名札が見えているものも、学校の制服姿のものも、わたしのスマホにコレクションされてある。
彼は「にしなくん」。
下の名前は一度も聞いたことがない。
名札にそう書いてあったので、名字だけ一方的に知っている。
この店のスタッフで、B校に通う高校生だ。たまたま彼が退勤する姿を見かけたこと時にB校の制服を着ていたことで、これもまた一方的に知った。
わたしが実際に「にしなくん」に会ったことがあるのは十二回。そして、「にしなくん」がわたしのSNSに出てきた回数もまた、十二回だった。
つまるところ、「にしなくん」の写真を撮るためにわたしはこの店に通っているといっても全く過言ではない、というわけだ。
勝手に彼氏にしてもバレない謎の自信があった。それは、わたしが通う高校と「にしなくん」が通う高校の偏差値には天と地ほどの差があったことと、広まるほどの繋がりをわたし自身が持っていなかったことからくるものだったのだと思う。
盗撮が悪いことだという自覚はあった。古乃の妄想がだんだん重いものになっていることもわかっていた。だけど、止められなかった。
有り余る承認欲求が満たされた時、わたしはとても安心するのだ。
それなのに、「にしなくん」が突然出勤しなくなってしまった。
最後に見かけたのはちょうど一か月前だ。文化祭準備の時期に入り、放課後の自由な時間が奪われてしまっていたので、わたしは一か月ほど店に来ていなかった。
SNS上では「文化祭超楽しみ♡」などと呟いていたものの、実際は心底面倒だと思っていた。あんなのは友達がたくさんいて明るい人間だけでやればいい。学校行事と名付けて楽しみ方を押し付けてこないでほしい、なんてそんなひねくれた思考は、誰にも共有されることなくわたしの中に潜んでいる。
「にしなくん」はどうしたんだろう。
出勤できない理由ができたのだろうか?
「にしなくん」には、できるだけ長くこの店のスタッフでいてもらわないといけないのに。
そうじゃないと、わたしはフォロワーにあなたを自慢できない。彼を介することでしか得られない安心感がある。そろそろ新しく「にしなくん」の写真を投稿しないと、別れたと思われてしまうかもしれない。恋愛も友情も、上手に匂わせておかないと。
そう、だから「にしなくん」に勝手にいなくなられたら困るのだ。
「お待たせしました」
「あ、はいっ」
突然声を掛けられ、目の前に珈琲が置かれる。色々考えていたせいで、関くんの気配に全く気づけなかった。反射的にスマホを伏せ、わたしは「ありがとうございます」と小さく頭を下げる。
一か月前までは、関くんではなく「にしなくん」が接客してくれていた。
店長さんや他のスタッフからも頼りにされているようだったから、クビになった可能性は考えられない。
彼のことは名字と顔と高校以外何も知らないけれど、なんとなく、突然辞めるような人にも思えなかった。
そうなると、考えられるのは怪我や事故などといったネガティブな理由になる。
関くんは、何か知っているだろうか? クラスメイトに自分から声を掛けるほどわたしは積極的な人間ではないが、全然話せないわけでもない。
幸い、彼とは席が前後だ。最低限の会話のキャッチボールはできるし、周りに相沢さんのような派手な同級生もいないから気が楽だ。
「ごゆっくりど……」
「あの、関くん」
ごゆっくりどうぞ、と言ってその場を去ろうとした彼を呼んで、引き留める。わたしから話かけたのは、記憶にある限り今が初めてだ。
関くんは数回目を瞬かせるも、表情を変えずに「なに?」と返事をした。途端に脈拍があがる。
「関くんと同い年くらいの店員さん……いたと思うんだけど、さ」
「あー……男?」
「うん、そう。えっと……その人、最近、いないよね」
本当はちゃんと覚えているくせに、「たしかニシナって名前の」と、他人感を強く出して保険をかける。
わたしは緊張していた。
学校じゃいつもひとりで行動しているわたしのような人が、スタッフが辞めたかどうかを気にしているのは変なことなのかもしれない。
それでも、答えてほしかった。知りたかった。突然「にしなくん」が出勤しなくなったのはどうしてなのか、一方的に知る権利があるとわたしは驕っていたのだった。
「あ、いや、他意はないの。ただ、いつもいたのになって思って……」
「それ、俺らもわかんねえんだよな」
「え?」
関くんからの返答は意外、かつ、わたしが想像していたようなものではなかった。
「仁科が本当に辞めたのかどうかもわかんねーの。生きてるか死んでるかも」
「は……」
「〝消えた〟って言い方がいちばん正しいのかもな」
「にしなくん」は消えたらしい。
辞めたかどうかも、生きているかどうかも定かではなく、名前だけがまだ在籍になっているそうだ。「そのうちクビ扱いになるんじゃね」と関くんが吐き捨てる。
やめたかもしれない。しんだかもしれない。にしなくんは、いなくなってしまった。
脳が詰まり、言葉がうまく出てこない。
だってじゃあ、古乃はどうしたらいいの。「にしなくん」がいなくなったら、古乃で載せる写真がなくなってしまう。
当然、「消えた」なんて言っても誰も信じてくれない。別れたことにしたとして、励まされるのも可哀想って思われるのもいやだ。
「あー……へえ。そうなんだ」
「……古橋、あのさ」
「なんか関くんたちも大変だね。ここいつもバイト募集してるし。人手足りなそう」
「え? あー、まあそれは」
他人事のようにそう言ってみせたけれど、本当は不安と焦燥感が押し寄せて、心臓がざわざわして落ち着かなかった。
どうしようどうしようどうしよう、だめだ、このままじゃわたしは。
わたしがわたしであるために「にしなくん」は必要不可欠だったのに、いなくなってしまったら、同時にわたしも〝普通〟じゃいられなくなってしまう。
勝手なことしないでと怒りたかった。けれどそれとわたしの勝手な怒りであることもわかっていた。
わたしと「にしなくん」は他人だ。自分が勝ってにつくった他人の存在に、わたしはこんなにも振り回されている。
わたしの〝普通〟は、こんなにも簡単に壊れちゃうんだ。
「仕事の邪魔しちゃってごめん。教えてくれてありがとう、頑張って」
「え、ああ……うん」
関くんに一方的にそう言って、それからわたしは、珈琲を半分飲んで店を出た。
? @furuno**chan 今
なんか消えたい
アイコンを真っ白に変えて、名前も「?」に変えた。
よくある病み垢みたいでばかばかしい。そう思う反面、そうしたくなる気持ちが痛いくらいわかって虚しかった。
知らない誰かがいなくなったくらいで壊れてしまうほど脆い存在だってことくらい、ちゃんとわかっていたはずなのに。
こんな時でも、わたしはこの場所に縋ってしまう。むしろこんな時こそ、縋りたくなる。それが余計にわたしを虚しくさせるのだった。
どうしてこんな生き方しかできないんだろう。
長い間拠り所にしてきた古乃という人格が、途端にしょうもないものに思えて苦しかった。
「答案回収するので後ろの人集めてきてくださーい。5点以下の人、昼休みに再テストねー」
翌週、月曜日。いつも通り行われた英語の小テストは二点。隣の席の生徒には答案を返される時に少々気まずそうな顔をされた。
この一週間、考えごとばかりしていたような気がする。厳密には考えごとではなく、心にぽっかり穴が開いてしまって何かを考える余裕がなかったというだけなのだけど。
ずっと胸のあたりが苦しくてふとした瞬間に泣きたくなる。その原因が、自分のくだらない生き方にあることも、ちゃんとわかっていた。
「古橋、答案」
「……あ、ごめん」
後ろの席が関くんであることをすっかり忘れていた。二点の答案を伏せて手渡すと、「再テストじゃん」と言われた。
馬鹿にしているわけでも気まずそうにしているわけでもなく、ただ事実を呟くと、彼はわたしの横を通り過ぎていった。
そうだよ、再テストなんて最悪だ。
堂々と再テストを受けるほうが効率的だってことも、不合格だったとて評定に大きく影響するわけじゃないってこともわかった上で、わたしはこれまで毎週ちゃんと勉強していたのに。
学校にいるわたしは、再テストを受けるようなキャラじゃない。キャラ、と呼べるほど存在感があるわけではないけれど、自分が周りから「ひとりが好きそう」で「真面目」で「頭が良さそう」な人に思われていることはなんとなく察していた。
月朝のために英単語をきちんと覚えるのは、再テストに行きたくないからだ。要領よく生きているクラスメイトに囲まれて昼休みを無駄にしたくない。「古橋さんって真面目そうなのに意外と勉強できないんだ」って、誰かひとりにでも思われていたくない。
わたしにとって勉強は将来のためでもなんでもなくて、わたしを守るための鎧だ。
だから、何がなんでもちゃんとしていないといけないのに。
最近のわたしは全然だめだ。わたしが勝手に作り上げた〝普通〟は、わたしのせいで壊れていく。
昼休み。なんとか再テストを終えたわたしは購買に向かっていた。
今日に限ってお弁当を忘れてきてしまったのだ。母から「お弁当忘れてる」と連絡が入っていたけれど、わざわざ学校に届けてくれるほど時間に余裕はなかったようで、わたしが忘れたお弁当は母が職場にもっていくことになった。
歩きながらスマホを開き、古乃のアカウントにログインする。心臓が不穏な音を立てている。フォロワーが五人減っていることと、通知が一件も来ていないことを確認して、ため息が出た。
一週間前、アイコンを真っ白にして、名前を「?」にして、弱すぎる本音を呟いたあの日のこと。『消えたい』というその投稿にはわたしを心配するリプライが何件もついた。
↳お茶漬け @oishii*gohan*dayo
なんかあった? 大丈夫? 無理しないでね、、、
↳Haruka @ha**ru**20
ふるちゃん大丈夫? なんかあったら話聞くよ~…
大丈夫じゃないのに大丈夫なんて言いたくなくて返信は敢えてしなかったけれど、内心ほっとしていた。わたしが消えたいと言えば、みんなこうして心配してくれる。いなくならないでと言ってくれる。
だからやっぱりわたしにはSNSが必要で、今更突然手離すこともできない。
その日の夜、古乃宛てに一件のダイレクトメッセージが届いた。
メッセージリクエスト
あ @gxnNj9knAKg*Kg* 1時間前
彼氏と別れたんですか?笑
お疲れ様です笑笑
あなたのツイートみてて痛いからもう二度と呟かないでほしいです笑
古乃としてSNSを長らくつかっていたけれど、マイナス的なコメントが来たのはそれが初めてで、鋭利な刃物で心臓を一突きにされたような、そんな感覚に陥った。
すぐにブロックしたけれど、一度刺さった言葉の棘は簡単には消えてくれなくて、わたしはSNSを開くのが怖くなってしまった。
それから今日までの一週間、呟くこと、誰かの投稿に反応することもせず、フォロワーが減っていないかとか、マイナスコメントが届いていないかとか、そんなことを確認して安心するためだけにSNSを開いていた。
見たくないのに見ようとしてしまう。フォロワーが減っていたら落ち込むとわかっているし、メッセージが届いていたら心が不穏になるだけだということもわかっているのに、止められなかった。
紛れもなくわたしは依存していた。インターネットにも、作り上げた自分の存在にも。
わかっているのに止められない自分が恐ろしくてたまらなかった。
メディア欄を遡り、「にしなくん」が映っている投稿を見返す。やっぱり顔がとても整っていてかっこいい。
いつか、フルネームくらいは自分で聞いてみたかった。あわよくば連絡先を交換して、ふたりで会う予定を立てて。それで、ちゃんと恋ができるような関係になりたかった。
そうしたら、わたしはもっと違う日々を送れていたかもしれない、なんて、画面に映る「にしなくん」の姿を見て、また同じことを思う。
──ドンッ。
そんな矢先のこと。スマホに夢中になりすぎていて、角から出てくる人の存在に気付けなかった。声をあげた時にはもう遅く、ぶつかった衝動で手元からスマホが滑り落ちた。
慌てて手を伸ばしたけれど、先に拾ったのは相手だった。
「あ、ご、ごめんなさ───」
「なあ古橋」
「え?」
「やっぱさ、これ仁科だよな?」
唐突に問われた質問に顔を上げる。わたしがぶつかった相手は、「にしなくん」と同じファミレスで働くクラスメイト──関陽介だった。拾われたスマホの画面には、わたしがたった今見返していた「にしなくん」についての投稿が映し出されている。
「……覗く気なかったんだけど、こないだ古橋が店に来た時も画面軽く見えたんだよね。似てるだけかって思ってたけど、仁科のこと聞いてきたからやっぱりそうかもって」
わたしは何も言えなかった。ネット上じゃ息を吐くように嘘をついてきたくせに、現実じゃ否定の言葉すらつっかえて出てこない。
こんな不運が重なるってわかっていたら、関くんに「にしなくん」について聞いたりなんかしなかったのに。
「これさ、何が満たされんの?」
「は?」
「他人を他人に自慢するのって、古橋にとって何が楽しいの」
静かな声だった。関くんのまっすぐな瞳がわたしを映している。
他人に他人を自慢するのって何が楽しいんだろう。少し考えて、楽しさを得るためにそうしていたわけじゃないことを思いだした。
「楽しくないよ、なんにも」
「じゃあなんでこんなことしてんの?」
「……安心するの。関くんには、わかんないかもしれないけど」
楽しいんじゃない。安心したかったのだ、わたしは。
架空のわたしに縋ってでも、インターネットに依存してでも、この安心感の中で息がしたかった。
「彼氏って言って載せると反応がいいの。わたしのこと、みんな羨ましいって言うんだよ。わたし生きてるって感じるの」
「……本当の自分じゃないのに?」
「だってもうやめられないの。今更無理なの、依存しちゃってるんだもん。嘘でもこの安心感がないと生きていけない。開くの怖いって思ってても癖で開いちゃうの、病気だよねホント」
「……」
「……わかってるの。でもだめなの、わたしは〝普通〟じゃないといけないから」
わたしは〝普通〟でいなくちゃいけない。お母さんが安心するような「わたし」でいるためには、「古乃」の存在が必要だった。
自分で言葉に起こすと、あまりにみじめで泣きそうになる。こんなくだらない生き方しかできないのに、ひとりでは解決策が見つけられないままだ。
「いや、別にSNS自体をやめるべきとは思ってねーよ俺は」
「……え?」
「でも、今古橋が必死につくってる〝普通〟は古橋を苦しめてるだけな気がする。だから一旦その「古乃」っていう人格は捨てたほうがいいんじゃねーのかなって」
関くんの声は落ち着いていた。依存していることをばかにするわけでも、そんな普通はおかしいと否定するわけでもなく、本当にただ、関くんは考えを共有しているだけのように思えた。
「彼氏がいない人なんていっぱいいるし、病み垢つくってる奴もいっぱいいるだろ。古橋が〝普通〟だと思ってないこと、誰かにとってはただの日常で、〝普通〟だったりするんじゃねえの?」
「……なにそれ」
「俺からすれば、〝普通〟になりたがる古橋のほうがよっぽど異常だって思っちゃうけどな」
関くんになにがわかるの。そう思ったのは一瞬のことで、実際に言い返すことはできなかった。
関くんにとって、わたしは異常。それでも、関くんの言葉には、先日届いたアンチコメントみたいな棘は感じられなかった。
否定も肯定もせず、わたしの存在を受け入れてくれている。
「使い方次第だと思う。無理して充実してるふりするんじゃなくて、今の古橋が思ってることを発信してくだけでも全然違う使い方できるんじゃねえ? ネットなんてもともと綺麗なもんじゃないだろうし。突然存在ごと消したって、クソみたいな弱音吐いたって、そんなの本人の自由なわけだし」
「……でも、消したらわたしも消えちゃう、」
「消えるのはアカウントだろ?」
「っ、でも、これがわたしで……」
「いや全然別人だわ。古橋は古橋じゃん」
全部事実で、関くんの言う通りで、泣きそうになってしまう。どれだけ理想の自分を作っても、
わたしはわたしで、わたしにしかなれないんだ。
古乃のアカウントを作ったのは、吐き出せる場所が欲しかったからだ。母の望む理想のわたしにはなれない、その苦しみを、誰かにわかってもらいたかった。
それなのに、いつの間にかフォロワーが増えて、誰かに認めてもらうことに生きがいを感じるようになった。
「古乃」でいることは、わたしを否定することと同義。それに気づかないふりをして、わたしはわたしを苦しめていた。
「なくなってからようやく気付くこともあるんだよ、きっと。実際俺もそうだったし」
「……関くんも彼女いるって嘘ついたりしてたってこと?」
「いやそれはしてねーけど。なんで今まで気づけなかったんだろうみたいな、そういうのはちょうど最近あったから」
このアカウントを消したら、古乃を殺したら。
そうしたら、わたしはわたしを認めてあげられるだろうか?
「みんな普通で異常なんだよ、きっと」
そう言った関くんは、初めて見る優しい顔をしていた。