きみとこの世界をぬけだして




「仁科くんって悩みとかあるのかな」


あれはたしか、体育の合同授業があった日のことだ。その日はユウナが体調を崩して休んでいて、あたしと絢莉はふたりで体育館の隅に体育座りをしながら男子のバスケの試合を眺めていた。

仁科くんの華麗なスリーポイントにまわりからは黄色い歓声が沸き上がったり、Tシャツの裾で汗を拭く姿すらさまになっていたり。こんな体育の授業ですら、仁科くんにはいつだって光が集まっていて、あたしのような人にとってはとても眩しく、時々鬱陶しいものでもあった。


仁科くんって悩みとかあるのかな。絢莉がふとこぼした疑問に、あたしは野暮なことに「え?」と聞き返してしまった。彼女の口か仁科くんの名前が出ることなんてこれまで一度だってなかったから、脳が追い付いていなかった。
絢莉の瞳はまっすぐ仁科くんを映し出している。絢莉の雰囲気がいつもと少し違うように思えたのは勘違いではなかったと、今なら自信を持って言えるだろう。


「……なんで急に仁科くんの話?」
「や、……深い意味はないんだけどさ。ただなんとなく、うん」
絢莉が鼻の先を小さく搔いて言う。なんとなく、なんて嘘だ。絢莉はよくも悪くも人に興味を持たないから、特定の人間のことを話題にだすことはほとんどない。
「……うーん。まあ、悩みとかはなさそうに見えるけど。人生ガチャ成功してるでしょ、あの人」
「だよねぇ……」


絢莉の嘘には気づいていないふりをして、あたしが感じている仁科くんの印象伝えると、絢莉は耽るように息を吐いた。どういうため息だったのか、意味までは理解できなかった。

仁科くんとなにか接点があったのだろうか? 彼の悩みが気になるほど会話を交わしたのだろうか。彼が持つ、絢莉が気になってしまうほどの特徴ってなんだろう。

長年一緒にいて初めて知る絢莉の雰囲気に、あたしは何故か少しの焦燥に駆られていた。


「もしかして絢莉って、仁科くんみたいな人がタイプ?」
「え。や、全然」
「そう? 好きになっちゃったのかと思った」


あたしたちは同じ性別だから、こんなふうに突然恋愛の話題を振っても気持ちを疑われる可能性はない。こうして普通のふりをして、他人事のように扱うのがいちばん効率が良いのだ。多少の地雷は、慣れがどうにかしてくれる。


「……いやいや。そんなわけないじゃん。話したこともないし」
「ホントに?」
「はあもう、そう言われたら突然仁科くんの笑顔嘘くさくみえてきたんだけど」
「王子スマイルですからあれは。ほら絢莉、仁科くんシュート決めた」
「えーかっこいいー好きになっちゃうー」
「棒読みで草」


ふざけて笑い合っていたところでピーッと笛を鳴らされ、「そこ、ふざけなーい」と先生からゆるい注意を受ける。周りの視線が集まって、あたしたちは恥ずかしさから逃げるように「スミマセン」と絶対聞こえていない声量で謝った。絢莉がくすくすと肩をゆらして笑っている。

百々子(ももこ)のせいで怒られた」
「仁科くんファンの声援のがうるさいですって言えばよかったね」
「やば。喧嘩じゃん」
「あたしらのことも応援してほしいんですけどって」
「わははっ、なんですぎる流石に。その応援要らないでしょ」


話題はいつの間にか逸れて、そうしているうちに体育の授業は終わった。
感じていた焦燥感は姿を消していて、その日どうして突然彼女の口から仁科くんの名前が出たのかはわからないまま時間は過ぎていった。



それ以降、全国ニュースで見かけるまであたしたちの間で仁科くんの話題が出ることは一度もなかった。
たった一回、絢莉が仁科くんの名前をこぼしたあの瞬間、隣にいたのがあたしで良かったと、そんな小さな優越感はいつまでも残って消えないままだ。


たったそれだけの出来事が、あたしにとってはもうずっと宝物みたいに大切で、忘れることができない。



「いい話じゃん。青春の一ページって感じ」
「どこがだよ。あたしの生涯独身決まっただけの話じゃん」


笑ってそう言ったシロに本日二度目の舌打ちをかます。
こんな思い出、持っていたところで何の利益にもならない。まともなふりをして普通に歩幅を合わせていかないと、多数派が正義とされる世界には溶け込めないから。



「で? そのニュースと、モモの好きな子が遠のいていくのってなんで関係してるってわかんの?」
「わかんない。……でも、なんかわかるっていうか」
「はあ?」


意味が分からないと言いたげな表情でシロが聞き返す。

真相はわからない。思い込みかもしれない。それでも、仁科くんのニュースを聞いてからというもの、絢莉は少し変なのだ。


彼女は嘘がとても下手だ。新くんが絢莉を訪ねてきたことも含め、やはり仁科くんと絢莉の間には何かがあったのだと思う。けれどそれは、彼が消えたというニュースのように共有されることはなくて、毎日少しずつ雰囲気が変わっていく彼女を、私は何も言わず見つめることしかできない。

前に進んでいるように感じるのはどうか気のせいであってほしい。私を置いていかないで。そんな情けない思いだけが、あたしにまとわりついている。


「……絢莉は仁科くんのことが好きだったんだと思うの」
「根拠は?」
「仁科くんの日記に絢莉の名前があったっていうし、弟が直接訪ねてくるくらいだもん、深いかかわりがあったんだよ」
「じゃあそれは仁科って奴からその子に向けた気持ちなんじゃね?」
「それもあるかもだけど、それだけじゃなかった。見てたらなんとなくわかる」
「会話しないとわかんないこともあるだろ……」
「ちがうんだよ、シロ」
「ちがうって何が」
「女だから、わかるの。男女でわかりあえないことも同じ性別だから共感できる。恋って感情、いちばんわかりやすいよ」


ずっと見ていた。好きだった。彼女と、同じ温度で恋をしたかった。
けれどそう思う以前に、あたしたちは女の子同士で、幼なじみで、友達だ。


「生理痛がどんだけしんどいかわかる? すっぴんも化粧もそう変わんないって言われるのがどんだけムカつくか知ってる? 男が鈍感って、ホントそうだと思う。性別違ったら女心がわかんなくてもしょうがないんだろうけど」
「あー……」
「詳しいことは何もわかんないけどさ。絢莉が仁科くんのニュースをきっかけに少しずつ前向きになっているのだけは感じるの……すごい寂しいよ」


好きな人と同じ性別に生まれたことを後悔してるわけじゃない。
好きな人の、友達の、力になれなかったことが寂しくて悔しいのだ。


「あたしのほうがずっと絢莉と一緒にいたのに。変わろうとしてる瞬間、隣にいるのがあたしじゃないって悲しいじゃん。しかも生きてるか死んでるかもわかんない人じゃ、踏み込むこともできない」
「うん」
「でもさぁ、わかるんだよね。───仁科くんのこと気になっちゃう絢莉の気持ちも」


一度だけ、仁科くんとふたりで話をしたことがある。

中学三年生、卒業式が迫る冬の日のことだった。


「待つの飽きたら先行ってて」
「ううん。待ってるよ」
「あんた良い女すぎ」
「あーうんうん、よく言われる。百々子に」
「ちなみにあたし本気で言ってるけどね?」


その日、あたしたちはユウナの付き添いでバンドのライブに行く予定があった。

あたしは委員会の集まりで急遽呼ばれてしまったので、物販に並びたいというユウナを優先し、「遅れていく」と伝えたところ、絢莉が「あたし待ってる」と言い出した。
絢莉は、自分がされて嫌なことを人には絶対にしない。だからきっと、絢莉があたしの立場になった時に置いて行かれるのが嫌だからそう提案してくれたんだろうなということはなんとなく察した。

絢莉の優しさは、絢莉のためのもの。彼女に限ったことじゃない。自分がされてうれしいことを他人にするのは一種の見返りだから。

わかった上で、あたしは彼女の優しさに触れるのが好きだった。

委員会を終えて教室に戻ると、絢莉は机に突っ伏して眠っていた。彼女は授業中もよく寝る人だから、待っている間に襲いかかってきた睡魔に勝てなかったのだろう。
静かな教室に、絢莉の寝息とあたしの心臓の音が響いている。愛おしさがこみあげて、泣きそうになった。


好きだ、一緒にいたい、もっと近くで触れ合いたい。

すやすやと眠る彼女の髪に手を伸ばし、触れる。
───そのタイミングでのことだった。


「……あ」


教室のドアが開き、あたしはハッとしたように腕をひっこめる。視線を向けるとそこには仁科くんがいて、彼は気まずそうに目を逸らすわけでも、揶揄うわけでもなく、表情を変えずに「邪魔してごめんね」とだけ言った。

邪魔してごめんね。その言葉に、あたしの全部が露呈したような気がした。

絢莉に触れようとしているところを見られてしまった。友達になにしてんの。同性なのに気持ち悪い。表情に出していないだけで、そう思われてたのかもしれない。
違うって言わなきゃ。髪にゴミがついていたとか、言い訳なんて簡単に思いつくのに、喉の奥でつっかえて、否定の言葉はひとつも出てこなかった。
仁科くんは自分の席に向かうと、机の中から忘れたであろう本を取り出し、「じゃ、また明日ね」と何事もなかったかのようにそう言った。


「ま、待って、仁科くん」


仁科くんはきっと、言いふらすような人じゃない。そんな子供じみたことはしない人だとことくらいわかっているのに、どうしても不安は消えてくれなくて、あたしは彼を呼び止めた。掠れた、弱弱しい声だった。


「……あたしだけだから」
「あたしだけ?」
「おかしいの、あたしだけだから。絢莉は普通なの。だから……、だから」


絶対に誰かに言わないでほしい。あたしと絢莉をひとつに括らないでほしい。
普通じゃないのはあたしだけだ。同性の友達に恋してしまうのはおかしなことで、気持ち悪いことで、それで。


「それ、『他の人と違うあたしは可哀想です』っていうマウント?」


上手に言葉に起こせずにいたあたしに被せるように仁科くんが言う。


「……は?」
「本当はそんな自分に甘えてるだけじゃない? 普通とか普通じゃないとか、そうやって線引きするのってさ、結局誰が得するんだろって俺は思うけど」


彼はあたしを気持ち悪いとは言わなかった。けれど、甘えていると言った。


「あんまり自惚れないほういいんじゃない? いちばん自分を可哀そうにしてるのは自分自身だったりするだろうし。知らないけど」
「……なにそれ、急に説教?」
「や、べつに。知らないけどって言ったじゃん、俺に関係ないことだし。でもまあ、自分だけがおかしいとか自惚れすぎかなっては思ったけど」


意味がわからなかった、というより、その瞬間のあたしは怒りが勝っていて、仁科くんの言葉をわかりたくもなかったのだと思う。「うざい」と言うと、「可哀想ぶってる永田さんもうざいよ」と言われる。こんな小競り合いしたって何の意味もないのに、どうにも腹が立って舌打ちがこぼれる。


「これ、永田さんにあげるよ」


唐突に、仁科くんは先程机の中から取り出した本をあたしに差し出した。意味がわからず「はあ?」と眉を顰めると、「中古嫌な人?」と聞かれた。中古か新品かなんてどうでもよかった。重要なのはそこじゃない。今の流れで突然本をすすめてきた仁科くんの心理が気になって仕方ない。


「いや、ほら。秘密を共有してもらったからさ。なにかひとつ俺も共有しないと対等にならないなって」
「秘密っていうか一方的に知られただけだし。……ていうかべつに大したことじゃないじゃん、仁科くんにとっては」
「俺にとってはね。でも永田さんにとっては大したことだったでしょ?」
仁科くんにとっては大したことじゃなかった。けれど、あたしにとっては大したことだった。あたりまえのように言われたそれに、どうしてか泣きそうになった。
「この本、誰にもおすすめしたことないんだけど、俺は結構気に入ってるんだよね。気が向いたら読んでみて」
「……仁科くん、イメージしてた人と違うんだけど」
「そう? 永田さんもじゃない?」
「はあ? どこが。てかどんなイメージ持ってたわけ?」
「なんか思ってたよりめんどくさそうっていうか。もっとさばさばしてるのかと思ってたから」
「……さっきからなんなの? 悪口ばっかりじゃん」
「そのまま返すよ」
「うっざぁ……」
「本の感想、いつか教えてね」


仁科くんは不思議な人だった。そして、彼の発言ひとつひとつが鼻に付いた。けれど、クラスで全員に笑いかけている彼よりずっと身近に感じたのも確かだった。


「んー……」

仁科くんが帰ってから数分後、絢莉が目を覚ました。ごしごしと目を擦る仕草がかわいかった。

「……絢莉、おはよ」
「……どした? 顔怖いよ」
「や、べつに。ちょっとむかついただけ」
「むかついた?」
「そーそ。絢莉がぐっすり寝てるから」
「えぇえごめん……」
「ふは、冗談。はやく帰ろ」


困った顔をする絢莉に笑いかけて、あたしは鞄を持った。仁科くんに言われた、「思ったよりめんどくさそう」というところは、悔しいけどちょっとだけ自覚があった。



仁科くんに成り行きでもらった本は数日で読み終えた。しかしながら、なにがどう面白いのかわからず、無駄な時間を割いてしまったとすら思った。


仁科くんはこれの何を面白いと感じたのだろうか? 素直に面白くないと言えたらよかったのに、「これが面白くないなんてまだまだだね」とバカにされそうな気がして、言えなかった。人気者である彼の感性に追いつけないことが、ただ悔しかった。

結局感想は言えないまま卒業式を迎え、彼とはそれっきり会わなくなった。




「その本全然面白くないっておもろすぎるだろ。俺この話大好き」
「胸糞悪いだけだよこっちは。大して仲良くない人に説教されて、かと思ったら意味わかんない本貰ってさぁ。なんだったのホント。今思い返しても意味わかんないもん」
「だはっ、ごめんけどまじでおもろい」


途中まで時々相槌を打ちながら聞いてくれていたくせに、最後の最後でお腹を抱えて笑うシロ。あんまりげらげら笑うから、つられてあたしも笑ってしまった。一通り笑ったあと、「でもまあ」とシロが再び口を開く。


「わからんでもないんだよな、その人の言ってること」
「は? なにが?」
「自分だけがおかしいなんて自惚れすぎだってこと」
「はあ?」


シロが同意するとは思わなかった。睨む勢いで視線を向ければ、「すぐ怒んなよ」と笑われる。あたしが本当は口が悪くて短気であることを、この男は知っている。


「つまりさ、逆も然りってことじゃん。モモにとっては大したことないことがそいつにとっては大したことだったのかもしれんし」
「例えば?」
「いやそんなん知らんわ。本人に聞けよ」
「ヴー……」
「言い返せなくなったからって唸んなよ。近所の犬かお前」


シロはいつも適当なことばかり言う。あたしにとっては大したことなくて、彼にとって大したことあることが何か、なんて知ったこっちゃない。
仁科くんがいなくなったせいで絢莉にも踏み込めなくて困っているという話をしたばかりなのに、本人に聞けなんてひどい話だ。


「生きてればいいな。その、仁科って人」


それなのに、他人事のようにシロが言ったそれがちょうど良いのは何故だろう。


「俺はたかがネットで知り合った人間だし、女の子の痛みもしんどさもわかんないけど。でもさ、俺とモモでしか共有できないこともあるわけだろ」
「……そうだけどさぁ」
「モモが好きな子に言えない気持ちは俺がちゃんと聞いてるし、俺がわかんない女の子の話は好きな子がわかってくれる。きっと他の人もそうやってさ、バランスとって生きてんだろうな。知らんけど」


あたしが、女の子じゃなかったら。
絢莉を好きだと自覚してから、何度そう思ったかわからない。同じ性別じゃなかったら、あたしはとっくに彼女に気持ちを伝えることができていたし、恋人という関係性でそばにいる可能性だってきっとあった。理由がなくても手をつないで、同じ温もりを共有できたかもしれない。

だけど、あたしが普通の女の子だったら。
そうしたら多分、今とは違う悩みを抱えて生きていた。あたしと絢莉とユウナが一緒の高校に行く可能性だってなかったかもしれない。


───それに。


「前向きに変わっていってるって思うなら、追いかけてその変化に気付いてあげればいいんだよ。そのほうがモモの生き方に合ってるじゃねーの? って思う。俺は我慢できなくて好きって言っちゃうけど、モモはそうじゃないから。つか神様呪う前に相談くらいしろよ、俺が寂しいじゃん、友達なのにさぁ」


〝ふつう〟だったら、シロとあたしはきっと出会っていなかった。


「ふは。寂しいとかあたしに感じてどうすんの」
「頼ってもらえないってな、意外とメンブレする」
「へー」
「興味ある? てかちゃんと聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「じゃあ俺が今言ったこと言ってみてよ」
「だっっっっる。キモ、ばか、ろくでなし」
「言いすぎだろうが」


仁科くんが生きているか死んでいるか、あたしは知らない。生死を願うほど関係性でもない。
だけどもし生きていて、もしいつか、彼とまた会うことがあったら。
借りた本、あたしにとっては全然面白くなかったって言ってやるんだ。






「百々子、偶然だ」


どんな偶然か、シロと別れたタイミングで絢莉に会った。


「……彼氏いたんだっけ、百々子って」


帰っていくシロの背中を見つめながら、絢莉が不思議そうに声を落とす。


「やだ、友達だよ」
「なんだぁ、そっか。や、なんか、邪魔しちゃ悪いかなあって思って一緒にいる時に声かけられなかった」


邪魔なんて思うはずがない。だって、絢莉と話す時間はあたしにとっての生きがいなんだ。
あたしがそんなことを思っているなんて、絢莉は一ミリも疑わないんだろうけど。


「百々子に彼氏いたら、ちょっと寂しいね」
「なーにそれ」
「だってちっちゃい頃からずっと一緒にいるんだよ? 実家出て一人暮らし始めるくらいの感覚じゃん」
「いや絶対そっちのが寂しいわ、あたしママ大好きだもん」
「そうかもしんないけどさー……」
だけどもう良い。あたしが絢莉をどんなふうに好きかとか、どのくらい好きとか、そんなのどうでもいいのだ。
「大丈夫よ。あたし、あんたが思ってる以上に絢莉のこと好きだから」
「やだイケメン!」



あたしが絢莉のこと好きだって、あんたにちゃんと伝わってれば、それでいい。



「あ、(セキ)くんちょっと」


前までなら二十時には帰れたのに、もう二十二時すぎ。吐きそうなくらい疲れた。

なのに、だ。タイムカードを切ってすぐに着替えを終え、早々に店を出ようとした俺を店長が呼び止めた。用事があるならタイムカード切る前に言えよ、なんて思いながら、「なんすか」と雑に返事をして振り返る。

店長は話が長いから、今から十分、俺はタダ働きをすることになるのだろう。最悪だ。


「今日みたいに混んでる日は関くんがもっと指示出してくれないと。鈴木さんはまだレジ危ういでしょ? そこらへんもっと周り見てフォローしてあげてほしいんだよねぇ」
「はあ、でも鈴木さんってもう入って二か月くらい経ちません? レジいい加減覚えてもらわないとじゃないですか?」
「今時強く言って辞められてもこっちに非がでるからさぁ……。それは避けたいっていうかさ、ね。わかるでしょ?」


わかるでしょ? ってなんだ。それがあたりまえみたいに苦笑いを浮かべて言う店長に睨みをきかせるも「まあまあ、気持ちはもちろんわかるよ」と言われるだけで効果なし。心のこもってない謝罪をされ、苛立ちが募った。


自宅から徒歩圏内にあるファミレスをバイト先に選んだのは、単純に家から近いからである。
この店の料理で何が好きとか、飲食店で働いてみたかったとか、そういう動機は一切なくて、高校生を雇ってくれて、家から近くて、時給がそこそこ良ければどこでも良かったのだ。それがたまたまこの店だったというだけで。


働き始めたのは高校二年生の時なので、早一年が経つ。

仕事がつらいのか店長がムカつくのかパートのババアがうるさいのか、原因は詳しく知らないけれど、この店のアルバイトはすぐに辞める傾向があった。
半年いたら上等。つまり一年いる俺は、結構やる男ってわけだ。


二か月前に新しく入って来た鈴木さん。歳は俺の一つ下で、よく言えば大人しくて優しそう、悪く言えばちょっととろくて使えなさそうな女子高生。

入って一か月もすればだいたい覚えられることをまだ覚えていないので、正直一緒に仕事をするのは少し億劫だった。


やめられたら困るからってなんだよ。

俺が入りたての頃は、お辞儀の角度がどうとか、接客の愛想が悪いとか、そもそも目つきが悪いだとか、そんな細かいところまでパートのババアに注意されていた。

あれもこれも文句ばかり言われるものだから、辞めてやろうかと何度も思ったけれど、それでも辞めなかったのは俺の根が真面目だからなのか? 



今となっては過去のことに過ぎないが、とは言え女の子だから無条件で優しくされるってそんなんずるくねえ? とか思ってしまうわけで、俺は店長に見せつけるようにため息を吐いた。

元はと言えば鈴木さんが問題視されていることなのに、なんで俺が個別に注意されなきゃいけないんだよ。


自分で言えないからってバイトの俺に頼む店長も、こういう時こそ出番なはずなのに、ぎっくり腰になったとかで休養しているパートのババアも、仕事ができない鈴木さんも、全部むかついて仕方ない。


給料が発生しない十分で話される内容がこれだと、やっぱり世の中理不尽でできてるんだよなぁ、と嫌でもわからされてしまうのだ。


「ああ、あと新しい子もひとり採ったんだよね。関くんに指導お願いしようと思ってるから、よろしく」
「えー……はあ、わかりました」
「じゃ、お疲れ様」


なんで今更俺なんだ。

俺は、できるだけ責任なんて負わずに、ラクに、適当に、そこそこ生きていたかったのに。



「仁科くんいなくなっちゃったから。頼れるの関くんしかいないんだよ」



ああもう。どれもこれもあいつが──仁科翼が、突然辞めたせいだ。





「仁科くん休みになっちゃったんだよね」
「はい?」
「だからごめん関くん、今日出れないかなぁ」



あいつが死んだ「らしい」というニュースが放送される前日のことだ。

その日は楽しみにしていたゲームソフトの新作発売日で、俺は意図的にバイトを入れていなかった。学校終わったら速攻家に帰ってゲームをしようと決めてこの数週間を生きぬいてきたのだ。

そのこともあって、帰り道聴いていた音楽を遮ってかかって来たその電話に、俺は絶望した。

出なきゃよかった。そう思った時にはもう遅い。


「はあ、わかりました」


適当な理由で断る術を持っていない俺の口から出たのは、それだった。


「ありがとう助かるよ。十八時からお願いしてもいいかな」
「はあ、わかりました」


はあ、わかりました。店長からのお願いごとにそれ以外の返事をしたことがないような気がする。

やる気はないが最低限の仕事ができて、サボらないし融通が利く。そんな俺は、バイト先にとってかなり都合が良いのだと思う。

ゲームを諦め、当欠した仁科の代わりにしぶしぶ出勤したその夜、仁科から店長に「辞めます」と連絡がいったらしい。


そして翌日───彼がいなくなったという全国ニュースが放映される、という綺麗すぎる流れだった。



死んでるのか生きてるのかもわからない、その仁科翼という男はバイト先の先輩であり、それ以前に、中学の同級生でもあった。

友達と呼べるほど親しくなかった。むしろ俺は、誰にでも平等に優しくて、きっといろんなことに恵まれてきたであろう仁科のことが苦手で───いや、嫌いだった。


中学時代、仁科と俺は一度も同じクラスになったことがなかったが、関わったこともないくせに俺は仁科のことがとても苦手だった。
奴がまとう、無駄にキラキラして爽やかな雰囲気が鬱陶しかった。


まわりにはいつも人が集まっていて、勉強も運動もできる人気者。
廊下ですれ違う時は、仁科と目を合わせないように意図的に視線を外していた。

くだらない承認欲求で生きる俺を「関ってつまんない生き方してるんだね」と嘲笑されているような気がして、怖かった。



中学一年生の時、五つ上の兄が引きこもりになった。兄とはもともと仲が良くなかったので、彼が家に籠るようになった理由を俺は詳しく知らない。


真面目なわりに、要領が悪い人だったから、きっとそういうところに引き金があったのだと思うが、背景を想像できるようになったのは高校生になってからだ。

俺は兄のことが嫌いになっていた。高卒で仕事に就いて半年もしないうちに辞めて実家に引きこもるってなんなんだお前がしっかりしないとだめだろ。真面目なことしか取り柄がないくせに。


決してそんな偉そうなこと言える立場じゃないのに、兄を見ているとどうにも不安で焦りが募り、怒りが湧き上がるのだった。


二年生になった頃には、父親が家を出て行った。理由はゴミみたいなことだったので今更思い出したくもないが、父親がいなくなってから母は仕事に追われるようになり、家にあまり帰らなくなった。

いつしかひとりの時間が当たり前になった。

冷めたご飯は味がしなかったし、家にいるはずなのに気配がしない兄は不気味で気持ち悪かった。


いつからか、「ただいま」と言うのをやめた。返事がないのに帰宅したことを伝えても虚しいだけと気づいたからだ。

引きこもりの兄も、帰ってこない母にもむかついて、毎日がつまらなく、鬱陶しかった。




ある日、思いたってお小遣いでピアッサーを買い、ビビりながら俺はひとりでピアスを開けた。

何故そんなことをしたのかというと、単純にかっこいいと思ったから───なんていうのは建前に過ぎなくて、実際のところは、なんでもいいから俺のことをちゃんと見ていて欲しかったのだと思う。


ピアッサーの大きな音がリビングに響いても、兄は部屋から出てこなかった。


翌日、学校では当然のごとく先生にはこっぴどく叱られ、反省文を三枚書かされた。
母には電話がいったらしく、「犯罪だけはしないでね」とだけ言われた。関心に値しないたったそれだけの言葉にすら、俺は嬉しさを感じていた。


先生にはそれ以降目をつけられたが、家族よりも俺を見てくれている気がして、俺は安心感を覚えてるようになった。



それからの俺はというと、授業をサボって当時仲良くしていた友達と制服のままゲーセンに行ったり、夜中に学校に忍び混んで肝試しをして、警察に補導されたこともあった。

まわりと違うことをすると人の視線が集まって、俺を認識してくれることを知った。

迷惑をかければかけるだけ、生きてることを実感できる。そんな承認欲求で生きる俺はとにかく未熟でダサかったけれど、そんな自分でいる以外に、孤独を埋める方法が見つからなかった。



三年生になっても、俺は変わらなかった。勢いで開けたピアスホールは、面倒くさがってケアをちゃんとしないせいで菌が入って何度も膿んだけれど、市販の薬を塗って、雑に絆創膏で覆ってやり過ごしているうちに、いつのまにか安定した。

そうやって、時間とともに俺は世界にも俺自身にも馴染んでいく。


関わったことのない人間を毛嫌いして過ごす日々もだんだんあたりまえとなり、そうしているうちに卒業式を迎えた。



「いつの間にか」とか「だんだん」とか「気づいたら」とか、そういう言葉に隠れて、俺は自分から逃げている。


「いつの間にか」、そういう生き方しかできなくなっていた。





そんな日々の中で、俺はあいつに再会した。



「関くんの指導は仁科くんにお願いしてるから。わからないことあったら彼にきくようにしてね」
「え」
「そういえばふたり同じ中学校なんだって? それなら関くんも安心だね、よかったよかった」


人生なにがあるかわからない───なんていうのは、俺の人生においては素晴らしく要らない展開だったと思う。



「俺のこと知ってる?」
「……仁科翼だろ?」
「ああ、うんそう。で、そっちは関陽介(ようすけ)
「知ってんだ」
「知ってるでしょ。学年でも飛びぬけて荒れてたじゃん」



高校二年生。家から近いファミレスのバイトの面接に行き、即日採用された。

初出勤の日、俺は、中学時代一方的に避け続けてきた男と再会を果たした、というわけである。



「関、中学の時より落ち着いたよね」



仁科にそう言われた時、俺は咄嗟に耳元を隠した。仁科の瞳に、今の俺がどう映っているのかわからなかったが、欲求だらけの黒歴史を掘り起こされるのは単純に恥ずかしかった。


「お前に関係ねえだろ。知ったように言ってんなようぜえから」
「ごめん、思ったこと言っただけだったんだけど」
「それがうざいって言ってんだろ死ね」
「ハハ。死ねは言い過ぎかもね、関」


やけくそで開けたガタガタのピアスホールが、情けない俺を物語っている。

もっと言えば、「変わったね」ではなく「落ち着いたよね」だったことが、俺にとってはどこか後味が悪かった。俺の暴言を笑って流すその態度すら、むかついて仕方がなかった。



仁科はとても仕事ができるやつだった。

とにかく業務においての効率が良く、店長をはじめ他の従業員も、何か問題が起きても仁科に頼れば大丈夫という安心感を持っているような気がした。学生というだけで下に見てくる口うるさいパートのババアも、唯一仁科にだけはやさしく、甘かった。


一方の俺はというと、もともとの目つきが良くないことと愛想がないことが相まって、俺宛てにクレームが来て店長からやんわり注意を受けたり、混雑した時に仕事の優先順位がわからなくなってパートのババアにねちねち文句を言われたりを繰り返していた。


できないわけじゃないけれど、仁科のように頼られるほどできるわけでもない。

それでも、仁科は俺がひとりでちゃんとできるようになるまで同じことを何度も教えてくれたし、失敗した時はたくさんフォローしてくれた。



人当たりの良い爽やか好青年という仁科へのイメージは、中学の時から変わらない。

仕事も顔も申し分がなく、そんな完璧人間と同じ空間で仕事をするのは、助かる反面、劣等感を掻き立てるのだった。




仁科が消えてから二週間が経った。

たった二週間、されど二週間。
情報番組で扱うニュースは日々入れ替わっていき、仁科の名前を聞くこともなくなっていた。


覚えが悪かった鈴木さんはバイトを辞めた。彼女と入れ替わるように新しく入ってきたのは、白石(しらいし)くんという、物腰が柔らかくて爽やかな男の子だった。出勤はまだ数える程度だが、覚えが早いので、周りからの評価が高かった。「指導した関くんも悪いでしょ」とかなんとか裏で言われたらやだなと思っていたので、白石くんがちゃんとできる人で、俺は正直ホッとしていた。


「白石くん、関くんにちゃんと教えてもらえてる?」


出勤してすぐのことだ。「関くん名札忘れてるよ」と店長に言われ、慌てて休憩室に名札をとりに戻ると、ドアを開けようとしたタイミングでそんな声が聞こえ、俺は咄嗟に動きを止めた。


「はい」
「本当はね、仁科くんっていうすごい仕事できる子がいたのよ。新しい子の指導は全部彼がやってたんだけど、突然やめちゃって」
「はあ、そうなんですか」
「関くんじゃちょっと不安っていうかねぇ……ほらあの子、うちの娘と同じ中学校だったんだけど、昔かなりヤンチャしてたっていう話でね」



ババアの退勤と白石くんの出勤が被ったせいか、ババアのマシンガントークに曖昧に相槌を打っている。

噂話ならもっと小さい声でやれよ、なんて思いながらも、自分がいないところで話題にされるのは良い気がしなかった。



バイト歴一年にしてようやく判明した。パートのババアが俺にだけやたら厳しくてねちっこいのは、俺の中学時代の素行を知っていたからみたいだ。

ババアの記憶のなかで俺は、迷惑をかけることでしか自分を見てもらえなかったあの頃のままで止まっている。

それってつまり、俺は変われていない、ということで。



「それに関くん、仁科くんに対しても結構態度悪くてね。嫉妬って怖いわよねぇ、今時恋愛だけに言えることじゃないのよ? 関くん、きっと本当は仁科くんみたいになりたかったんだと思うわ」
「はあ、そうなんすか」
「うんうん、きっとそうよ。でも可哀想よね、関くんと仁科くんじゃ全然違うのに。なんかねえ、なんていうのかしら。関くんってちょっと恩着せがましいところとかない?」
「はあ、どうすかねえ」




ああ、くそだ、本当。
全部全部、仁科のせいだ。



おまえがいなくなったせいでお前の仕事は全部俺に回って来たし、店長の頼みは増えたし、お前と比べられて評価されるようになったし、自分の陰口まで聞く羽目になった。

可哀想とか、ババアに勝手に決められるようなことじゃないのに。



「仁科くんが今もいてくれたらよかったんだけど」
「はあ」
「SNSとかでも流れてたりしない? ほら、彼が自殺したかもってやつ。結局どうなったのかわからないんだけど、やっぱりまだ見つかってないってことは死んじゃったってことなのかしら」



ここにいない仁科にむかついたところで何の解決にならないこともわかっているのに、苛立ちがおさまらない。



あーあ、ホント、嫌になる。長く続いても高校の卒業と同時に辞める予定だったわけだし、だったら今辞めても──……そうだ、今日辞めるか。


それから俺は、ドアを開けずにホールに戻り、店長には「名札家に忘れましたすいません」と雑な嘘で謝った。





「店ちょ……」
「あ、関さんすみません、今いいっすか」



閉店後の締め作業を終え、カウンター席に座って事務仕事をする店長に辞めることを伝えようとしたところで、白石くんに声を掛けられた。


「この枯れた花ってどうしたらいいですかね?」
「花?」
「え、はい。なんかすげー枯れてて見栄え悪いんでどうしたらいいかなって」


どこから持ってきたのか、彼は花瓶を見せてそう言った。枯れた花がみすぼらしくそこにいる。

見たことのある花瓶だった。たしか、トイレ前の通路に置いてあったやつだ。けれど、俺の記憶にあるのは色鮮やかに咲いているもので、こんなふうに茶色くなったものじゃない。


この店でバイトをはじめて一年。そこに過敏が置いてあることは知っていたが、俺は一度も、この花に水を与えたことはない。


昼間のバイトやパートの人が水やりしていたのか? いや、だとしたら枯れていることにもっと早く気づいていたはず。

じゃあ一体だれが───。



「あ、それねー、育ててくれてたの仁科くんだ」


思い出したように店長が口を開く。「仁科ですか」と、反射的に声がこぼれてしまった。


「そう。まかせっきりにしてたからすっかり忘れてた。枯れたのはもうしょうがないから捨てようか」
「わかりました」



白石くんが小さい声で「ごめんね」と言いながら枯れた花を捨てた。店内が静かだったから聞こえたが、有線がついた営業中の店内だったら絶対聞こえなかったであろう声だった。


「これって、新しい花買う感じですか? 空いた花瓶は……」
「いやー、ね、そうだよねどうしよう。水やり忘れたらすぐ枯れちゃって可哀想だよねぇ」



仁科くんがいてくれたらよかったんだけど。なんの気なしに呟かれたその言葉に、ちくりと胸が痛んだ。


突然辞めたのが俺だったとしたら、こんなふうに言われていないだろう。辞めてからもこんなふうに求められる仁科が、俺は羨ましくてしょうがない。


はあ、と小さくため息を吐くと、「関さん」と名前を呼ばれた。



「仁科さんって、ニュースになってた人っすよね」
「え? あー……うん」
「ぼくその人と会ったことないんであれですけど、関さんに教わることに不便感じたことないっすよ」


思いがけない言葉だった。動揺のあまり、「え、何急に……」とたどたどしい返事になってしまう。


「あ、すみません。さっき休憩室で話してたとき、関さんが聞いてたの見えちゃって。ドア半開きだったんで」


白石くんの表情からは、何を考えているのか読み取れなかった。


「今日パートの人も仁科さんのことめっちゃ褒めてたんですよね。でもぼくからしたら、今ここにいない人のこと話されても知らないから、比較のしようがないんですよ。てか全然、頼りになります関さんは」
「あ、ああ……そう」
「気にしてるのかと思って。あの、一応です。要らない情報だったら忘れてください」



後輩に気を遣わせるなんて情けない。そう思う俺とは裏腹に、白石くんは言葉を続ける。


「でも今言ったこと、まじですよ。関さんかっけーっすもん。あとなんか、人間らしくて安心します。ぼくも関さんに甘えていいんだって思えるっつーか。あ、ちなみにこれめっちゃ褒めてるんですけど伝わってます?」
「え? あー……えーっと……」



誰かに褒められた経験が乏しいので、こういうとき、どういう反応をするのが正しいのかわからない。

俺はただ、自分ができる範囲で言われたことをやっているだけだ。仁科に比べたら、そこまで影響力のある人間じゃない。


そんな俺のことをこんなふうに思っている人間がいることに、俺は純粋に驚いた。けれど同時にどこか照れくさくもあって、俺は白石くんからそっと視線を逸らした。


「そういえば仁科くんも前に言ってたな」
「……仁科が、ですか?」
「『関は俺と違って根が真面目で律義なやつだから、もっと任せていいと思います』って。仁科くんが辞める話は前から聞いてたもんだから、その時に関くんの話になってね。まあ、こんなに急に辞めるとは思わなかったんだけど。仁科くんが信頼してるならってことで、指導係は関くんにお願いしたんだよ」


「急に仕事ふやしてごめんね」困ったように店長が笑う。白石くんは、何も言わず俺をじっと見つめていた。





「関ってさぁ、俺のこと嫌いだよね」


突然仁科にそう言われたのは、バイトを始めて一か月ほど経った時の出来事だったと思う。


退勤時間が仁科と偶然同じで、俺たちは成り行きで一緒に店を出た。仁科がその話題を振ってきたのは、歩き出して直後のことだった。


「……は、え?」
「俺のこと嫌いだよねって聞いた」
「……え、いや、なんで?」
「いやいや、滲み出てるじゃん。俺そういう雰囲気察するの得意だよ」


その瞬間、そんなわけないだろと否定できるほど俺と仁科の関係は深くなく、というより、言われたことが図星であり否定の余地がなかった。


人に知られたくない感情ほど、上手く隠せないのは何故だろう。

どう返していいかわからず目を逸らすと、仁科はハハ、と笑った。



「いや、いいんだよ全然。ごめん、別にそれが嫌だとかじゃなくてさ」
「はあ」
「ただちょっと、俺はお前に興味あったから」


言っている意味がわからなかった。なんでも持っている仁科が、俺に興味を持つ理由なんてあるはずがない。


「中学生でピアス開けるとかかっこいいじゃん。関のこと、ちょっと羨ましかった」


馬鹿にされている。そう、思った。

羨ましいって何がだよ。仕事で帰ってこない母がいて、部屋から一歩も出てこない兄がいて、俺はいつも一人だった。上手な頼り方を知らないまま、人に迷惑をかけることでしか自分を見てもらえなくなった。


「……はっ。そういうとこだよ、俺がお前のこと嫌いだったのは」
「え?」
「お前はいいよな、悩みも地獄も知らなそうでさ。俺は、ずっと見返り求めて生きてるってのに」



ひとつ口に出した途端、感情はあふれ出す。こんなのはただの僻みでしかないって、頭ではわかっているのに止まらなかった。

俺がどんな気持ちで生きているか、なんて、仁科にわかるはずがない。


仁科みたいに愛想が良くて、誠実で、明るくて、勉強も運動もできてコミュニケーションに困らない。俺みたいに、他人の不幸を願って生きているような奴と比べたら、仁科のような人間が人生をうまくこなせるのは当たり前のことだ。


俺だって、本当はもっと真面目に生きていたかった。抱える孤独を誰かのせいにするんじゃなくて、本当はもっと前向きに生きて、自分で自分を認めてあげたかった。

あの時よりはまだ今のほうがマシとか、そういう過去の自分と比べて生きていたいわけじゃないのに。

ピアスを開けたくらいじゃ満たされない。
そういう感情を、俺はひとつも消化できないまま生きている。


「そういうとこだよ関。俺がお前を羨ましいって思うのは」


仁科の声が鮮明だった。


「見返りを求めるって、人を信用してるってことじゃん。俺は逆。他人ごときに俺のことわかってもらいたくないって思ってるから。本当に俺が考えてることなんてさ、きっと誰も知らない」
「……なんだそれ意味わかんね。つまんない冗談やめろ」
「みんな急に俺がいなくなって困ればいいのに、とかね。人に優しくする理由にしちゃ曲がってるけど。俺も大概そんなこと思って生きてたりすんだよね」
「だから、意味わかんねえって」
「俺も」
「はあ……? 頭おかしいんじゃねーの」
「関ってホント俺のこと嫌いだよね」
「おまえと喋ってると疲れる。もう黙れようぜーから」




仁科翼。俺はお前のことが嫌いだった。

無駄にキラキラしたオーラは鬱陶しかったし、何を考えているのかわからない瞳も怖かった。


俺たちは絶対に交わらない。同じ思考を持つこともない。仁科がその日言っていた言葉の半分も、俺は理解できないままだった。



それでも俺は───俺たちは。



「あーなんか、関と全然仲良くないのに言わなくていいことまで言った気がする」
「知らねーよ、こっちの台詞だわ。まじでお前日本語不自由」
「まあでも関ならいいか。言いふらす友達いなそうだし」
「死ねお前まじで。性格ゴミ。人間界の最低種族」
「それ絶対言いすぎ」
「は? おまえが元凶な」




今、やっと気づいた。

俺は仁科のことを羨ましいと思ってたんだ。

──…うん、そんな気がする。



過去のできごとを辿って、今更気づきを得ることがあるなんて知らなかった───いや、気づきたくなかったのだ、ずっと。

仁科が羨ましい。その感情を認めたら、俺があいつより劣っていることも認めることになる。


だけど、それは仁科も同じだったのかもしれない。

仁科が俺を「羨ましい」と言っていたのが、本心からこぼれたものだったとしたら。

思い出したとて、仁科の生死はわからないままだし、あいつがいなくなったことで増えた俺の負担も減らない。それでも、あの時仁科が言っていた言葉の意味は、今の俺なら素直に受け止められる気がした。


「店長」
「ん?」
「新しい花、俺が育てますよ」



お前がいなくなっても別に困らなかった、お前の影響力なんてそんなもんだった、って笑って言えるように、俺は今をちゃんと生きることにする。


「つか関さん、辞めないでくださいね。関さんいなくなったら俺も辞めたくなっちゃうかもしんないんで」
「……花のことあるし当分はいるんじゃね?」


白石くんの言葉に、俺は照れ隠しでえらそうに返事をした。



その日、帰宅した俺は、何を思ってか静寂に包まれたリビングで、「ただいま」と言ってみた。

思い込みでも幻聴でもなんでもよかった。ただ、「おかえり」と、消えるように小さな声で言われたような気がした。