「仁科くんって悩みとかあるのかな」
あれはたしか、体育の合同授業があった日のことだ。その日はユウナが体調を崩して休んでいて、あたしと絢莉はふたりで体育館の隅に体育座りをしながら男子のバスケの試合を眺めていた。
仁科くんの華麗なスリーポイントにまわりからは黄色い歓声が沸き上がったり、Tシャツの裾で汗を拭く姿すらさまになっていたり。こんな体育の授業ですら、仁科くんにはいつだって光が集まっていて、あたしのような人にとってはとても眩しく、時々鬱陶しいものでもあった。
仁科くんって悩みとかあるのかな。絢莉がふとこぼした疑問に、あたしは野暮なことに「え?」と聞き返してしまった。彼女の口か仁科くんの名前が出ることなんてこれまで一度だってなかったから、脳が追い付いていなかった。
絢莉の瞳はまっすぐ仁科くんを映し出している。絢莉の雰囲気がいつもと少し違うように思えたのは勘違いではなかったと、今なら自信を持って言えるだろう。
「……なんで急に仁科くんの話?」
「や、……深い意味はないんだけどさ。ただなんとなく、うん」
絢莉が鼻の先を小さく搔いて言う。なんとなく、なんて嘘だ。絢莉はよくも悪くも人に興味を持たないから、特定の人間のことを話題にだすことはほとんどない。
「……うーん。まあ、悩みとかはなさそうに見えるけど。人生ガチャ成功してるでしょ、あの人」
「だよねぇ……」
絢莉の嘘には気づいていないふりをして、あたしが感じている仁科くんの印象伝えると、絢莉は耽るように息を吐いた。どういうため息だったのか、意味までは理解できなかった。
仁科くんとなにか接点があったのだろうか? 彼の悩みが気になるほど会話を交わしたのだろうか。彼が持つ、絢莉が気になってしまうほどの特徴ってなんだろう。
長年一緒にいて初めて知る絢莉の雰囲気に、あたしは何故か少しの焦燥に駆られていた。
「もしかして絢莉って、仁科くんみたいな人がタイプ?」
「え。や、全然」
「そう? 好きになっちゃったのかと思った」
あたしたちは同じ性別だから、こんなふうに突然恋愛の話題を振っても気持ちを疑われる可能性はない。こうして普通のふりをして、他人事のように扱うのがいちばん効率が良いのだ。多少の地雷は、慣れがどうにかしてくれる。
「……いやいや。そんなわけないじゃん。話したこともないし」
「ホントに?」
「はあもう、そう言われたら突然仁科くんの笑顔嘘くさくみえてきたんだけど」
「王子スマイルですからあれは。ほら絢莉、仁科くんシュート決めた」
「えーかっこいいー好きになっちゃうー」
「棒読みで草」
ふざけて笑い合っていたところでピーッと笛を鳴らされ、「そこ、ふざけなーい」と先生からゆるい注意を受ける。周りの視線が集まって、あたしたちは恥ずかしさから逃げるように「スミマセン」と絶対聞こえていない声量で謝った。絢莉がくすくすと肩をゆらして笑っている。
「百々子のせいで怒られた」
「仁科くんファンの声援のがうるさいですって言えばよかったね」
「やば。喧嘩じゃん」
「あたしらのことも応援してほしいんですけどって」
「わははっ、なんですぎる流石に。その応援要らないでしょ」
話題はいつの間にか逸れて、そうしているうちに体育の授業は終わった。
感じていた焦燥感は姿を消していて、その日どうして突然彼女の口から仁科くんの名前が出たのかはわからないまま時間は過ぎていった。
それ以降、全国ニュースで見かけるまであたしたちの間で仁科くんの話題が出ることは一度もなかった。
たった一回、絢莉が仁科くんの名前をこぼしたあの瞬間、隣にいたのがあたしで良かったと、そんな小さな優越感はいつまでも残って消えないままだ。
たったそれだけの出来事が、あたしにとってはもうずっと宝物みたいに大切で、忘れることができない。