きみとこの世界をぬけだして




「あ。アオハルくん」


その日は、退勤時間がシマさんと同じだった。バックヤードで、僕より一足先に着替えを終えたシマさんが何かを思い出したように開口する。名前が青砥(あおと)千春だから、最初と最後の文字をとって「アオハルくん」らしい。

ひとりでいるほうが楽だと感じるようになったのはいつからか。

学校という窮屈な箱の中で、下品な話で盛り上がる同性も恋愛感情に侵されて周りが見えなくなる異性も、僕にとってはあまりに面倒で、無理をしてまで友達になりたい人達ではなかった。
ずっとそんな気持ちを抱えて生きてきたので、僕に友達と呼べる人はいなかったが、その事実を寂しいと思ったことすらなかった。

青春なんてものとはかけ離れた生き方をしている僕に青春を匂わせるあだ名をつけるなんて、皮肉にもほどがある。

最初の頃は「その呼び方やめてくださいよ」「なんでぇ、いいじゃん」「煽りにしか聞こえない」「煽ってるから間違いじゃないよ」「人としてどうかと思いますが」などというお決まりのやりとりがあったけれど、それもいつの間にかしなくなった。

日々は、僕等のあたりまえを肯定するために過ぎていく。


「昨日ニュースで見たんだけど、高校生の男の子がいなくなった事件って、アオハルくんの地元じゃなかった?」
「……あぁ、はい」
「今日電車乗る時、警察が聞き込みしてたの。私の最寄りでそうだったから、アオハルくんのところとかもっとすごいのかなって。ごめん、これはただの好奇心だから答えなくてもいいんだけどさ」


シマさんはまっすぐな人だ。どういう気持ちで言葉を紡いだのかを教えてくれるから、踏み込まれても嫌な気がしない。べつに気にしないですよと言うと、シマさんはありがとうと言った。感謝されるほどのことはしていないのに、そういうところが彼女はとても律義だと思う。


「仁科翼って、僕の同級生だったんですよね」
「え、そうなんだ?」
「でも、仲良かったとかそういうんじゃないので。ただ通ってた中学が同じだったってだけですよ。名前すら呼んだことないくらいの関係です」


県内じゃ有名な進学校に通う男子高校生が行方をくらましたというニュース。昨日、金曜ロードショーが終わったあとに偶然耳に留まった、あれだ。


行方不明になった仁科翼という人間は、中学校の同級生だった。
警察は近隣住民への情報提供を呼び掛けていて、シマさんの言う通り、僕の地元では駅だけにとどまらず街を歩く市民に声をかける警察の姿を見た。生憎僕は目が合う前に人の波に紛れて駅に向かい逃げるように電車に乗ったから、警察につかまって時間をロスすることはなく出勤できたわけだが。そのことを伝えると、シマさんはきみらしいねと言った。


「……なんか、意外だったんですよねぇ」


彼が消えた、と聞いて、僕が抱いた感情はそれだった。
行方不明になった理由は明確ではないが、何らかの事件に巻き込まれた可能性もあるらしい。昨晩そのニュースを見てから僕はどうにも真相が気になってしまい、ネットで同じニュースを検索をしてみたところ、「自殺もフツーにありえそう」「今時の若者は弱い」とか、一部ではそのような意見が飛び交っていることも知った。

けれど、あの仁科翼に自ら命を絶つという可能性が加えられていることが、僕にはまるで想像ができなかった。


「意外って?」
「なんていうか、仁科はいわゆる光属性ってやつだったから」


僕が知っている仁科翼は、勉強も運動もよくできて、愛想も持ち合わせていて、誰とでも平等に関わることができる、なおかつルックスも良いといった具合に、とにかくすべてを兼ね揃えた完璧人間だった。

とはいえ、目立ちたがり屋だとか仕切りたがりだとかそういう一面はなく、ただ単に平均以上の才能や愛嬌があり、誠実そうなオーラもあった。
こう言ったら失礼なのかもしれないが、彼のことをよく知らない僕からしてみても仁科は悩みなんてなさそうに見えたし、日々を充実している人なのだと思っていた。
生きることそのものを生きがいを感じていそうなタイプだ。人付き合いを面倒くさがってひとりになりたがる僕とは、どう頑張っても交わらない。


「光属性かぁ」
「え?」
「ねえアオハルくん。それはきみと、きみと同じ考えを持つ人の意見ってだけじゃないのかなあ」


シマさんが言葉を落とす。そこにどんな感情が込められていたのか僕にはわかりそうになかったが、いつもより幾分か彼女の声色は冷えていた、ような気がした。



「きみは同級生くんとは仲良くなかったんだよね。ただの同級生ってだけで」
「え? ああ、それはまあ」
「じゃあ何を根拠に同級生くんが自殺なんかしないって思ったの? 彼がいなくなってそれを意外だと思ったのはどうして? 光属性って、誰が最初にそう言ったんだろうね。それなのにアオハルくんの中で彼はもう死んだことになってるのはどうして? 行方不明と死は同じじゃないと思うんだけど」


シマさんの怒涛の問いかけに僕は口を噤んだ。シマさんよりかはまだ僕のほうが仁科のことを知っているはずなのに、彼女の言い分を否定するだけの思考を、僕は持ち合わせていなかった。


ニュースを聞いて意外だと思った。僕の知る仁科翼がそんなことをするような人に思えなかったからだ。

楽しく人生を謳歌しているくせに死にたくなるような悩み事を抱えているなんてありえない。何でも持っていたくせに、捨てたくなるような自分を隠していたなんて、仁科に限ってあるはずがない。


仁科翼は消えた。彼の生死に関する真実は、誰も知らない。

けれど僕は、仁科は死んだのではないかと思い込んでいる。警察が自殺の可能性も視野に入れているとニュースで言っていたからだ。いちばん最初に目や耳に入った情報を正解だと思い込んでしまう。大体の人間に、そういう傾向があると思う。そしてそれは、僕も然りだ。


「同級生くんが零から百までアオハルくんや周りが思うような人だったっていう保証、どこにもないよね。彼がいなくなったのが事件なのか事故なのか故意なのかすらなんにもわかってないんでしょ」
「それはそうですけど……」
「ね。だから、憶測で人のことを勝手に決めつけるのは、想像力に欠けると思うな」


シマさんの言ったそれは他人事のようで、だけど一概にそうとも言い切れないような、意味をたくさん含んだ言葉だった。


「ちょっとだけ、関係ない話してもいい?」


何も言えずにいた僕に、彼女は静かに語り掛ける。


「人にわかってもらえないってねえ、思ってる何倍もつらいことなんだよ。最初は頑張るんだけどさ、だんだん受け入れてもらうことを諦めて、周りの〝普通〟に合わせるのが癖になっていく。自分が勝手にやってることだってわかってても、時々苦しくてどうにもできない時もあるの。なーんでこんなに生きづらいんだろうねえ……」

何かを思い返すようにシマさんがぽつぽつと言葉を起こす。想像力に欠ける僕は、彼女の言葉の意味を半分も理解できていなかった。


周りの〝普通〟に合わせることは、そんなに大切なことなのだろうか。

負担になるような人間関係は、生活の邪魔をする。周りに人がいればいるほど悩みは増えて、居心地が悪くなる。だから僕はひとりが好きだし、ひとりでいたいと思う。そのほうが、無理して人と同じ歩幅で歩くよりよっぽど楽に呼吸ができるから。

そうは思っても、シマさんの前でそれをどう言葉に起こしていいかわからない。返事に窮する僕の思考を見透かしたように、彼女はハハ、と小さく笑った。


「言ってる意味がわかんないって顔してるね」
「……いや。すみません」
「いいの、謝ることじゃないから。でも、みんながみんなアオハルくんみたいにひとりを好むわけじゃないからさ。弱さを見せることが苦手なひともいるんだよ。何かしらの理由があって敢えて言わない人とかもいると思うし、そもそも自分の弱さを自覚してない人もきっといる。ひとりになりたくてもなれない人とかもね」


みんな別々の人間だからしょうがないんだけど。そう言ってシマさんが息を吐く。少しの寂しさと諦めを含んだような声色に、どうしてかちくりと胸が痛んだ。


「私だってそうなんだ」
「え?」
「私が大学出てからもここでバイトしてる理由なんて、人にへらへら笑って言えるようなことじゃないし」


僕が知っているシマさんは、要領が良くて、仕事が早くて、ユーモアもあって、容姿も淡麗で。きっとどこに行っても必要とされて、周りにたくさん愛されるような人。
そんな彼女が大学を卒業してからも継続してこの店で働いている理由を、僕は聞いたことがなかった。女性に年齢を聞くよりもずっとずっと触れちゃいけないことのように感じていたのだ。


聞いた話によると、シマさんは就職活動に挫折し、精神的に追い詰められていた時期があったそうだ。
彼女が大学四年生で就職活動の時期であることは周知の事実だったので、しばらく出勤していなくても僕は気にも留めていなかった。
大学を卒業したら就職するのがあたりまえ。家を出て、自立して暮らしていくことが平均的。友人は次から次へと内定が決まり、「シマちゃんはきっと大丈夫だよ!」と無責任な言葉をかけられ、なかな〝大丈夫〟になれない自分には苦しみが募っていった。


世の中が勝手に作り上げた固定概念にとらわれて、思考も身体も自分のものじゃないみたいに感じていたという。
それでも普通に頑張っているふりをして、周りに心配をかけないようにポジティブなふりをして、就職の話題が出るたびに「もうちょっとがんばってみる」と言ってやり過ごした。

頑張りたくないこと、頑張ることすらつらいこと、もう頑張れそうにないこと。それらを〝がんばる〟”ことは、とてもつらい。家族はそのままでよいと背中をさすってくれたが、それすらも鬱陶しくて煩わしかった。


「大丈夫なふりって、するだけ無駄だった。あんなにぼろぼろに生きてても、大学の友達も家族も誰も見抜いてくれなかったんだもん。あの時の私、全然、ひとつも大丈夫じゃなかったはずなのに」


シマさんは、そう言っていた。

本人の口から聞いた事実は、僕が知っているシマさんからは想像もできないことだった。


「意外だった?」
「……そう、ですね。正直言うと、シマさんは悩みがなさそうだって思ってました。なんでもうまくこなせていいなって。同い年だったら僕は多分シマさんのことは苦手になってたまであります」
「わはは、言うねえ。アオハルくんの正直すぎるところ、嫌いじゃないよ」
「すみません」


要領が良くて、仕事が早くて、ユーモアもあって、容姿淡麗な彼女でも、ひとりで枕を濡らす夜があった。誰かに何かをわかってもらいたいと願う日々の中にいた。
それでも、シマさんは僕の前ではなんでもできるシマさんのままだった。多数派に上手に紛れ、弱さを隠して、普通に生きているふりをしていたのだ。


「弱いところを一度誰かに暴かれたら止まらなくなっちゃうんだ。自分はこういう人間だったんだって自覚するともうだめなの。終わりの始まりってやつ? この弱さは自分が死ぬまで一生付きまとってくるのかあって思ったらさ、消えたくなっちゃうよね、ホント」
「今も?」
「ううん。今はもう結構落ち着いてる。わかってもらいたい人には、ちゃんと大丈夫じゃないって言えるようになったから」
「……そうですか」
「急にごめんね。きみの同級生くんの話聞いたら、少し思い出しちゃって」


仁科のことは疎か、比較的親交のあるシマさんのことですら、僕は何も知らない。
面倒くさがっているふりをして、人と関わることから逃げている。

ひとりを好むのは、誰かに踏み込む勇気がないからだ。誰かの弱さに触れるのが、本当はとても怖かった。


「日本のニュースがどんなに噂を流しても、それが事実じゃない限り、生きてる可能性を信じ続ける人もきっといるんだよ。きみが〝日本中が泣いた〟あの映画で泣かなかったみたいにね」
「シマさん、僕は……」
「わかり合えなくていいから、わかろうとしてほしい。少なくとも私はそう願って生きてる」


ねえ、アオハルくん。
シマさんが静かな声で僕を呼ぶ。

「きみは、仁科翼くんの背景を考えたことはある?」


その質問に答えられない自分に、遣る瀬無い気持ちが募った。




「え。千春、あんたなんでお父さんと一緒にラグビーなんか見てんの」
「べつに、なんとなくだけど」
「なにそれキモぉ……」
「お前も見るか? フランス戦、25対13! まだまだ勝負は続くぞ!」
「はあ? 見るわけないじゃん。テンション高いのキモいんだけど」


辛辣な姉と少々可哀想な父の会話を無視して、僕は再びテレビに視線を移す。

日曜日、夕方。先日、金曜ロードショーの時間に被っていたラグビーの録画試合を見ていた父に、僕は「ラグビーって何が面白いの?」と聞いてみた。姉が言う「容量の無駄遣い」が果たして本当にそうなのか、確かめてみたくなったのだ。

父は一瞬驚いたように瞳を大きくしたが、すぐに嬉しそうに微笑み、「ちゃんと見てればわかってくる」とだけ言った。

ラグビーの詳しいルールを僕はこれっぽっちも理解できていなかったが、実況や観客の歓声でどちらに得点が入ったとか、どれがファインプレーだったとか簡易的なことはわかってくるので、知識がなくても意外と楽しめるものだと知った。
今後も見るかどうかの二択を問われたら多分そこまで夢中になる事柄ではないなと思ったが、それでも今、父のことをわかろうとすることは、僕に必要である気がしたのだ。

『わかり合えなくてもいいから、わかろうとしてほしい』


シマさんに言われた言葉は、僕の思考をとかすように反芻していた。


試合を見終えた後、僕は自転車を走らせコンビニに向かっていた。
母が、カレーを作るのに肝心なルーを買い忘れたらしいのだ。既に飲酒してあてにならない父、夕飯準備で忙しい母、自由奔放で口が悪い姉とくれば、消去法で僕にお使いが回ってくることは、もはや避けられない。


夕暮れ時のわずかに冷たい風を浴びながら、僕は昨日の記憶を巡らせた。


『きみは、仁科翼くんの背景を考えたことはある?』


僕が知っている仁科が、0から100まで想像通りの人間じゃなかったとして。
たとえばシマさんのように、弱さを隠すのが上手で、普通のふりをして生きるのが癖になっていたとして。

完璧だと思っていた同級生が、本当は誰も知らないところであがいていたとしたら、彼が隠していた弱さってなんだろう。誰にも言えなかった本音はなんだろう。


仁科翼は、誰に何を、わかってもらいたかったのだろう。

───なんて考えたところで、所詮他人でしかない僕に答えが巡って来ることはないけれど。


「こんにちは。君、ちょっと話を伺いたいんだけどいいかな」
「はあ、どうも……」
「この辺に住んでる仁科翼って人について何か知ってることない? この写真の子なんだけど」


交差点で信号待ちをしていると、背後から警察官に声を掛けられた。変わらず聞き込み捜査が続いているようだ。目が合う前に逃げるのは得意だけど、背後からは太刀打ちできない。僕は小さくため息を吐き、差し出された写真に視線を移した。

テレビに映っていたものと同じだ。仁科の家族が提供したのだろうか。記憶に残る中学時代の仁科より確実に大人びた顔つきになっている。同じ男として羨ましく思ってしまうほど整った顔だ。高校でもさぞかしモテていたことだろう。明るくて爽やかで、写真からでもわかる友達がたくさんいそうな雰囲気。

やっぱり、彼と僕とは全然違う。
僕と仁科はただの同級生で、友達でもなんでもなくて、挨拶すらまともに交わしたことはなく、他人と呼んでも支障がない、その程度の関係性。


「どこかで生きててほしいですよね」


それでも、わかろうとしてみることにした。仁科翼という人間について、ニュースも人伝もあてにせず、自分の頭でちゃんと考えたことを信じてみようと思った。
背景も事実も考えないうちに他人の生死を判断するのは想像力に欠けると、誰かにわかってもらいたいと願うシマさんは言っていた。


「はい?」
「仁科くん、死んでないって信じてます僕は。全然、ほとんど他人ですけど、勝手に信じるくらいいいかなって」


きっとみんな、それぞれ違う棘を抱えて生きている。


「あの、すみません、僕カレールー買って帰らなきゃいけないので。もういいですか」
「え。あ、ちょっと君!」


警察官にそう告げて、僕は再び自転車を漕いで風に乗る。


ふと視線の先、交差点を曲がる若い男性が目に入った。
白い肌に、薄い身体。それにむかつくくらい綺麗な横顔が、どこかなつかしさを連れていた気がした。


「仁科?」


慌ててサドルから体を浮かし、立ち漕ぎでペダルを回した。



衝動的に追いかけてしまうほどのなつかしさを、僕は信じることにする。
その夜食べたカレーは、長い間固まっていた脳をたくさん動かした僕の身体によく沁みた。




 
「あたし、あやちゃんに失礼なこと言ったかなぁ」


友人のユウナが、机に肘を立て、枝毛をちぎりながらぼやいている。背もたれに体重を預けたあたしは、スマホをいじりながら横目で彼女を見下ろした。

机の上に寝かせたスマホには彼女の好きなバンドのステッカーがべたべたと貼ってあり、その中に一枚、私とユウナ、それから幼馴染である絢莉の三人で、ついさきほど撮ったばかりのプリクラが挟まれている。
真ん中に絢莉がいて、ユウナが笑顔を浮かべて彼女に抱き着いている。あたしはどうしても恥ずかしさが勝ってユウナのように抱き着くことはできず、絢莉の隣で控えめにピースをしていて、その顔は下手くそに笑っていた。


「ねえモモちゃん、聞いてる?」
「あー、うん。聞いてる聞いてる」
「じゃああたしが今言ったこと言ってみてよ」
「うわぁ、なにそれだる」


日曜日、夕暮れ時。ユウナが好きだというバンドのフリーライブに参加した帰り道。絢莉と別れた後に寄ったファストフード店で、あたしとユウナはひとつのポテトを分け合っていた。
プリクラから視線を移し、冗談めかしてそう言えば、「モモちゃんひどすぎ!」とユウナが嘆く。彼女は百面相だ。感情をそのまま表現できる彼女のことは、時々羨ましく感じていた。


「『あたし、あやちゃんに失礼なこと言ったかなぁ』」
「え、ちゃんと聞いてくれてるんだけど!」
「だから言ったじゃん、聞いてるって」

ユウナの発言は、話しかけているのか独り言なのかわからない時がある。
昔から、独り言だと思って聞き流していたら返答待ちだったことが何度もあったので、返事をするかしないかはさておき、彼女の言葉には耳を貸すようにしていた。一緒にいるうちに癖になったそれは、良いのか悪いのかわからないけれど。


「仁科くんが死んだかもとかさー……」
「うん」
「無神経だったかもって、今なら反省できるんだけどな。あやちゃんに嫌な思いさせてたかなぁ。でもさ、あやちゃんが仁科くんと関わりあったなんて知らなかったわけじゃん? だからなんていうか……えー、なんていうんだろう」


ポテトをかじりながらユウナが言う。反省と少しの葛藤を含む声色に、あたしは「なんていうんだろうねぇ」と相槌を打つ。
系統も性格も全然違うあたしたち。長年一緒にいるわりに、お互いに全部をさらけ出せる関係じゃないことが、時々怖くなる。
中学の時からずっと一緒にいるのは、地元が同じだからだ。三人のうちだれかひとりでも町を出たら、きっとあたしたちが集まることはないのだと思う。


つい先日、同じ中学校に通っていた仁科翼が消えたというニュースを見た。行方不明と報道されてはいたものの、どうやらネットやワイドショーでは自殺の可能性が高いという話になっているらしい。

連日あたしたちの地元では警察が事情聴取を行っていて、クラスメイトの中にも話を聞かれた生徒がいるみたいだ。てっきり、警察は仁科くんの交友関係を事前に調べて、かかわりが深そうな人物をピックアップして聞き込みをしているものだとばかり思っていたから、全然関係のないクラスメイトが事情聴取を受けた人がいると知り、要らない情報ばかりが飛びかって噂が広まるのってそういうのが原因なんじゃないの? と何故かあたしが苛ついてしまった。

噂というのは、形の見えない害だ。いつどこで広まるかわからない。規模が大きければ大きいほど、それらを否定することはできなくなって、まるでそれが真実かのように扱われる。自分が噂をたてられる側になった時のことを考えると、あたしは怖くてたまらない。


「あやちゃん、今頃新くんと何話してるんだろ」
「……さあ。でも、うちらじゃ簡単に踏み込めないことだよ、多分」
「わかってるよぉ。わかってるからモヤモヤするんじゃん……」


あたしたちがファストフード店に来る数分前。仁科くんの双子の弟、仁科新くんと数年ぶりに再会した。彼は絢莉に用があったようで、あたしたちには目もくれず、絢莉のことをまっすぐ見つめていた。
仁科くんがつけていた日記に絢莉の名前があった。あたしとユウナが聞いたのはそこまでで、というよりはそれ以上聞くのは絢莉に申し訳なくて、あたしたちはその場を撤退してここに来た、というわけである。


「あたしなんかじゃ力なれるわけないっていうか。こういうとき、どちらかというとモモちゃんのほうが頼られがちじゃん」
「……べつにそんなことないと思う」
「そんなことあるよ。あたしがあやちゃんでも、あたしみたいな適当人間に相談しようなんて思わないもん」
「うーん……」
「いいなぁ。あたしもふたりの幼馴染になりたかった」


写真といえど、何も考えずに絢莉に抱き着けるユウナのほうがあたしは羨ましい。
あたしはいつだって絢莉との距離が近ければ近いほど鼓動が早くなるし、「あたしたちは女同士の友達だから」と無理やり脳に覚えさせることに必死だ。

触れたら、長年あたしだけが抱えている気持ちが簡単にあふれてしまいそうだから。
幼馴染でいたとて、好きになってもらえないなら意味がない。


───なんてそんなこと言えるはずもなく、しなったポテトと一緒にあたしは本音を呑み込んだ。


「最近どう?」
「あーもうね、全然最悪」
「全然最悪なんだ。おもろ」
「あたし今月の恋愛運、星五個だったはずなのに全く当たってないし。なにが『好きな人と急接近するでしょう♡』だよ。神も仏もいないんだわ。つか神とかどんだけ偉い人なわけ? 人の人生勝手に決めんなぼけ、あほ、ばかやろう。末裔まで呪ってやる」
「神に末裔とかねーから。近年まれに見る荒れ具合じゃん、おもろ」
「何もおもろくねーよはげ」
「は? 眼科行けよお前。どこ見てもふさふさだろうが」
「うるさい黙れ」


隣を歩く男に向かってチッと舌打ちをすると、軽く笑われる。ぼけとかあほとか黙れとか。そんな野蛮な言葉、絢莉やユウナの前じゃ絶対言わないのに、この男と話しているとつい口走ってしまう。
悔しいことに、この時間があたしはいちばん素でいられるから、なのだと思う。

「つーか」と男が口を開く。彼の名前はシロ。本名は知らない。


「神様呪うくらいなら、いい加減好きって言えば?」


まるで他人事のようにそう言ったシロに睨みを利かせる。なんでこんな自分本位なやつと仲良くなったんだろう、なんて考えたところで答えはすでにわかりきっている。

仲良くなったのは、あたしとシロが“同じ”だからだ。


「シロみたいに、皆が皆オープンになれるわけじゃないんです」
「まあ、生きづらい世の中だなとは思うけどさ」
「あたしにとっては普通のふりして友達のまま生きてくほうが楽なの。下手に好きとか言ってさぁ、拒絶されたら生きてけないじゃん。そんなん、死んだほうがマシだよ」
「そりゃ重い愛だな」


あたしにとっては現状維持が最善。少しも変化は欲しくない。


「あたしは、絢莉が幸せならそれでいいんだ」


シロはそれ以上何も言わなかった。少しの沈黙が続いたあと、「昼飯何食う?」といつものトーンで言われたので、「シロの奢りならなんでもいいよ」といつものトーンで答えた。


絢莉に───同性の幼馴染に対して、友情以上の感情が芽生え始めたのはいつのことだったのだろう。

今はもう思い出せないくらい昔のことだが、同時に自分が〝いじょう〟であると気づいたのもその頃のことであった。
自分が抱いている感情が恋だと気付いたところで、あたしと絢莉の気持ちが同じ温度で交わることは決してない。
大丈夫だ、あたしはちゃんとわかっている。そばにいるだけで良い。同性の友達として彼女の隣にいるという選択肢しか、あたしにはなかった。

ボーイズラブもガールズラブも、流行ってきているけれど、理解が進んでいるわけじゃない。コンテンツとして楽しむのと、当事者になるのとじゃ訳が違うのだ。


実際あたしは、SNSで『同性愛はファンタジーとして楽しむくらいがちょうどいい』とかいうふざけた呟きを見かけたことがあるし、クラスメイトが『BLと百合は苦手』と言っているのも聞いたことがある。本当、世の中都合がよすぎて反吐が出る。
シロとは、SNSアカウントを通じて知り合った。今時そんなに珍しい話じゃない。

高校一年生の時、興味本位でつくったアカウント。女の子を好きになるあたしと、男の子を好きになるシロは、リプライやDMを通じて話しているうちに、歳が近くて、たまたま住んでいる県が同じであることを知り、流れるままに会うことになった。
顔も本名も知らない人に会うことに対して最初は抵抗もあったけれど、それよりも、自分と同じ立場にいる人が存在することをこの目で確かめてみたかった。


音楽の趣味が同じで、嫌いな食べ物も同じだった。共通点が多ければ多いほど、人は仲良くなっていく。互いに〝ふつう〟じゃないあたしたちは、そうして友達になった。

月に数回会う関係。シロとモモでいる時間は、思いのほか居心地がよかった。


今日は、「見たい映画があるけどあんま有名じゃないやつだから誘う奴いない」というシロに誘われて映画を見に行くことになっていた。あたしは全然興味がなかったけれど、シロにはいつも話を聞いてもらっているので、付き合うことにした。
それで、今。映画を見終えたあたしたちは、肩を並べて歩いていた。ずるずると鼻水を啜るシロにティッシュを差し出しながらあたしは「ねえ」と話しかける。


「好きな子が中学時代気にかけてた男が行方不明で自殺したかもしんないんだけど、それ知ってから好きな子は最近ちょっと前と違くて、なんかあたしのいるところから遠のいていく気がするの。あたしを置いてどんどん前に進んでいく感じ。なんでなんだろう」
「いやまず映画の感想言わせろよ。こんなに泣いてる男が隣にいんのに堂々と無視すんな」
「あ、ごめん」
「つかなんだよその水平思考クイズ。むずすぎんだろもっと簡単なやつにしろよ」
「ごめんて。映画見てたらなんか思い出しちゃって」


地元の小さい映画感でしか上映されないような規模のそれは、自殺願望のある男と余命数年の女が死ぬ前にふたりで最期の旅に出る、という内容の映画だった。本当の自分を開放して、しがらみを壊していく。物語は確かに面白かったし、感動した。小規模な映画感じゃなくて、もっと大きな場所で上映しでほしいと思えるくらいだ。

けれどそれらを差し置いて、ヒロイン役の女優の雰囲気がなんとなく絢莉に似ている気がして、おまけに自殺願望がある男がヒーローなものだから、ご丁寧に仁科くんのことまで思い出してしまったというわけだ。


「思い出したってなに。そのニュースを?」
「や、ニュースってよりはあたしの好きな子がその男を気にかけてたっていうあたしの失恋エピのほう」
「しっかり切ないやつじゃねえかよ」
「泣いていいよ」


行方不明になった同級生はなんでもそつなくこなす完璧人間で、誰にでも平等に優しくて、顔も整っているような人だった。
あたしは彼に関する客観的情報以外はあまり知らなかったけれど、絢莉が好意を寄せていることだけは何となく知っていた。
好きだから、見ていればわかるものだ。視線の先で、好きな人はいつも、あたしじゃない人を追いかけていた。


「……まあ、大したことない話だけど」
「でもモモにとっては大したことだったんだろ。過去の話くらい、もっと自分本位で話せば?」


『でも、永田さんにとっては大したことだったでしょ?』

シロの言葉に重なったそれ。いつ忘れたのかも覚えていない記憶のくせに、仁科翼ってそういえばこんな喋り方する人だったなあと、声色まで悔しいほど鮮明に脳内で再生された。



「仁科くんって悩みとかあるのかな」


あれはたしか、体育の合同授業があった日のことだ。その日はユウナが体調を崩して休んでいて、あたしと絢莉はふたりで体育館の隅に体育座りをしながら男子のバスケの試合を眺めていた。

仁科くんの華麗なスリーポイントにまわりからは黄色い歓声が沸き上がったり、Tシャツの裾で汗を拭く姿すらさまになっていたり。こんな体育の授業ですら、仁科くんにはいつだって光が集まっていて、あたしのような人にとってはとても眩しく、時々鬱陶しいものでもあった。


仁科くんって悩みとかあるのかな。絢莉がふとこぼした疑問に、あたしは野暮なことに「え?」と聞き返してしまった。彼女の口か仁科くんの名前が出ることなんてこれまで一度だってなかったから、脳が追い付いていなかった。
絢莉の瞳はまっすぐ仁科くんを映し出している。絢莉の雰囲気がいつもと少し違うように思えたのは勘違いではなかったと、今なら自信を持って言えるだろう。


「……なんで急に仁科くんの話?」
「や、……深い意味はないんだけどさ。ただなんとなく、うん」
絢莉が鼻の先を小さく搔いて言う。なんとなく、なんて嘘だ。絢莉はよくも悪くも人に興味を持たないから、特定の人間のことを話題にだすことはほとんどない。
「……うーん。まあ、悩みとかはなさそうに見えるけど。人生ガチャ成功してるでしょ、あの人」
「だよねぇ……」


絢莉の嘘には気づいていないふりをして、あたしが感じている仁科くんの印象伝えると、絢莉は耽るように息を吐いた。どういうため息だったのか、意味までは理解できなかった。

仁科くんとなにか接点があったのだろうか? 彼の悩みが気になるほど会話を交わしたのだろうか。彼が持つ、絢莉が気になってしまうほどの特徴ってなんだろう。

長年一緒にいて初めて知る絢莉の雰囲気に、あたしは何故か少しの焦燥に駆られていた。


「もしかして絢莉って、仁科くんみたいな人がタイプ?」
「え。や、全然」
「そう? 好きになっちゃったのかと思った」


あたしたちは同じ性別だから、こんなふうに突然恋愛の話題を振っても気持ちを疑われる可能性はない。こうして普通のふりをして、他人事のように扱うのがいちばん効率が良いのだ。多少の地雷は、慣れがどうにかしてくれる。


「……いやいや。そんなわけないじゃん。話したこともないし」
「ホントに?」
「はあもう、そう言われたら突然仁科くんの笑顔嘘くさくみえてきたんだけど」
「王子スマイルですからあれは。ほら絢莉、仁科くんシュート決めた」
「えーかっこいいー好きになっちゃうー」
「棒読みで草」


ふざけて笑い合っていたところでピーッと笛を鳴らされ、「そこ、ふざけなーい」と先生からゆるい注意を受ける。周りの視線が集まって、あたしたちは恥ずかしさから逃げるように「スミマセン」と絶対聞こえていない声量で謝った。絢莉がくすくすと肩をゆらして笑っている。

百々子(ももこ)のせいで怒られた」
「仁科くんファンの声援のがうるさいですって言えばよかったね」
「やば。喧嘩じゃん」
「あたしらのことも応援してほしいんですけどって」
「わははっ、なんですぎる流石に。その応援要らないでしょ」


話題はいつの間にか逸れて、そうしているうちに体育の授業は終わった。
感じていた焦燥感は姿を消していて、その日どうして突然彼女の口から仁科くんの名前が出たのかはわからないまま時間は過ぎていった。



それ以降、全国ニュースで見かけるまであたしたちの間で仁科くんの話題が出ることは一度もなかった。
たった一回、絢莉が仁科くんの名前をこぼしたあの瞬間、隣にいたのがあたしで良かったと、そんな小さな優越感はいつまでも残って消えないままだ。


たったそれだけの出来事が、あたしにとってはもうずっと宝物みたいに大切で、忘れることができない。



「いい話じゃん。青春の一ページって感じ」
「どこがだよ。あたしの生涯独身決まっただけの話じゃん」


笑ってそう言ったシロに本日二度目の舌打ちをかます。
こんな思い出、持っていたところで何の利益にもならない。まともなふりをして普通に歩幅を合わせていかないと、多数派が正義とされる世界には溶け込めないから。



「で? そのニュースと、モモの好きな子が遠のいていくのってなんで関係してるってわかんの?」
「わかんない。……でも、なんかわかるっていうか」
「はあ?」


意味が分からないと言いたげな表情でシロが聞き返す。

真相はわからない。思い込みかもしれない。それでも、仁科くんのニュースを聞いてからというもの、絢莉は少し変なのだ。


彼女は嘘がとても下手だ。新くんが絢莉を訪ねてきたことも含め、やはり仁科くんと絢莉の間には何かがあったのだと思う。けれどそれは、彼が消えたというニュースのように共有されることはなくて、毎日少しずつ雰囲気が変わっていく彼女を、私は何も言わず見つめることしかできない。

前に進んでいるように感じるのはどうか気のせいであってほしい。私を置いていかないで。そんな情けない思いだけが、あたしにまとわりついている。


「……絢莉は仁科くんのことが好きだったんだと思うの」
「根拠は?」
「仁科くんの日記に絢莉の名前があったっていうし、弟が直接訪ねてくるくらいだもん、深いかかわりがあったんだよ」
「じゃあそれは仁科って奴からその子に向けた気持ちなんじゃね?」
「それもあるかもだけど、それだけじゃなかった。見てたらなんとなくわかる」
「会話しないとわかんないこともあるだろ……」
「ちがうんだよ、シロ」
「ちがうって何が」
「女だから、わかるの。男女でわかりあえないことも同じ性別だから共感できる。恋って感情、いちばんわかりやすいよ」


ずっと見ていた。好きだった。彼女と、同じ温度で恋をしたかった。
けれどそう思う以前に、あたしたちは女の子同士で、幼なじみで、友達だ。


「生理痛がどんだけしんどいかわかる? すっぴんも化粧もそう変わんないって言われるのがどんだけムカつくか知ってる? 男が鈍感って、ホントそうだと思う。性別違ったら女心がわかんなくてもしょうがないんだろうけど」
「あー……」
「詳しいことは何もわかんないけどさ。絢莉が仁科くんのニュースをきっかけに少しずつ前向きになっているのだけは感じるの……すごい寂しいよ」


好きな人と同じ性別に生まれたことを後悔してるわけじゃない。
好きな人の、友達の、力になれなかったことが寂しくて悔しいのだ。


「あたしのほうがずっと絢莉と一緒にいたのに。変わろうとしてる瞬間、隣にいるのがあたしじゃないって悲しいじゃん。しかも生きてるか死んでるかもわかんない人じゃ、踏み込むこともできない」
「うん」
「でもさぁ、わかるんだよね。───仁科くんのこと気になっちゃう絢莉の気持ちも」


一度だけ、仁科くんとふたりで話をしたことがある。

中学三年生、卒業式が迫る冬の日のことだった。


「待つの飽きたら先行ってて」
「ううん。待ってるよ」
「あんた良い女すぎ」
「あーうんうん、よく言われる。百々子に」
「ちなみにあたし本気で言ってるけどね?」


その日、あたしたちはユウナの付き添いでバンドのライブに行く予定があった。

あたしは委員会の集まりで急遽呼ばれてしまったので、物販に並びたいというユウナを優先し、「遅れていく」と伝えたところ、絢莉が「あたし待ってる」と言い出した。
絢莉は、自分がされて嫌なことを人には絶対にしない。だからきっと、絢莉があたしの立場になった時に置いて行かれるのが嫌だからそう提案してくれたんだろうなということはなんとなく察した。

絢莉の優しさは、絢莉のためのもの。彼女に限ったことじゃない。自分がされてうれしいことを他人にするのは一種の見返りだから。

わかった上で、あたしは彼女の優しさに触れるのが好きだった。

委員会を終えて教室に戻ると、絢莉は机に突っ伏して眠っていた。彼女は授業中もよく寝る人だから、待っている間に襲いかかってきた睡魔に勝てなかったのだろう。
静かな教室に、絢莉の寝息とあたしの心臓の音が響いている。愛おしさがこみあげて、泣きそうになった。


好きだ、一緒にいたい、もっと近くで触れ合いたい。

すやすやと眠る彼女の髪に手を伸ばし、触れる。
───そのタイミングでのことだった。


「……あ」


教室のドアが開き、あたしはハッとしたように腕をひっこめる。視線を向けるとそこには仁科くんがいて、彼は気まずそうに目を逸らすわけでも、揶揄うわけでもなく、表情を変えずに「邪魔してごめんね」とだけ言った。

邪魔してごめんね。その言葉に、あたしの全部が露呈したような気がした。

絢莉に触れようとしているところを見られてしまった。友達になにしてんの。同性なのに気持ち悪い。表情に出していないだけで、そう思われてたのかもしれない。
違うって言わなきゃ。髪にゴミがついていたとか、言い訳なんて簡単に思いつくのに、喉の奥でつっかえて、否定の言葉はひとつも出てこなかった。
仁科くんは自分の席に向かうと、机の中から忘れたであろう本を取り出し、「じゃ、また明日ね」と何事もなかったかのようにそう言った。


「ま、待って、仁科くん」


仁科くんはきっと、言いふらすような人じゃない。そんな子供じみたことはしない人だとことくらいわかっているのに、どうしても不安は消えてくれなくて、あたしは彼を呼び止めた。掠れた、弱弱しい声だった。


「……あたしだけだから」
「あたしだけ?」
「おかしいの、あたしだけだから。絢莉は普通なの。だから……、だから」


絶対に誰かに言わないでほしい。あたしと絢莉をひとつに括らないでほしい。
普通じゃないのはあたしだけだ。同性の友達に恋してしまうのはおかしなことで、気持ち悪いことで、それで。


「それ、『他の人と違うあたしは可哀想です』っていうマウント?」


上手に言葉に起こせずにいたあたしに被せるように仁科くんが言う。


「……は?」
「本当はそんな自分に甘えてるだけじゃない? 普通とか普通じゃないとか、そうやって線引きするのってさ、結局誰が得するんだろって俺は思うけど」


彼はあたしを気持ち悪いとは言わなかった。けれど、甘えていると言った。


「あんまり自惚れないほういいんじゃない? いちばん自分を可哀そうにしてるのは自分自身だったりするだろうし。知らないけど」
「……なにそれ、急に説教?」
「や、べつに。知らないけどって言ったじゃん、俺に関係ないことだし。でもまあ、自分だけがおかしいとか自惚れすぎかなっては思ったけど」


意味がわからなかった、というより、その瞬間のあたしは怒りが勝っていて、仁科くんの言葉をわかりたくもなかったのだと思う。「うざい」と言うと、「可哀想ぶってる永田さんもうざいよ」と言われる。こんな小競り合いしたって何の意味もないのに、どうにも腹が立って舌打ちがこぼれる。


「これ、永田さんにあげるよ」


唐突に、仁科くんは先程机の中から取り出した本をあたしに差し出した。意味がわからず「はあ?」と眉を顰めると、「中古嫌な人?」と聞かれた。中古か新品かなんてどうでもよかった。重要なのはそこじゃない。今の流れで突然本をすすめてきた仁科くんの心理が気になって仕方ない。


「いや、ほら。秘密を共有してもらったからさ。なにかひとつ俺も共有しないと対等にならないなって」
「秘密っていうか一方的に知られただけだし。……ていうかべつに大したことじゃないじゃん、仁科くんにとっては」
「俺にとってはね。でも永田さんにとっては大したことだったでしょ?」
仁科くんにとっては大したことじゃなかった。けれど、あたしにとっては大したことだった。あたりまえのように言われたそれに、どうしてか泣きそうになった。
「この本、誰にもおすすめしたことないんだけど、俺は結構気に入ってるんだよね。気が向いたら読んでみて」
「……仁科くん、イメージしてた人と違うんだけど」
「そう? 永田さんもじゃない?」
「はあ? どこが。てかどんなイメージ持ってたわけ?」
「なんか思ってたよりめんどくさそうっていうか。もっとさばさばしてるのかと思ってたから」
「……さっきからなんなの? 悪口ばっかりじゃん」
「そのまま返すよ」
「うっざぁ……」
「本の感想、いつか教えてね」


仁科くんは不思議な人だった。そして、彼の発言ひとつひとつが鼻に付いた。けれど、クラスで全員に笑いかけている彼よりずっと身近に感じたのも確かだった。


「んー……」

仁科くんが帰ってから数分後、絢莉が目を覚ました。ごしごしと目を擦る仕草がかわいかった。

「……絢莉、おはよ」
「……どした? 顔怖いよ」
「や、べつに。ちょっとむかついただけ」
「むかついた?」
「そーそ。絢莉がぐっすり寝てるから」
「えぇえごめん……」
「ふは、冗談。はやく帰ろ」


困った顔をする絢莉に笑いかけて、あたしは鞄を持った。仁科くんに言われた、「思ったよりめんどくさそう」というところは、悔しいけどちょっとだけ自覚があった。



仁科くんに成り行きでもらった本は数日で読み終えた。しかしながら、なにがどう面白いのかわからず、無駄な時間を割いてしまったとすら思った。


仁科くんはこれの何を面白いと感じたのだろうか? 素直に面白くないと言えたらよかったのに、「これが面白くないなんてまだまだだね」とバカにされそうな気がして、言えなかった。人気者である彼の感性に追いつけないことが、ただ悔しかった。

結局感想は言えないまま卒業式を迎え、彼とはそれっきり会わなくなった。




「その本全然面白くないっておもろすぎるだろ。俺この話大好き」
「胸糞悪いだけだよこっちは。大して仲良くない人に説教されて、かと思ったら意味わかんない本貰ってさぁ。なんだったのホント。今思い返しても意味わかんないもん」
「だはっ、ごめんけどまじでおもろい」


途中まで時々相槌を打ちながら聞いてくれていたくせに、最後の最後でお腹を抱えて笑うシロ。あんまりげらげら笑うから、つられてあたしも笑ってしまった。一通り笑ったあと、「でもまあ」とシロが再び口を開く。


「わからんでもないんだよな、その人の言ってること」
「は? なにが?」
「自分だけがおかしいなんて自惚れすぎだってこと」
「はあ?」


シロが同意するとは思わなかった。睨む勢いで視線を向ければ、「すぐ怒んなよ」と笑われる。あたしが本当は口が悪くて短気であることを、この男は知っている。


「つまりさ、逆も然りってことじゃん。モモにとっては大したことないことがそいつにとっては大したことだったのかもしれんし」
「例えば?」
「いやそんなん知らんわ。本人に聞けよ」
「ヴー……」
「言い返せなくなったからって唸んなよ。近所の犬かお前」


シロはいつも適当なことばかり言う。あたしにとっては大したことなくて、彼にとって大したことあることが何か、なんて知ったこっちゃない。
仁科くんがいなくなったせいで絢莉にも踏み込めなくて困っているという話をしたばかりなのに、本人に聞けなんてひどい話だ。


「生きてればいいな。その、仁科って人」


それなのに、他人事のようにシロが言ったそれがちょうど良いのは何故だろう。


「俺はたかがネットで知り合った人間だし、女の子の痛みもしんどさもわかんないけど。でもさ、俺とモモでしか共有できないこともあるわけだろ」
「……そうだけどさぁ」
「モモが好きな子に言えない気持ちは俺がちゃんと聞いてるし、俺がわかんない女の子の話は好きな子がわかってくれる。きっと他の人もそうやってさ、バランスとって生きてんだろうな。知らんけど」


あたしが、女の子じゃなかったら。
絢莉を好きだと自覚してから、何度そう思ったかわからない。同じ性別じゃなかったら、あたしはとっくに彼女に気持ちを伝えることができていたし、恋人という関係性でそばにいる可能性だってきっとあった。理由がなくても手をつないで、同じ温もりを共有できたかもしれない。

だけど、あたしが普通の女の子だったら。
そうしたら多分、今とは違う悩みを抱えて生きていた。あたしと絢莉とユウナが一緒の高校に行く可能性だってなかったかもしれない。


───それに。


「前向きに変わっていってるって思うなら、追いかけてその変化に気付いてあげればいいんだよ。そのほうがモモの生き方に合ってるじゃねーの? って思う。俺は我慢できなくて好きって言っちゃうけど、モモはそうじゃないから。つか神様呪う前に相談くらいしろよ、俺が寂しいじゃん、友達なのにさぁ」


〝ふつう〟だったら、シロとあたしはきっと出会っていなかった。


「ふは。寂しいとかあたしに感じてどうすんの」
「頼ってもらえないってな、意外とメンブレする」
「へー」
「興味ある? てかちゃんと聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「じゃあ俺が今言ったこと言ってみてよ」
「だっっっっる。キモ、ばか、ろくでなし」
「言いすぎだろうが」


仁科くんが生きているか死んでいるか、あたしは知らない。生死を願うほど関係性でもない。
だけどもし生きていて、もしいつか、彼とまた会うことがあったら。
借りた本、あたしにとっては全然面白くなかったって言ってやるんだ。






「百々子、偶然だ」


どんな偶然か、シロと別れたタイミングで絢莉に会った。


「……彼氏いたんだっけ、百々子って」


帰っていくシロの背中を見つめながら、絢莉が不思議そうに声を落とす。


「やだ、友達だよ」
「なんだぁ、そっか。や、なんか、邪魔しちゃ悪いかなあって思って一緒にいる時に声かけられなかった」


邪魔なんて思うはずがない。だって、絢莉と話す時間はあたしにとっての生きがいなんだ。
あたしがそんなことを思っているなんて、絢莉は一ミリも疑わないんだろうけど。


「百々子に彼氏いたら、ちょっと寂しいね」
「なーにそれ」
「だってちっちゃい頃からずっと一緒にいるんだよ? 実家出て一人暮らし始めるくらいの感覚じゃん」
「いや絶対そっちのが寂しいわ、あたしママ大好きだもん」
「そうかもしんないけどさー……」
だけどもう良い。あたしが絢莉をどんなふうに好きかとか、どのくらい好きとか、そんなのどうでもいいのだ。
「大丈夫よ。あたし、あんたが思ってる以上に絢莉のこと好きだから」
「やだイケメン!」



あたしが絢莉のこと好きだって、あんたにちゃんと伝わってれば、それでいい。



「あ、(セキ)くんちょっと」


前までなら二十時には帰れたのに、もう二十二時すぎ。吐きそうなくらい疲れた。

なのに、だ。タイムカードを切ってすぐに着替えを終え、早々に店を出ようとした俺を店長が呼び止めた。用事があるならタイムカード切る前に言えよ、なんて思いながら、「なんすか」と雑に返事をして振り返る。

店長は話が長いから、今から十分、俺はタダ働きをすることになるのだろう。最悪だ。


「今日みたいに混んでる日は関くんがもっと指示出してくれないと。鈴木さんはまだレジ危ういでしょ? そこらへんもっと周り見てフォローしてあげてほしいんだよねぇ」
「はあ、でも鈴木さんってもう入って二か月くらい経ちません? レジいい加減覚えてもらわないとじゃないですか?」
「今時強く言って辞められてもこっちに非がでるからさぁ……。それは避けたいっていうかさ、ね。わかるでしょ?」


わかるでしょ? ってなんだ。それがあたりまえみたいに苦笑いを浮かべて言う店長に睨みをきかせるも「まあまあ、気持ちはもちろんわかるよ」と言われるだけで効果なし。心のこもってない謝罪をされ、苛立ちが募った。


自宅から徒歩圏内にあるファミレスをバイト先に選んだのは、単純に家から近いからである。
この店の料理で何が好きとか、飲食店で働いてみたかったとか、そういう動機は一切なくて、高校生を雇ってくれて、家から近くて、時給がそこそこ良ければどこでも良かったのだ。それがたまたまこの店だったというだけで。


働き始めたのは高校二年生の時なので、早一年が経つ。

仕事がつらいのか店長がムカつくのかパートのババアがうるさいのか、原因は詳しく知らないけれど、この店のアルバイトはすぐに辞める傾向があった。
半年いたら上等。つまり一年いる俺は、結構やる男ってわけだ。


二か月前に新しく入って来た鈴木さん。歳は俺の一つ下で、よく言えば大人しくて優しそう、悪く言えばちょっととろくて使えなさそうな女子高生。

入って一か月もすればだいたい覚えられることをまだ覚えていないので、正直一緒に仕事をするのは少し億劫だった。


やめられたら困るからってなんだよ。

俺が入りたての頃は、お辞儀の角度がどうとか、接客の愛想が悪いとか、そもそも目つきが悪いだとか、そんな細かいところまでパートのババアに注意されていた。

あれもこれも文句ばかり言われるものだから、辞めてやろうかと何度も思ったけれど、それでも辞めなかったのは俺の根が真面目だからなのか? 



今となっては過去のことに過ぎないが、とは言え女の子だから無条件で優しくされるってそんなんずるくねえ? とか思ってしまうわけで、俺は店長に見せつけるようにため息を吐いた。

元はと言えば鈴木さんが問題視されていることなのに、なんで俺が個別に注意されなきゃいけないんだよ。


自分で言えないからってバイトの俺に頼む店長も、こういう時こそ出番なはずなのに、ぎっくり腰になったとかで休養しているパートのババアも、仕事ができない鈴木さんも、全部むかついて仕方ない。


給料が発生しない十分で話される内容がこれだと、やっぱり世の中理不尽でできてるんだよなぁ、と嫌でもわからされてしまうのだ。


「ああ、あと新しい子もひとり採ったんだよね。関くんに指導お願いしようと思ってるから、よろしく」
「えー……はあ、わかりました」
「じゃ、お疲れ様」


なんで今更俺なんだ。

俺は、できるだけ責任なんて負わずに、ラクに、適当に、そこそこ生きていたかったのに。



「仁科くんいなくなっちゃったから。頼れるの関くんしかいないんだよ」



ああもう。どれもこれもあいつが──仁科翼が、突然辞めたせいだ。