きみとこの世界をぬけだして




帰宅した後、私は義務のような感覚でクローゼットの奥から卒業アルバム引っ張りだした。

三年前のことを思いだすには、あまりにも材料が足りない。卒業アルバムなんて、何年か経って、ふざけて友達同士で見返すくらいで、全校生徒が平等に映るように計算されたそれらを見返す機会はめったにない。実際、私がこのアルバムを手に取ったのは三年ぶりのことだった。

各クラスの個人写真からはじまり、学年やイベントごとに写真が記録されている。
高校生になってから伸ばすようになったモモコの髪が、この時はまだ短かったなあとか、ユウナはよくスカートを短くして生徒指導の先生に怒られていたなぁとか。写真は静止画だけど、当時の気持ちまで鮮明によみがえらせる特殊な力がある。

懐かしさに浸りはじめていた時、ふと、一枚の写真が目に留まった。

三年生の時の体育祭の写真で、ページの端の方に小さく抜き出されているものだ。青いハチマキを巻いて、美しいフォームで走る仁科くんの姿に、当時の気持ちが思い起こされる。

思い返せばあの日は、仁科くんが走る姿はあまりにもかっこよくて、きらめいて見えた日だ。


その写真に写る仁科くんは、風の抵抗で額が見えていた。
こめかみのあたりに、ふたつ連なった黒子がある。それは、本人に気づかれないように遠目から見つめるだけじゃ気づけなかったもの。

双子の黒子を見つけた瞬間、当時の私が隠してきた───敢えてそうしてきた気持ちが露呈したような気がした。抱えきれなくなった感情が次次にあふれ出す。


「……ホントに同じだったんじゃん、私たち」


ぼろぼろとこぼれる涙を拭い、その流れで自分のこめかみに触れる。
そこにある、双子の黒子。写真に写る仁科くんとおそろいのそれに、愛おしさがこみ上げた。


仁科くんに、私と同じ位置に黒子があったなんて知らなかった。

遠くからじゃなくて、その黒子にもっと早く気づけるくらい、近くで君を知りたかった。

思い返せば。そういえば。そんな言葉をつけるだけで簡単に思い出すことができる記憶は、本当はちゃんと覚えていることなのだと思う。都合が悪いから、忘れたふりをしているだけだ。


私はいつもそうだ。ユウナから教えてもらった音楽が本当はとても好みだったことも、仁科くんに特別な感情を抱いていたことも、都合が悪いから忘れたふりをして生きてきた。

わざわざ思い返さなくたって、ちゃんと気づいていた。


好きだったのだ、君のことが。
確かにあの時、私は仁科くんに恋をしていた。


どうして今更気づいてしまったんだろう。時々息苦しくなるくらい小さな町で、「好き」のたった二文字すら届けられなくなる前に、どうして気づけなかったんだろう。

いや、今だから、気づけたのかもしれない。



「……ずるいよ、仁科くん」



好きだ。君のことがもっと知りたい。生きていてほしい。
私は、まだ君に何も言えていないから。

変わりたい、変われない。────変われるだろうか、今からでも。

それでいつか、私が私の人生を愛おしく感じるようになれたら。




翌日。学校に行くのは、ほんの少し億劫だった。ユウナとモモコに、新くんと交わした会話のうち、どこを切り取って説明すれば良いのかわからず、昨晩はうまく眠れなかった。誤魔化そうかとも考えたが、仁科くんのニュースは一度私たちの間で話題にあがっていたからこそ、双子の弟である新くんが接触してきた事実を、「無関係です」で済ませられるとは思えなかった。
なにより、仁科くんのことを無関係だなんて言いたくなかったのだ。


登校すると、いつも通りユウナとモモコが私の席を囲うようにして話をしていた。私の存在に気付いたユウナが、「あやちゃんおはよぉ」とゆったりとした口調で話しかけてきた。隣にいたモモコが続けて「おはよー」と言う。


「あやちゃん昨日のドラマみた?」
「ドラマ……あ、見てない」
「そっかぁ。あたし録画し忘れちゃったんだよねぇ。やっぱサブスク入ろうかなあ。入るならどれがいいんだろうね? あやちゃんどう思うー?」
「ど、どうだろう……」
「なんでも絢莉に聞いて決めようとするのやめなよ」
「だってモモちゃん、サブスクっていろいろあんの! あやちゃん前に何個か入ってるって言ってたから参考にしたいじゃん!」


いつもと変わらないふたりに、私は動揺していた。聞かれるものだと思っていたから、あまりにもいつも通りすぎる様子についていけていなかった。リュックをおろし、さび付いた椅子を引いて座る。

「……あのさ」と控えめに口を開くと、ふたりはサブスクをめぐる言い合いをやめて私を見た。
「ふたりとも……気にならないの? 昨日のこと」


自分から話をぶり返すのはどうかと思ったが、このまま何もなかったかのように接するのは誠実じゃないような気がした。
私の質問に、ユウナは少し考える仕草を見せ、それから答え始めた。

「気にならないかって言われたらそりゃ気になるけどぉ……あやちゃんが言いたくないことなら聞くつもりないよ。中学の時からあやちゃんって秘密主義だし。それに、あたしみたいな適当人間がまともに力になれるとも思ってなかったから。代わりに少しでも気が紛れたらいいなって思ってさ、いつもいっぱい話しかけちゃうんだよねえ」
「……そうだったの?」
「逆に空気読めてなくてモモちゃんには怒られちゃうけどねっ」


全然知らなかったことだ。ユウナのことを、私はよく知ろうとしないまま勝手に決めつけていた。
言葉を交わさないと分かり合えないことがある。

思い込みで、他人のことを分かった気になってしまうことがある。
自分だけが負担を抱えていると思っていたことは、蓋を開けてみれば、意外とお互い様だったりもする。


私たちが息をしているのは小さくて窮屈なところで、時々息苦しくて逃げ出してしまいそうになるけれど、だからこそ、深まる出来事がきっとあるから。


「……ユウナのおすすめのバンド、もっとたくさん教えてほしい」
「え! もちろんだよ! あやちゃんが好きそうなのいっぱいメモしてるんだから!」



全てをわかりあえない私たちは、妥協と本音で息をする。



『今日の空、綺麗だよね。収めておきたいって思うの、わかるよ』

どこかで、シャッターをきる音が聞こえた。












それから二日後、ラインの通知が鳴った。

宛名は、仁科翼だった。




金曜ロードショーで、日本中が共感し、泣いたと当時爆発的に話題になっていた映画がやるらしい。

ふたつ上の姉は、風呂からあがった足で冷凍庫からアイスを取り出し、それを咥えるとソファを陣取った。先に座っていたのは僕なのに、そんなことはおかまいなしにど真ん中に座る姉の心情が知りたい。毎度のことなので、僕は何も言わずソファの端に座りなおした。

姉が、まだ濡れた髪をバスタオルで雑に搔きながらテレビの音量を三あげる。「あと二分だったあぶな!」と、彼女のでかいひとりごとには触れず、僕は麦茶を啜った。


「ねえお母さん、これって録画してないんだっけ」
「してないよ。お父さんが見たいって言ってたほう録ってるから」
「お父さん見たいのってなにさ」
「ラグビーよ、いつもの。フランス戦は見逃せないんだってさ」
「なにそれー……他に誰が見るわけ? 相手がフランスだからなんだってのよ」


父はまだ帰ってきていなかった。通常であればだいたいこの時間は帰宅しているけれど、最近は上司がひとり休職したらしく、引き継ぎ業務などが立て込んでいて残業が続いているそうだ。
僕もこのまま普通に生きていったら、何年後かに父のように残業に追われているのかと思うとぞっとする。


「あーもう。容量の無駄遣いじゃん」


姉の低い声がこぼれる。父自身、仕事の有無に関わらず、自分以外にラグビーに興味がある人がいないから、録画したものを休日に一人で見るようにしてくれているというのに、それでもなお容量の無駄遣いだなんて言われるのは少々可哀想だと思う。とはいえ思うだけで、べつに僕が姉にどうこう言うわけでもないのだが。
姉ほどの嫌悪はないけれど、僕も同じで、ラグビーなんて全然わからないし、つまらないだろうから見ようなんて気持ちになったことはない。
そしてそれは、これからもきっと同じだ。
「あ、始まった。静かにしてよ千春(ちはる)
「いちばん喋ってんのは姉ちゃんだと思うんだけど」
「あーはいはいうるさいうるさい、黙れ、しゃべるな」
「なんなの……」


シッシッと手を払う姉を見て、恋人の前じゃ絶対そんなことしないし言わないくせに、と、そんなことを思いながら、僕は姉に敢えて聞こえるようにため息を吐いた。

不仲ではないが、特別仲良くもない。ただ、血が繋がっているから、恋人や友達に見せない部分を少しばかり知っているだけだ。


映画は、ふたりの高校生が自分探しの旅に出るという青春ものだった。言ってしまえばありきたりな展開で、「みんなここで泣くでしょ?」といった作者の思惑が垣間見えて正直あまり楽しめなかった。
映画を見ている間、ふと隣に視線を向けると姉は泣いていた。男女の感覚の違いもあるのかもしれないが、とはいえ姉ちゃんそれじゃ作者の思惑通りだよ、と思った。

それから後の時間はこの映画におけるヒットの理由について考えていたものの、映画が終わる頃には睡魔が顔を出していて、考えたはずのヒットの理由は疎か、後半のエピソードすらもうほとんど思い出せなかった。
映画が終わると、「あーまじ泣いたぁ……」と姉はしみじみ呟きながら部屋へと戻っていった。感想を共有し合う仲ではない。それを僕等はお互いにわかっている。


「千春も金曜だからって調子に乗って朝までゲームするとかやめなさいね。明日お昼からバイトなんでしょ」
「うんー」
「お母さんももう寝るから。お父さん帰ってくるまでチェーン締めちゃだめだよ」
「あいー」


ソファに座ったままくぁ……と欠伸をする僕に、母がそう声を掛ける。母の小言はうるさいけれど、生活に支障が出るほどじゃない。スマホをいじりながら適当に返事をすると、「聞いてないんだから……」と呆れたような独り言が聞こえた。それからすぐ、母も寝室へ行ってしまった。


「続いてのニュースです。B市に住む男子高校生、仁科翼くんの行方がわからなくなっていると、翼くんの母親から警察に通報がありました」


部屋に戻ってゲームでもしようかとソファを立ち上がった時、ふと、そんなニュースが耳に届いた。
次の番組までの繋ぎで放送されるニュースなんてこれまでまともに見たことはなかった。普段は天気予報ですら翌朝には忘れて、母に「今日帰る頃には雨だけど傘持ったの?」と教えてもらうことが圧倒的に多い。そんな僕でもつい意識的に耳を傾けてしまう理由が、ちゃんとあったのだ。



誰もいなくなったリビングに、アナウンサーの無機質な声が響いている。
B市、それは人口二万人の小さな街であり、僕の住む場所でもあった。特別なにか観光できる場所があるわけでも有名人の出身地でもないので、全国ニュースになることなんて滅多にない。

県内の進学校に通う男子生徒───仁科翼の行方がわからなくなっているらしい。

全国ニュースにされるほどのことが、僕の地元で起こっている。テレビには制服を着た綺麗な顔立ちの男子高校生の写真が映っていて、それは何処か、なつかしさを連れていた。


「現在も捜査が続いており、警察は情報提供を呼びかけています。続いてのニュースです。全国各地の餃子が楽しめるイベントが───」


地元の男子高校生が行方不明になっていることと、餃子フェスが盛り上がっていたことが隣り合わせで発信されるような世界線で、僕は生きているらしい。




「ねえアオハルくん、今日なんか目赤くない? やっぱりあの映画泣けた?」


翌日のバイト中。昼時のピークを終え、店内に落ち着きが戻って来た頃、バイト先の先輩であるシマさんは、充血した僕の目を見てそう言った。


金曜ロードショーで昨日見た映画がやるらしい、と教えてくれたのはシマさんだ。自分は見る気がないから見たら感想を教えて、と言われたのが経緯である。


「いや、この充血は今朝なかなかコンタクトが入らなかったせいです。ちなみにあの映画、僕は全然泣きませんでした」
「まじか、ホントに人間?」
「〝日本中が泣いた〟とか〝共感した〟とか、あんなんただの視聴者釣りだと思いますよ。実際、日本中が泣いたとか言っておいて僕は泣かなかったし」
「夢がないなあ」
「てか文句言うなら自分で見てくださいよ……」


けらけらと笑うシマさんに冷めた視線を向けながら、僕はグラスの水滴やこぼれたドレッシングで汚れたテーブルを拭く。
自宅から十五分ほど電車に揺られて着いた駅からさらに五分ほど歩いたところにある、こぢんまりとしたカフェバー。僕がここをバイト先に選んだことに大した理由はなかった。ただ、自宅と学校のちょうど中間に位置する場所で、働いている人が少なそうで、時給が高くて、賄いがつくという好条件だったから、というだけ。
合わなかったらすぐに辞めようと思っていたが、運が良いことに店長や他のバイトの人たちの人柄が良く、人との関わりを多く求めない僕でも程よく馴染める場所だったので、今に至る。


「でもなんかアオハルくんらしいや。視聴者釣りとか」
「実際事実じゃないですか?」
「じゃああの〝日本中が共感した〟ってやつ、アオハルくんが制作側だったとしたらどう考える?」
「えー……〝共感できる人もいる!〟とか」
「わはっ、素直すぎて清々しい!」


素直、というか、事実を述べただけなのだが。シマさんが手を叩いて笑うから、だんだん恥ずかしくなって「そんな笑うポイントないですよ……」と小さく呟いた。素直すぎて清々しいのは、ある意味シマさんも然りだ。


カランカラン……と入り口のベルが鳴り、二人組の女性が店内に入って来た。


「あ。いらっしゃいませ、こんにちは。お久しぶりですねぇ」
「そうなんですよ、最近忙しくてランチどこにも行けなくて」
「うわー、いつもご苦労さまです。窓際のお席、空いてますのでどうぞ」
「ありがとうございます」


シマさんが柔らかな笑顔で話をしている。ふたりの女性はこの店の常連で、月に数回ピークを終えた時間帯にランチを食べにやってくる。最近見かけないなと思ってはいたが、聞く限り仕事が多忙だったみたいだ。

会話を交わしながらふたりを席に案内するシマさんの姿を見つめながら、やっぱりシマさんは接客業に向いていると実感した。
今日に限ったことじゃない。頻度が稀だとしても何度か来たことのあるお客さんには「いつもありがとうございます」と言うし、アレルギーを持っているお客さんには聞かれる前に具材の説明をしたりする。ちょっとした会話を繋げて広げるのも上手だと思う。
容姿も整っているから、男女問わずシマさんと話したくてカウンターに座る常連さんも一定数いるみたいだ。

僕には到底真似できない接客術をたくさん持っていて、僕はシマさんのことを尊敬していた。それは他の従業員も同じなようで、つまるところシマさんは、周りからとても好かれてて必要とされている人気者、というわけである。




「あ。アオハルくん」


その日は、退勤時間がシマさんと同じだった。バックヤードで、僕より一足先に着替えを終えたシマさんが何かを思い出したように開口する。名前が青砥(あおと)千春だから、最初と最後の文字をとって「アオハルくん」らしい。

ひとりでいるほうが楽だと感じるようになったのはいつからか。

学校という窮屈な箱の中で、下品な話で盛り上がる同性も恋愛感情に侵されて周りが見えなくなる異性も、僕にとってはあまりに面倒で、無理をしてまで友達になりたい人達ではなかった。
ずっとそんな気持ちを抱えて生きてきたので、僕に友達と呼べる人はいなかったが、その事実を寂しいと思ったことすらなかった。

青春なんてものとはかけ離れた生き方をしている僕に青春を匂わせるあだ名をつけるなんて、皮肉にもほどがある。

最初の頃は「その呼び方やめてくださいよ」「なんでぇ、いいじゃん」「煽りにしか聞こえない」「煽ってるから間違いじゃないよ」「人としてどうかと思いますが」などというお決まりのやりとりがあったけれど、それもいつの間にかしなくなった。

日々は、僕等のあたりまえを肯定するために過ぎていく。


「昨日ニュースで見たんだけど、高校生の男の子がいなくなった事件って、アオハルくんの地元じゃなかった?」
「……あぁ、はい」
「今日電車乗る時、警察が聞き込みしてたの。私の最寄りでそうだったから、アオハルくんのところとかもっとすごいのかなって。ごめん、これはただの好奇心だから答えなくてもいいんだけどさ」


シマさんはまっすぐな人だ。どういう気持ちで言葉を紡いだのかを教えてくれるから、踏み込まれても嫌な気がしない。べつに気にしないですよと言うと、シマさんはありがとうと言った。感謝されるほどのことはしていないのに、そういうところが彼女はとても律義だと思う。


「仁科翼って、僕の同級生だったんですよね」
「え、そうなんだ?」
「でも、仲良かったとかそういうんじゃないので。ただ通ってた中学が同じだったってだけですよ。名前すら呼んだことないくらいの関係です」


県内じゃ有名な進学校に通う男子高校生が行方をくらましたというニュース。昨日、金曜ロードショーが終わったあとに偶然耳に留まった、あれだ。


行方不明になった仁科翼という人間は、中学校の同級生だった。
警察は近隣住民への情報提供を呼び掛けていて、シマさんの言う通り、僕の地元では駅だけにとどまらず街を歩く市民に声をかける警察の姿を見た。生憎僕は目が合う前に人の波に紛れて駅に向かい逃げるように電車に乗ったから、警察につかまって時間をロスすることはなく出勤できたわけだが。そのことを伝えると、シマさんはきみらしいねと言った。


「……なんか、意外だったんですよねぇ」


彼が消えた、と聞いて、僕が抱いた感情はそれだった。
行方不明になった理由は明確ではないが、何らかの事件に巻き込まれた可能性もあるらしい。昨晩そのニュースを見てから僕はどうにも真相が気になってしまい、ネットで同じニュースを検索をしてみたところ、「自殺もフツーにありえそう」「今時の若者は弱い」とか、一部ではそのような意見が飛び交っていることも知った。

けれど、あの仁科翼に自ら命を絶つという可能性が加えられていることが、僕にはまるで想像ができなかった。


「意外って?」
「なんていうか、仁科はいわゆる光属性ってやつだったから」


僕が知っている仁科翼は、勉強も運動もよくできて、愛想も持ち合わせていて、誰とでも平等に関わることができる、なおかつルックスも良いといった具合に、とにかくすべてを兼ね揃えた完璧人間だった。

とはいえ、目立ちたがり屋だとか仕切りたがりだとかそういう一面はなく、ただ単に平均以上の才能や愛嬌があり、誠実そうなオーラもあった。
こう言ったら失礼なのかもしれないが、彼のことをよく知らない僕からしてみても仁科は悩みなんてなさそうに見えたし、日々を充実している人なのだと思っていた。
生きることそのものを生きがいを感じていそうなタイプだ。人付き合いを面倒くさがってひとりになりたがる僕とは、どう頑張っても交わらない。


「光属性かぁ」
「え?」
「ねえアオハルくん。それはきみと、きみと同じ考えを持つ人の意見ってだけじゃないのかなあ」


シマさんが言葉を落とす。そこにどんな感情が込められていたのか僕にはわかりそうになかったが、いつもより幾分か彼女の声色は冷えていた、ような気がした。



「きみは同級生くんとは仲良くなかったんだよね。ただの同級生ってだけで」
「え? ああ、それはまあ」
「じゃあ何を根拠に同級生くんが自殺なんかしないって思ったの? 彼がいなくなってそれを意外だと思ったのはどうして? 光属性って、誰が最初にそう言ったんだろうね。それなのにアオハルくんの中で彼はもう死んだことになってるのはどうして? 行方不明と死は同じじゃないと思うんだけど」


シマさんの怒涛の問いかけに僕は口を噤んだ。シマさんよりかはまだ僕のほうが仁科のことを知っているはずなのに、彼女の言い分を否定するだけの思考を、僕は持ち合わせていなかった。


ニュースを聞いて意外だと思った。僕の知る仁科翼がそんなことをするような人に思えなかったからだ。

楽しく人生を謳歌しているくせに死にたくなるような悩み事を抱えているなんてありえない。何でも持っていたくせに、捨てたくなるような自分を隠していたなんて、仁科に限ってあるはずがない。


仁科翼は消えた。彼の生死に関する真実は、誰も知らない。

けれど僕は、仁科は死んだのではないかと思い込んでいる。警察が自殺の可能性も視野に入れているとニュースで言っていたからだ。いちばん最初に目や耳に入った情報を正解だと思い込んでしまう。大体の人間に、そういう傾向があると思う。そしてそれは、僕も然りだ。


「同級生くんが零から百までアオハルくんや周りが思うような人だったっていう保証、どこにもないよね。彼がいなくなったのが事件なのか事故なのか故意なのかすらなんにもわかってないんでしょ」
「それはそうですけど……」
「ね。だから、憶測で人のことを勝手に決めつけるのは、想像力に欠けると思うな」


シマさんの言ったそれは他人事のようで、だけど一概にそうとも言い切れないような、意味をたくさん含んだ言葉だった。


「ちょっとだけ、関係ない話してもいい?」


何も言えずにいた僕に、彼女は静かに語り掛ける。


「人にわかってもらえないってねえ、思ってる何倍もつらいことなんだよ。最初は頑張るんだけどさ、だんだん受け入れてもらうことを諦めて、周りの〝普通〟に合わせるのが癖になっていく。自分が勝手にやってることだってわかってても、時々苦しくてどうにもできない時もあるの。なーんでこんなに生きづらいんだろうねえ……」

何かを思い返すようにシマさんがぽつぽつと言葉を起こす。想像力に欠ける僕は、彼女の言葉の意味を半分も理解できていなかった。


周りの〝普通〟に合わせることは、そんなに大切なことなのだろうか。

負担になるような人間関係は、生活の邪魔をする。周りに人がいればいるほど悩みは増えて、居心地が悪くなる。だから僕はひとりが好きだし、ひとりでいたいと思う。そのほうが、無理して人と同じ歩幅で歩くよりよっぽど楽に呼吸ができるから。

そうは思っても、シマさんの前でそれをどう言葉に起こしていいかわからない。返事に窮する僕の思考を見透かしたように、彼女はハハ、と小さく笑った。


「言ってる意味がわかんないって顔してるね」
「……いや。すみません」
「いいの、謝ることじゃないから。でも、みんながみんなアオハルくんみたいにひとりを好むわけじゃないからさ。弱さを見せることが苦手なひともいるんだよ。何かしらの理由があって敢えて言わない人とかもいると思うし、そもそも自分の弱さを自覚してない人もきっといる。ひとりになりたくてもなれない人とかもね」


みんな別々の人間だからしょうがないんだけど。そう言ってシマさんが息を吐く。少しの寂しさと諦めを含んだような声色に、どうしてかちくりと胸が痛んだ。


「私だってそうなんだ」
「え?」
「私が大学出てからもここでバイトしてる理由なんて、人にへらへら笑って言えるようなことじゃないし」


僕が知っているシマさんは、要領が良くて、仕事が早くて、ユーモアもあって、容姿も淡麗で。きっとどこに行っても必要とされて、周りにたくさん愛されるような人。
そんな彼女が大学を卒業してからも継続してこの店で働いている理由を、僕は聞いたことがなかった。女性に年齢を聞くよりもずっとずっと触れちゃいけないことのように感じていたのだ。


聞いた話によると、シマさんは就職活動に挫折し、精神的に追い詰められていた時期があったそうだ。
彼女が大学四年生で就職活動の時期であることは周知の事実だったので、しばらく出勤していなくても僕は気にも留めていなかった。
大学を卒業したら就職するのがあたりまえ。家を出て、自立して暮らしていくことが平均的。友人は次から次へと内定が決まり、「シマちゃんはきっと大丈夫だよ!」と無責任な言葉をかけられ、なかな〝大丈夫〟になれない自分には苦しみが募っていった。


世の中が勝手に作り上げた固定概念にとらわれて、思考も身体も自分のものじゃないみたいに感じていたという。
それでも普通に頑張っているふりをして、周りに心配をかけないようにポジティブなふりをして、就職の話題が出るたびに「もうちょっとがんばってみる」と言ってやり過ごした。

頑張りたくないこと、頑張ることすらつらいこと、もう頑張れそうにないこと。それらを〝がんばる〟”ことは、とてもつらい。家族はそのままでよいと背中をさすってくれたが、それすらも鬱陶しくて煩わしかった。


「大丈夫なふりって、するだけ無駄だった。あんなにぼろぼろに生きてても、大学の友達も家族も誰も見抜いてくれなかったんだもん。あの時の私、全然、ひとつも大丈夫じゃなかったはずなのに」


シマさんは、そう言っていた。

本人の口から聞いた事実は、僕が知っているシマさんからは想像もできないことだった。


「意外だった?」
「……そう、ですね。正直言うと、シマさんは悩みがなさそうだって思ってました。なんでもうまくこなせていいなって。同い年だったら僕は多分シマさんのことは苦手になってたまであります」
「わはは、言うねえ。アオハルくんの正直すぎるところ、嫌いじゃないよ」
「すみません」


要領が良くて、仕事が早くて、ユーモアもあって、容姿淡麗な彼女でも、ひとりで枕を濡らす夜があった。誰かに何かをわかってもらいたいと願う日々の中にいた。
それでも、シマさんは僕の前ではなんでもできるシマさんのままだった。多数派に上手に紛れ、弱さを隠して、普通に生きているふりをしていたのだ。


「弱いところを一度誰かに暴かれたら止まらなくなっちゃうんだ。自分はこういう人間だったんだって自覚するともうだめなの。終わりの始まりってやつ? この弱さは自分が死ぬまで一生付きまとってくるのかあって思ったらさ、消えたくなっちゃうよね、ホント」
「今も?」
「ううん。今はもう結構落ち着いてる。わかってもらいたい人には、ちゃんと大丈夫じゃないって言えるようになったから」
「……そうですか」
「急にごめんね。きみの同級生くんの話聞いたら、少し思い出しちゃって」


仁科のことは疎か、比較的親交のあるシマさんのことですら、僕は何も知らない。
面倒くさがっているふりをして、人と関わることから逃げている。

ひとりを好むのは、誰かに踏み込む勇気がないからだ。誰かの弱さに触れるのが、本当はとても怖かった。


「日本のニュースがどんなに噂を流しても、それが事実じゃない限り、生きてる可能性を信じ続ける人もきっといるんだよ。きみが〝日本中が泣いた〟あの映画で泣かなかったみたいにね」
「シマさん、僕は……」
「わかり合えなくていいから、わかろうとしてほしい。少なくとも私はそう願って生きてる」


ねえ、アオハルくん。
シマさんが静かな声で僕を呼ぶ。

「きみは、仁科翼くんの背景を考えたことはある?」


その質問に答えられない自分に、遣る瀬無い気持ちが募った。




「え。千春、あんたなんでお父さんと一緒にラグビーなんか見てんの」
「べつに、なんとなくだけど」
「なにそれキモぉ……」
「お前も見るか? フランス戦、25対13! まだまだ勝負は続くぞ!」
「はあ? 見るわけないじゃん。テンション高いのキモいんだけど」


辛辣な姉と少々可哀想な父の会話を無視して、僕は再びテレビに視線を移す。

日曜日、夕方。先日、金曜ロードショーの時間に被っていたラグビーの録画試合を見ていた父に、僕は「ラグビーって何が面白いの?」と聞いてみた。姉が言う「容量の無駄遣い」が果たして本当にそうなのか、確かめてみたくなったのだ。

父は一瞬驚いたように瞳を大きくしたが、すぐに嬉しそうに微笑み、「ちゃんと見てればわかってくる」とだけ言った。

ラグビーの詳しいルールを僕はこれっぽっちも理解できていなかったが、実況や観客の歓声でどちらに得点が入ったとか、どれがファインプレーだったとか簡易的なことはわかってくるので、知識がなくても意外と楽しめるものだと知った。
今後も見るかどうかの二択を問われたら多分そこまで夢中になる事柄ではないなと思ったが、それでも今、父のことをわかろうとすることは、僕に必要である気がしたのだ。

『わかり合えなくてもいいから、わかろうとしてほしい』


シマさんに言われた言葉は、僕の思考をとかすように反芻していた。


試合を見終えた後、僕は自転車を走らせコンビニに向かっていた。
母が、カレーを作るのに肝心なルーを買い忘れたらしいのだ。既に飲酒してあてにならない父、夕飯準備で忙しい母、自由奔放で口が悪い姉とくれば、消去法で僕にお使いが回ってくることは、もはや避けられない。


夕暮れ時のわずかに冷たい風を浴びながら、僕は昨日の記憶を巡らせた。


『きみは、仁科翼くんの背景を考えたことはある?』


僕が知っている仁科が、0から100まで想像通りの人間じゃなかったとして。
たとえばシマさんのように、弱さを隠すのが上手で、普通のふりをして生きるのが癖になっていたとして。

完璧だと思っていた同級生が、本当は誰も知らないところであがいていたとしたら、彼が隠していた弱さってなんだろう。誰にも言えなかった本音はなんだろう。


仁科翼は、誰に何を、わかってもらいたかったのだろう。

───なんて考えたところで、所詮他人でしかない僕に答えが巡って来ることはないけれど。


「こんにちは。君、ちょっと話を伺いたいんだけどいいかな」
「はあ、どうも……」
「この辺に住んでる仁科翼って人について何か知ってることない? この写真の子なんだけど」


交差点で信号待ちをしていると、背後から警察官に声を掛けられた。変わらず聞き込み捜査が続いているようだ。目が合う前に逃げるのは得意だけど、背後からは太刀打ちできない。僕は小さくため息を吐き、差し出された写真に視線を移した。

テレビに映っていたものと同じだ。仁科の家族が提供したのだろうか。記憶に残る中学時代の仁科より確実に大人びた顔つきになっている。同じ男として羨ましく思ってしまうほど整った顔だ。高校でもさぞかしモテていたことだろう。明るくて爽やかで、写真からでもわかる友達がたくさんいそうな雰囲気。

やっぱり、彼と僕とは全然違う。
僕と仁科はただの同級生で、友達でもなんでもなくて、挨拶すらまともに交わしたことはなく、他人と呼んでも支障がない、その程度の関係性。


「どこかで生きててほしいですよね」


それでも、わかろうとしてみることにした。仁科翼という人間について、ニュースも人伝もあてにせず、自分の頭でちゃんと考えたことを信じてみようと思った。
背景も事実も考えないうちに他人の生死を判断するのは想像力に欠けると、誰かにわかってもらいたいと願うシマさんは言っていた。


「はい?」
「仁科くん、死んでないって信じてます僕は。全然、ほとんど他人ですけど、勝手に信じるくらいいいかなって」


きっとみんな、それぞれ違う棘を抱えて生きている。


「あの、すみません、僕カレールー買って帰らなきゃいけないので。もういいですか」
「え。あ、ちょっと君!」


警察官にそう告げて、僕は再び自転車を漕いで風に乗る。


ふと視線の先、交差点を曲がる若い男性が目に入った。
白い肌に、薄い身体。それにむかつくくらい綺麗な横顔が、どこかなつかしさを連れていた気がした。


「仁科?」


慌ててサドルから体を浮かし、立ち漕ぎでペダルを回した。



衝動的に追いかけてしまうほどのなつかしさを、僕は信じることにする。
その夜食べたカレーは、長い間固まっていた脳をたくさん動かした僕の身体によく沁みた。




 
「あたし、あやちゃんに失礼なこと言ったかなぁ」


友人のユウナが、机に肘を立て、枝毛をちぎりながらぼやいている。背もたれに体重を預けたあたしは、スマホをいじりながら横目で彼女を見下ろした。

机の上に寝かせたスマホには彼女の好きなバンドのステッカーがべたべたと貼ってあり、その中に一枚、私とユウナ、それから幼馴染である絢莉の三人で、ついさきほど撮ったばかりのプリクラが挟まれている。
真ん中に絢莉がいて、ユウナが笑顔を浮かべて彼女に抱き着いている。あたしはどうしても恥ずかしさが勝ってユウナのように抱き着くことはできず、絢莉の隣で控えめにピースをしていて、その顔は下手くそに笑っていた。


「ねえモモちゃん、聞いてる?」
「あー、うん。聞いてる聞いてる」
「じゃああたしが今言ったこと言ってみてよ」
「うわぁ、なにそれだる」


日曜日、夕暮れ時。ユウナが好きだというバンドのフリーライブに参加した帰り道。絢莉と別れた後に寄ったファストフード店で、あたしとユウナはひとつのポテトを分け合っていた。
プリクラから視線を移し、冗談めかしてそう言えば、「モモちゃんひどすぎ!」とユウナが嘆く。彼女は百面相だ。感情をそのまま表現できる彼女のことは、時々羨ましく感じていた。


「『あたし、あやちゃんに失礼なこと言ったかなぁ』」
「え、ちゃんと聞いてくれてるんだけど!」
「だから言ったじゃん、聞いてるって」

ユウナの発言は、話しかけているのか独り言なのかわからない時がある。
昔から、独り言だと思って聞き流していたら返答待ちだったことが何度もあったので、返事をするかしないかはさておき、彼女の言葉には耳を貸すようにしていた。一緒にいるうちに癖になったそれは、良いのか悪いのかわからないけれど。


「仁科くんが死んだかもとかさー……」
「うん」
「無神経だったかもって、今なら反省できるんだけどな。あやちゃんに嫌な思いさせてたかなぁ。でもさ、あやちゃんが仁科くんと関わりあったなんて知らなかったわけじゃん? だからなんていうか……えー、なんていうんだろう」


ポテトをかじりながらユウナが言う。反省と少しの葛藤を含む声色に、あたしは「なんていうんだろうねぇ」と相槌を打つ。
系統も性格も全然違うあたしたち。長年一緒にいるわりに、お互いに全部をさらけ出せる関係じゃないことが、時々怖くなる。
中学の時からずっと一緒にいるのは、地元が同じだからだ。三人のうちだれかひとりでも町を出たら、きっとあたしたちが集まることはないのだと思う。


つい先日、同じ中学校に通っていた仁科翼が消えたというニュースを見た。行方不明と報道されてはいたものの、どうやらネットやワイドショーでは自殺の可能性が高いという話になっているらしい。

連日あたしたちの地元では警察が事情聴取を行っていて、クラスメイトの中にも話を聞かれた生徒がいるみたいだ。てっきり、警察は仁科くんの交友関係を事前に調べて、かかわりが深そうな人物をピックアップして聞き込みをしているものだとばかり思っていたから、全然関係のないクラスメイトが事情聴取を受けた人がいると知り、要らない情報ばかりが飛びかって噂が広まるのってそういうのが原因なんじゃないの? と何故かあたしが苛ついてしまった。

噂というのは、形の見えない害だ。いつどこで広まるかわからない。規模が大きければ大きいほど、それらを否定することはできなくなって、まるでそれが真実かのように扱われる。自分が噂をたてられる側になった時のことを考えると、あたしは怖くてたまらない。


「あやちゃん、今頃新くんと何話してるんだろ」
「……さあ。でも、うちらじゃ簡単に踏み込めないことだよ、多分」
「わかってるよぉ。わかってるからモヤモヤするんじゃん……」


あたしたちがファストフード店に来る数分前。仁科くんの双子の弟、仁科新くんと数年ぶりに再会した。彼は絢莉に用があったようで、あたしたちには目もくれず、絢莉のことをまっすぐ見つめていた。
仁科くんがつけていた日記に絢莉の名前があった。あたしとユウナが聞いたのはそこまでで、というよりはそれ以上聞くのは絢莉に申し訳なくて、あたしたちはその場を撤退してここに来た、というわけである。


「あたしなんかじゃ力なれるわけないっていうか。こういうとき、どちらかというとモモちゃんのほうが頼られがちじゃん」
「……べつにそんなことないと思う」
「そんなことあるよ。あたしがあやちゃんでも、あたしみたいな適当人間に相談しようなんて思わないもん」
「うーん……」
「いいなぁ。あたしもふたりの幼馴染になりたかった」


写真といえど、何も考えずに絢莉に抱き着けるユウナのほうがあたしは羨ましい。
あたしはいつだって絢莉との距離が近ければ近いほど鼓動が早くなるし、「あたしたちは女同士の友達だから」と無理やり脳に覚えさせることに必死だ。

触れたら、長年あたしだけが抱えている気持ちが簡単にあふれてしまいそうだから。
幼馴染でいたとて、好きになってもらえないなら意味がない。


───なんてそんなこと言えるはずもなく、しなったポテトと一緒にあたしは本音を呑み込んだ。