「ねえ、仁科くんが死んだってニュース、見た?」
友人のユウナからその話題が振られたのは、登校してすぐのことだった。背負っていたリュックを机の上に降ろした状態で、動きが止まる。彼女の隣で、幼馴染のモモコは「あんた声でかい」と苛ついていた。
「……は? なにそれ」
「仁科翼ってさ、いたじゃん中学ん時。すっごい頭よくてコミュ力高い男子。双子の、ちゃんとしてるほう」
「にしなつばさ……」
こぼれた名前に懐かしさを覚えた。
にしなつばさ。仁科翼。
私と同じ中学校に通っていた男子の中にその名前を持つ人がいたことは確かだ。
仁科翼くん。テストの順位はいつも一桁をキープしていて、テスト期間はいつもクラスメイトに頼られていた生徒だ。真面目で、爽やかで、コミュニケーション能力の長けていた。
部活動には所属していなかったけれど、運動部顔負けの能力もあって、イベントごとでも大活躍していた印象もある。今は、地元から少し離れたところにある県内の公立の進学校に通っているはずだ。
私は「いたね、そんな人」と短く返事をして、椅子を引いて座る。ギギ……と床が擦れる音が耳障りだった。
「その仁科くんが、死んだらしいって話!」
人口二万の小さな町じゃ、誰がどこの高校に行ったとか、誰が高校を中退してどこで働いているとか、誰と誰が付き合っているとか、そういった情報は全部筒抜けだ。だから、中学を卒業して以降、仁科くんと接点がなかった私にその噂が流れてきたことは、べつに不思議なことじゃない。
だからこそ、自分が仁科くんの立場だったら、こんなふうに騒ぎ立てられるのは絶対嫌だと思った。
「全国ニュースってやばすぎじゃない? ケーサツうろついてるし。同中だったし、うちらもジジョーチョウシュとかされんのかなぁ」
「いやいや、ないね。別にあたしら仁科くんと仲良かった時期とかないじゃん。ねえ絢莉?」
「ああ、うん」
仁科くんは確かに同じ地元の中学校に通っていたし、私は一方的に彼のことを知っていた。でも、挨拶すらするかしないか定かではない関係だったから、重要参考人には値しない。
少なくとも仁科くんにとってはただの同級生A、B、Cである。
「自殺だって噂だよ。仁科くん、なーんで死んじゃったんだろうねぇ。文武両道で人気者。顔だっていいし、なんでも持ってるのにさ」
「まだ行方不明でしょ。勝手に殺すな」
「えーでも、正直な話、行方不明ってほぼ死と同義じゃん」
悪びれた様子もなく、ユウナがそう言ってスマホを弄っている。行方不明と死が同義だなんて私は思わないけれど、わざわざ突っかかる必要もなかったので口を噤んだ。
「なんか、友達とかじゃなくてもヒトの死ってダメージあるわ。痛いっていうかさぁ……ほら、最近政治家の偉い人も死んじゃったじゃん。怖いし、不穏。最近の世の中物騒だよね」
ユウナから「ね」と強制的に同意を求められ、「うん」と短く返す。
言っていることには一理あるが、ユウナの言い方は、ダメージを負っているようにも同情しているようにも聞こえない。どこかで聞いた言葉を真似て言っているような、そんな感じだ。ユウナには申し訳ないけれど、そこに彼女自身の意思が含まれているとは思えない。
「ねー、てか来週の日曜、あたしの好きなバンドがフリーライブやんの。ふたりとも、一緒に行ってくれない?」
その証拠に、同級生の不穏なニュースの直後の話題がそれだ。彼女の、仁科くんが死んだ「らしい」話への関心なんてその程度で、モモコも然りだ。
──それで、きっと私も。
「てかあんたいつも誘ってくれるのはいいんだけどさ、あたしも絢莉もべつにバンド詳しいわけじゃないじゃん。ひとりで行くって選択肢とかないの?」
「やだモモちゃん、そんなんあるわけないって。ひとりとか寂しすぎて考えらんないもん。あの子ひとりで来てる~って思われたくないじゃん!」
「他人にどうこう思われたところで」
「他人はそうだけど、嫌なもんは嫌なの! それにほら、人間ってひとりじゃ生きていけないっていうじゃん。彼氏とか友達といたほうが絶対毎日充実できるし。それに〝好き〟って共有したほう幸せ度あがるもん! あやちゃんもそう思うよね」
「まあ、そういう瞬間もあるよね」
「だよね⁉」
「ちょっと。あんたいつも絢莉に意見強制すんのやめなって」
「あやちゃんはモモちゃんと違ってやさしいからいいのー!」
ふたりの小競り合いを遮るようなタイミングで予鈴が鳴った。遅刻しないぎりぎりの時間に登校する利点といえば、予鈴が会話を強制的に終了させる武器になることだ。
「とにかくそういうことだから! 日曜あけといてねっ」
急いだ声で言ったユウナが、小走りで自分の席に戻っていく。
「絢莉、日曜行けそう?」
ふう、と誰にも気付かれないように小さくため息を吐き、リュックから教科書を取り出そうとした時、モモコが言った。
先月くじ引きで行われた席替えで、私とモモコは隣の席になった。中学の時から数えても、
隣の席になったのはこれが初めてだ。視線を移すと、モモコが頬杖をついて私を見ていた。
「返事聞く前に決定するのやめろっていつも言ってるのになぁ」
「でも行けるから。ダイジョーブ」
「もー……絢莉はやさしすぎるんだよ」
「その発言がやさしいわ、モモコは」
モモコは私をやさしいと言うけれど、それは間違っている。
日曜のフリーライブに行くのは、あたりさわりない言葉を選んで断るのが面倒だから。ユウナの意見に同意するのは、否定してまで自分の意見を述べるのが面倒だから。
いつのまにか根付いた諦めが早いこの性格は、やめろって言われてもきっと簡単には治らない。だから、返事を聞く前に決定するユウナの性格もきっと治らない。
諦めて受け入れて関わるほうが楽だし、私の中ではそれ以外の選択肢は見当たらない。
ただ、それだけだ。
「じゃあまた明日。気を付けて帰んなよ」
「ありがとーお母さん」
「お母さんって言うのやめて」
その日の帰り道、私とモモコは交差点で別れた。
ユウナはバイトがある日だったようで、ホームルームが終わってすぐ慌ただしく教室を出て行く後ろ姿を見た。十六時半からシフトを組んでいるらしく、走らないと遅刻するそうだ。ホームルームが終わるのは十六時だと決まっているのに、どうしてそんなにぎりぎりで組むんだろうと、私はいつも不思議に思っていた。
モモコとふたりで下校するのは、ユウナを含む三人で行動している時よりは幾分か心地が良かった。ユウナのことが嫌いとかそういうことではないけれど、モモコとふたりで話している時は、同意や共感を求められている感じがないから気持ちが楽なのだ。
地元にいるうちは、交友関係は穏便なほうがいい。大喧嘩して疎遠にでもなったら居心地が悪くなるだけだから。
いつからかバランスを意識して過ごすようになった。誰に頼まれたわけでもなく、私が勝手にしていることなのに、時々、どうしようもなく疲れを感じる時がある。
この町は、私にとっては少しばかり窮屈だ。
ひとりになり、リュックのサイドポケットからイヤフォンを取り出し耳に装着する。
ネットで一五〇〇円で買ったどこのブランドかもわからない安っぽい有線のそれは、時々音が途切れたり漏れたりするけれど、交差点から家までの十分間だけ使用するにはそこまで支障はない。音楽を再生し、歩き出す。
中学の同級生が死んだ「らしい」。
名前は仁科翼。
爽やかで、誠実そうな、好青年だ。
彼にまつわるその噂が事実か否かは、今ここで判断できることじゃない。私は、仁科くんの遺体を実際に見たわけでも、彼が死ぬ瞬間を目撃したわけでもないのだ。
通学路にある斎場の、真っ黒な太い筆で故人の名前が書かれた案内看板。それは自然と視界に入って来るもので、大して関心もないくせに、私は日によって変わっていく名前を見て、死んじゃったんだなぁと他人の死を実感していた。
記憶にあるかぎり過去の案内看板に彼の名前が書かれていたことはなく、噂を聞いた今日も、確認がてらいつもより目を凝らして見たけれど、そこに彼の名前はなかった。
仁科くんは、本当に死んだのだろうか?
仮にそうだとして、その原因は。
そうじゃなかったとしたら、彼はどこへ消えたのか?
『庄司さんって、すごく勿体ない生き方してるんだね』
これまで思いださなかったことが嘘のように、いや、違う。思いださないようにしていただけだ。声色まで鮮明に、記憶の中にいる彼が話している。全てを見透かしたような双眸が印象的だった。
『友達と話すときとか目が死んでるし。べつにすごい明るい人間でもない』
『いつも妥協して生きてる感じ。例えるなら……一〇〇円のイヤフォンを買うのと同じだね。壊れたらしょうがないで済ませてまた同じものを買うんでしょ。安いけど使えるからいいやって、同じ失敗を繰り返す』
『俺たち、同じだよ。同族嫌悪ってやつかも』
仁科くんの人生における私の存在は、ただの同級生Aにすぎない。
それなのに、彼の噂を耳にして、数分で切り替えられず思いだしてしまうのはどうしてなのか。
「……うるさいな。記憶のくせにそんなはっきり喋んないでよ」
嘆きに近いひとりごとは、じめついた空気に落ちて、それから消えた。
安いイヤフォンを介して届く音楽がどこか居心地が悪かった。
私の中に残っている仁科くんとの記憶の中で、印象的なことがある。
中学三年生、夏の終わりの出来事であった。
それまで私は、仁科翼という人間に対して特別大きな感情を抱いたことはなかった。
仁科くんは、悩みなんてなさそうな、日々を充実しているタイプだったと思う。
教室の後方の席を陣取って、周りのことなどお構いなしに大きな声でふざけ合う人には、角が立たないようにやんわり注意する。
授業中は爆睡して試験前にノートだけ見せてもらおうとするずる賢い人には、勉強会を開いてあげていた。
いつも掃除当番を押し付けられている人にはなにも言わず手を差し伸べる。
優しさや正義の押し売りだと感じさせない。同じ十五歳なのに、仁科くんは誰よりも大人びて見えた。
しかしながら、私は仁科くんに手を差し伸べられたことも一緒に勉強をしたこともないので、彼にそこまで興味はなかった。
強いて言うなら、私は仁科くんの、人生をちゃんと自分のものにできていところは少しばかり羨ましいと思っていたくらいで、だ。
「あっ」
「お? あやちゃんどしたぁ?」
「……スマホ忘れてきちゃった」
よく覚えている。あの時期は、モモコは県大会を控えていたため部活が忙しく、ユウナとふたりで帰る日がとても多かったのだ。
学校を出て五分ほどした時、いつもポケットに入れているはずのスマホがないことに気が付いた。
スマホは校則で禁止されているけれど、今時持っていない人のほうが希少で、こっそり鞄に入れてくる生徒が大半だ。
私も多数派に値するのだが、六時間目の自習の時間、隠れてスマホを弄っていたら急に先生が入って来て、慌てて机の中に放り込んだのだった。それから、鞄にしまい忘れたまま下校してしまった、というわけである。
「ごめん、私学校戻る。ユウナは……」
「あーどんまい。そしたらあたし、先帰るねぇ」
ユウナは先に帰ってていいよと、そう言おうとした私の言葉に被せるようにユウナが言った。
先のとがったものに心臓を突かれているような感覚だった。「がんばれぇ」と労る気持ちなどさらさらない声で付け足される。
ユウナが学校まで一緒に戻ってくれるなんて可能性はこれっぽっちも考えていなかった。
言おうとしていたことを言われただけなのに、どうして傷つく必要があるんだろう。
「無事スマホ回収できるといーね」
「……あ、うん。バイバイ」
笑顔で手を振り、自宅への道を歩き出すユウナの背中を数秒見つめたあと、無意識にため息が出た。
私だったら社交辞令でも「一緒に戻ろうか?」と聞くなあとか、「用事あるから先に帰ってもいいかな、ごめんね」って謝るなぁとか。
そんなことを考えたところでそれは私個人の意見であって、人に強要すべきことじゃない。
わかっている。わかっているからこそ、こんなにもやるせない。
「……最悪だ、もう」
何に対してこぼれた言葉だったのかは自分でもわからないまま、私は来た道を戻った。
誰もいなくなった放課後の教室はがらんとしていてとても静かだった。
上靴を擦る音、椅子を引く音、心臓が脈を打つ音、グラウンドから聞こえる声。全部が鮮明に届いて、ひとりなのにどうしてか少し緊張してしまう。
机の中に放り込んだスマホを無事回収し、それから何気なく窓の外に視線を映した。
まだ明るい空と混ざり合ったオレンジの光がとても眩しい。
夕焼けを収めておきたくてカメラを起動させると、そのタイミングでスマホが振動した。
表示された通知を確認すると、ユウナから《あやちゃんスマホあった?》といった内容のメッセージが送られてきていた。《あった。ごめんありがとう》と返信しながら、何がごめんとありがとうなんだっけと自分に疑問を抱く。
癖というのは怖いもので、慣れれば慣れるほど、言葉や仕草に含まれる意味合いが薄れていってしまう。
「ごめん」も「ありがとう」も大切な言葉なのに、私が使うと、どうしても粗末にしているような気がするのだ。
「あれ、庄司さん」
ふと、そんな声がかけられた。振り向くとそこには仁科くんが立っていて、私の口からは反射的に「仁科くん」と彼の名前がこぼれた。
空に向かって構えていたスマホを隠すように腕をおろす。空が綺麗で写真に収めたいと思う、なんて、私のキャラじゃない。
「忘れもの?」
「うん、スマホ忘れちゃって。仁科くんは?」
「俺はー……うん、まあ、そんな感じ?」
なんで疑問系? と思ったけれど、私がその理由を聞く前に仁科くんに「ひとり?」と質問される。彼は私の横を通り抜けると、窓を開け夕焼けの光を浴びるように窓の縁に身体を預けた。黄昏る、というのは、こういう瞬間をいうんだなとその時強く実感した記憶がある。
「いつもの二人は一緒じゃないんだね」
「いつもの……」
「永田さんと、木崎」
「ああ……モモコは部活。ユウナは一緒にいたけど先に帰ったの。一緒に戻らせるの申し訳ないじゃん」
「ふうん」
ふうんって、聞いてきたのは仁科くんのほうなのに。
興味のなさそうな返事にうまく反応できず、沈黙が訪れる。こういう時ばかり、話し上手なユウナがいてくれたら、なんて都合の良いことを考えてしまう私は、とてもずるい人間だと思う。
「ねえ」と、仁科くんが再び口を開く。開けた窓から抜ける夏のぬるい風が、仁科くんの黒髪を仄かに揺らしている。彼の横顔をちゃんと見るのは初めてで、その美しさに、心臓が脈を打った。
「庄司さんって学校楽しい?」
「は?」
「楽しい?」
クラスメイトと話している時より雑なトーンで二度聞かれたその質問の意図は汲み取れなかった。
庄司さんって学校楽しい?
それは、どういう視点でどういう理由で聞かれたものなのだろうか。
「普通に、楽しいよ」
疑問を抱いたけれど、問うに値しなかった。当たり障りなく聞かれた質問に答えると、仁科くんは「へえ」とこれまた興味なさそうに言うのだった。
私が過ごす学校生活は可もなく不可もない。日々に大きな不満もないし、これと言ってトクベツなことも起きない。
放課後は友達と遊んだり、寄り道をしたり、人並みに恋愛もして、そうやって生きている。
一般的に見て、平均的に考えて、私が生きている今は、「普通に楽しい」のだと思う。
ただ、それが少し物足りないっていうだけで。
「その〝普通〟って、なんなんだろ」
「はあ?」
「〝普通〟に楽しいとか〝普通〟においしいとか。誰にとっての普通が基準になってんのかなって、疑問に思ったことない?」
仁科くんと私は、友達でも恋人でもない、ただのクラスメイトだ。今までのどこかでまともに会話をした記憶はない。目を見て話すのだって、その時がはじめてに等しかった。
私が知っている仁科くんは、いつもまわりに人が集まっていて、誰にでも平等で、運動も勉強もできる、才能にも人脈にもめぐまれた人。
「ずっと気になってたけどさ、庄司さんってべつにすごい明るい人間じゃないよね」
じゃあ、私が今、話している仁科くんは誰なんだろう。
西日が仁科くんを照らしている。窓に寄りかかったまま振り向き、仁科くんは続けた。
「木崎と話してる時とか特に、目死んでるし。いつも“合わせてあげてる”んだなって思って見てたよ。庄司さんって、百円のイヤフォン買って一日で壊れて『百円だからしょうがないや』って妥協するタイプなんだなって」
「……なにそれ。意味わかんないし」
「値段と質は比例するから。百円のイヤフォン五十回買うのと五千円のイヤフォン一回買うのとじゃ全然意味合い違う。そんで庄司さんは、高いイヤフォンを買わない派」
「ねえ、さっきから何の話してるの」
「それってさあ、対価を払って壊れた時が怖いから?」
何も言えなかった。図星をつかれて、言い返す言葉がなかったのだ。
中学生ながらに、私は自分の限界を見据えていた。
高いイヤフォンを買うのは怖い。払ったお金が高ければ高いほど、壊れた時のショックが大きいから。その点、百円で買ったイヤフォンは何回壊したって感じる罪悪感はたかが知れている。
百円だから。安いから。音質は気になるけれど支障が出るほどじゃないから。
思入れは少ないほうがいいのだ、物にも───人にも。
地元だから。揉めたらめんどうだから。周りの歩幅に合わせたほうが何事も穏便に済むから。
誰にも言ったことのない本音が露呈してしまった気がして、私は恥ずかしくて目を逸らした。
「……なんなの、仁科くん」
「べつに、思ってたことを言っただけ。やっぱり、俺が想像してた通りの人だった」
「想像って」
「庄司さん、いつもつまんなそうな顔してる。もったいない生き方してるんだなあって思ってたよ────俺と同じだ、って」
こぼれた私の声はとてもかすかで、弱かった。睨むように視線を向けても、仁科くんにはきっと響いてはいない。
クラスの人気者の仁科くんとはかけ離れた二面性を知っている人は、いったいどのくらいいるのだろう。
「今日の空、綺麗だよね。収めておきたいって思うの、わかるよ」
シャッターを切る音がやけに印象的だった。
『庄司さん、いつもつまんなそうな顔してる』
同級生に、ましてや関わりのなかった男子に、こんなふうに言葉を吐かれたことはなく、仁科くんには期待するほどデリカシーがなかった。
つまんなそうな顔して生きてる。
それってどんな顔? 仁科くんの世界で、私はどんなふうに映ってるの。
聞きたかった、けれど、聞く勇気はなかった。
「勝手に私をわかった気にならないでよ」
「はは、ごめん。でも事実でしょ?」
「むかつく……」
むかついた。けれど同時に、本音で話した時間はあまりに煌めいていて───私は確かに惹かれていたのだ。
悔しいことに、私はその日を境に仁科くんのことを意識するようになってしまった。
ふとした瞬間に、彼を目で追っていることに気付くのだ。
自覚するたび恥ずかしくなってひとりで首を振るといったことを繰り返しているうちに、だんだん〝普通〟に対して疑問を持つ彼が、どんな日々を過ごしていのかが視えてくるようになった。
クラスの人気者で、性別や学年、系統を問わず誰にでも優しく誠実な仁科くん。
そんな彼が、授業中、真面目に聞いているようにみえてじつは教科書の影に隠れて寝ていたり、先生からの頼まれごとを引き受けたあと、少し面倒くさそうにため息を吐いていたり。うっかり上靴のまま下校しようとしていた瞬間も見かけたこともある。
仁科くんの人間的な部分を知れば知るほど、私は彼に対して抱いている興味が大きくなるのだった。
その感情が恋愛的なものだったかどうかについて、正解は自分でもわかっていなかったが、仁科くんのことを考えている時間だけは経過がとてもはやく、ワクワクしていたことは確かだった。
けれどそれは、誰にも相談することのないまま封印した。私が抱える感情を、わかってように語られなくなかった。
仁科くんとまともに話したのは、あの日のたった一回限りのこと。それからあっという間に卒業式を迎えたが、私と仁科くんの距離は可も無く不可も無いままで、これと言った思い出はひとつもできなかった。
彼の日常をただ追うだけの日々はとても虚しく、けれどとても輝いていたような気もしていた。
それは、恋とも後悔とも呼べず、青くもなれなかった過去の話である。
仁科くんはSNSをやっていなかったので、高校に入ってからというもの、彼がどこで何をしているか、私はずっと知らなかった。
私は高校生になっても、中学の頃と変わらないメンバーで〝普通〟の日々をこなしていた。
そんな大した人間でもないくせに一丁前に人に意見したり、クラスの端っこで派手なグループに怯えて息をするクラスメイトを見て、そっち側じゃなくてよかったと、安心したり。ユウナたちと一緒にいるのは疲れるけど、楽しいときもあるから、それでいいと思っていた。これが私の在り方で、正解だと、そう思うことで精一杯だった。
仁科くんに抱いていた好意のことなど、数か月もすれば次第に薄れていった。
高校二年生の時だ。街で偶然彼を見かけたことで、私が一年以上抱えていた淡い気持ちは途端に姿を変えた。
仁科くんの隣に、私とはまるで真逆の、彼女と思われる女の子がいた。名前のつかない感情がふつふつと沸き上がり、私はその場に立ち尽くした。
『庄司さんって、勿体ない生き方してる』
あの日、突然えらそうに説教したくせに、自分は彼女をつくって、新しい環境で楽しそうに生きてるなんてずるいじゃないか。
私のように変われないままの人間を見下して、心の中で笑ってるのではないか、と、そんな感情が押し寄せて、舌打ちがこぼれる。
百円のイヤフォンを買うみたいに妥協しまくった人生を、私は今もまだ、ひとつも変われないまま生きている。
私より上手に生きている人も、人目を気にせず我が道を生きていける人も、変わらないままの私も、皆死ねばいい。
傲慢で最悪な私の願望は、蒸発しないまま私の中に潜んでいる。
ユウナの付き添いで呼ばれた、名前も顔もちゃんと知らないバンドのフリーライブは、思いのほか好みの音楽で、私は僅かな悔しさを覚えていた。
思い返せば以前もそうだった。『ひとりで行きたくないから来てほしい』と誘われた、今でこそ有名になったバンドの対バン。ゲストで呼ばれたスリーピースのバンドが奏でていた音が耳から離れなくて、以降すっかり虜になっている。
「アンコールであの選曲は流石に天才すぎた。入りもよかったよね、ね? ね!」
「すぐ同意求めないの」
「だって! だってさあ⁉ 良かったじゃん⁉」
終演後、興奮が冷めないユウナが楽しそうにライブの話をしている。すかさずモモコが恒例の如くユウナに注意を入れるけれど、お構いなしにユウナは話続けた。その姿は本当に楽しそうで、ユウナがわかりやすいタイプといえど、感情は雰囲気に直結するんだなと他人事のように思った。
『庄司さんっていつもつまんなそうな顔してる』
ふとした瞬間に、記憶の中の仁科くんが話し出す。彼にまつわる噂を聞いたのはもう一週間以上前のことで、忘れてもいい頃なのに。
つまんなそうな顔って、どんな顔?
ユウナが今、誰から見ても楽しそうに見えるのと同じで、私は誰から見てもつまらなそうに生きていたのだろうか。
怖くなった。私は、このまま生きていくのが怖くて仕方がない。
「でも今日、あやちゃん楽しそうだった!」
思いがけない言葉に「は」と反射的に声がこぼれる。記憶に残る仁科くんとは真逆のことを言われ、私は数秒固まった。
「横見たらさ、あやちゃん笑ってたんだもん。前の時も結構印象的だったからさ、あたし覚えてるんだよ。あやちゃん、こういうバンドの音楽好きなのかなあって思って」
「そう……だった?」
「そうだったよぉ。ね。だから、誘ってよかった!」
眩しいほどの笑顔だった。直視することはできず、私は目を逸らす。捻くれた思考ばかりの自分があまりに恥ずかしいものに思えて、消えたくなった。
帰り道は、それからまたしばらくユウナがほとんどひとりで話し続ける時間が続き、あっという間に私たちがいつも別れる交差点が見えてきた。
「楽しい時間ってホント一瞬でやだなあ」
「てかさ、明日って古典の小テストなかったっけ」
「え、そうじゃん。最悪だぁ……──って、あれ?」
ユウナが突然、数メートル先を見て声をこぼした。つられるように顔をあげ、彼女と同じ方向に視線を向ける。
そこには、あたりをキョロキョロ見渡す、やや挙動不審な男の姿があり、私は驚いて足を止めてしまった。
その男は、仁科くんとよく似た顔立ちと風貌をしていた。
「仁科くんじゃん。弟のほうの」
「仁科新……だよね? 名前。あんまちゃんと話したことないけど、顔、めっちゃ似てるよねぇ」
「……あ。こっち気づいた」
「手でも振っとく? おーい、新くーん」
「ちょっとユウナ、やめなってば」
中学時代、一度も同じクラスになったことはなく、関わった機会は無に等しい。
仁科くんが双子であることは皆共通の認識であったものの、スポットライトを浴びるのはいつも仁科翼くんのほうで、仁科新くんに関する話題はあまり耳にしたことがなかった。
私たちの存在に気づいた新くんが小走りでこちらに駆け寄ってくる。
私たちに用事があるのだろうか。仮にそうだとしたら、思い当たるのは、先週ユウナから聞いたあの噂についてだ。
「翼のこと、なにか知らない?」
開口一番、彼は私にそう言った。ユウナでもモモコでもなく、その質問が私に向けられている自覚があった。
「あいつが書いてた日記に庄司さんの名前があったんだ。庄司さん、もしかしたらなんか知ってるんじゃないかと思って」
「……日記?」
「うん。時々この辺り歩いてるの見かけてたから、話しておきたくて……ごめん、待ち伏せみたいなことして」
新くんの謝罪に戸惑っていると、「絢莉」と、モモコに名前を呼ばれた。
「あたしら先帰ってるね」
「え、ちょっとモモちゃん!」
「なんかあったら相談乗るから、その時は言ってよね」
モモコはそれだけ言うと、半ば強引にユウナを連れて交差点を渡っていった。
短い言葉だったけれど、モモコの気遣いをわかりやすく感じ、申し訳さと感謝が混ざり合う。
帰っていくふたりの背中を見つめていると、新くんが再び口を開いた。
「ごめん。場所変えよう、少し長くなるかもしれないし」