長く暑い夏休みが終わり、私達は今、頭を抱えているところだった。
ここは…なんだっけ。
放課後勉強しなくなってから、私の成績は少しずつ落ちていっていた。
お母さんは前よりも不満そうな顔をするようになり、私の心は徐々に期待によって押し潰されてしまいそう。
今回のテストはマーク式だから、分からなければ適当に塗りつぶしておこう。
問題の解き方を考えていたら、終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。私は急いでマークの中を漆黒に染めた。
「それじゃあ、後ろから回収して」
先生の言葉を合図に、みんなはペンを置いて解答用紙を集める。
夏休みに勉強する時間が増え、今回はまだ大丈夫だろう。周りのみんなも、普段2位の私が2桁を取り始めて、興味を持っているらしい。
数学、国語、英語の3科目の模試を終わらせ、私達は文化祭について話すことになった。
「鈴岡ー、ちょっと来い」
「なんでしょう」
私は先生に呼ばれ、まとめ役を頼まれた。
「ほとんどの流れは鈴岡に任せるから、頼んだぞ」
普段無気力の先生が自ら話を進めるはずがないと思っていたが、まさかここまでとは。
本当になにもやる気がないんだなと肩を下ろす。
それでも任せてくれたという事実が嬉しくて、私は資料を受け取り、笑顔で肯定の返事をした。
「任せて下さい」
私は脱力しているクラスメイトの前に立ち、静かにするように要請する。
「今から文化祭について話し合いたいと思います」
なにかやりたいものの案がある人いませんか、と私はみんなに問いかける。
みんなテストの悪さからなのか、やる気のない目を私に向けてきた。
分かっていたけれど、教室が静寂に包まれる。
喉まで上がってきた溜め息を、私は押し殺す。
みんなの前で溜め息なんて、嫌味のようだ。
私は偽りの笑顔を貼り付け、もう一度訊ねた。
「なんでもいいの、やりたいこととか、したいことでも」
なるべく明るい声で言うと、1人の明るい女の子が「お化け屋敷なんてどうですかー」と鏡で自分の顔を確認しながら言ってきた。
苛立ちの矛先が彼女にいく前に、私は黒板にお化け屋敷と書いて、他の案を聞いてみた。チョークの端が少しだけ粉々に壊れた。
彼女が言ったからか、他の人も色々と出してくれて安心だ。
こういう時はいつも高嶺君が発言をしている。私は窓側の席になった彼に視線を向け、助けを求めようとしたけれど、高嶺君は頬杖をついて、雨の降りそうな空を眺めていた。
開いていた窓から入り込んできた風が、彼の髪をさらさらと靡かせた。
一通り集まったところで、多数決を求め、私はもう一度声を上げる。
「じゃあこの中から、やりたいものひとつ選んで手を挙げてください」
全ての票を集め終え、集計したところ、このクラスは接戦でカフェをすることになった。
女子は男子に可愛い姿を見せようと思っているのか、髪型どうしようなどと自分の世界に入っていた。さっきまでなにもやろうとしなかったくせに。
私は誰にも聞こえないように小さな溜め息を出した。
「このクラスはカフェに決まりました、異論ないですか?」
「ありませーん」
1部の男子が返答してくれて、私は自分の仕事をこなし終えた。
「先生、決まりました」
クラスにも来ず、職員室でコーヒーを飲んでいた私の担任は、本当にだらしない。
「おお、早いな。助かったよ」
「私たちのクラスはカフェになりました。大丈夫ですよね?」
私はお金の問題など考えずにクラスのみんなに聞いていた事を思い出し、緊張の糸を張り巡らせる。
「準備費で収まるならなんでもいいぞー」
その準備費がいくらなのかを教えて欲しいのに。私が聞く前に教えてあげるという気遣いはできないのか。
私は握っていた資料にしわを作る。
「準備費はいくらくらいですか?」
「大体1万から2万くらいだと思うけど」
大雑把すぎるにも程がある。
1万から2万って、結構な差があるというのに。
誰もがやる気なく、私までもが面倒くさく感じてくる。私が頑張っても、ついてきてくれる人は極わずかなのが、目に見えてしまったから。
反論する事さえ億劫になった私は、先生にお礼を言って職員室を後にした。

すでに解散していたクラスメイトに挨拶をして、私は屋上に向かう。
錆びた扉を開けると、耳を刺激する甲高い音が響き渡る。
「高嶺君…!」
いつもはキャンパスを立てて絵を描いている彼が、ベンチに座りながら青空を眺めている姿はとても珍しかった。
一緒に海へ行ったあの日以来話していなかったため、話すのが久々だった。
せっかく連絡先を交換したのだから、なにか送ろうと悩んだ末、迷惑をかけてしまうのではないかという葛藤から変化することなく、夏休みが終わっていた。
「…鈴岡」
いつもはっきりしている彼が、歯切れの悪い言い方をしてきた。
「どうかしたの?」
「いや、なんでもない」
彼はすぐに目を逸らし、青空を眺め始めた。
まるで、最初の彼と話しているみたいだ。
彼の目には、光がなかった。
「なあ鈴岡」
私は首を傾げ、言葉の続きを待った。
「少しの間、屋上に、来ないで欲しい」
彼の言っている事が理解出来ず、私は口をぽかんと開けてしまう。
「ど、どういうこと?」
冷静を保っているように見せるために、私は彼に理由を問いただした。
「ただ、来ないで欲しいんだ」
そんな説明で、わかったなんて言えるわけがない。
どうしてこんなにも拒絶されているのだろう。
なにか私が悪い事をしたなら、言って欲しい。
だからどうか、拒む事だけはやめて欲しい。
そんな私の願いは叶う事無く、彼はそれだけを告げて屋上を後にした。
まるで台風のような出来事に困惑する。
私達が出会った日は綺麗な桜が咲いていたけれど、今は誰にも見られない緑色の葉へと変化し、いつの間にか地面に舞い落ちていた。
まるで、私と高嶺君みたいだ。
私はなにも考える事が出来ず、彼が座っていたところに座った。彼が見ていた世界を確認したかった。けれどやっぱり、いつもと変わりない。
彼の世界だから、世界はあんなにも美しく写っているんだろうなと美桜は思った。
でなければ、あんなに美しい作品を描く事は出来ないだろう。
「どうして…」
どうして、彼は私を拒んだのだろう。
私の頬に、一筋の涙が流れる。
それは留まることを知らずに、次々と溢れ出てきてしまった。
私は握り拳を顔に当て、小さく嗚咽を吐いた。
いつもは私達2人を照らす太陽が、今日は黒い雲によって閉ざされていたのだった。

高嶺君から拒絶されたあの日から、1週間が経った。一緒に過ごしていた時の1週間はあっという間だったのに、今週はとてつもなく長く感じた。
私の席は廊下側で、彼は窓側という、話しかけずらい場所になってしまった。
席替えする前は、たまに授業中に話したりしたけれど、今はそれすらも無くなってしまっている。
彼は起きている時の方が少ないのだけれど。
数学担当の先生の、眠くなるような内容が、左から右へと通り過ぎる。
私は手に顎をのせ、目だけを彼の方へと向けた。私を悩ませている張本人はすやすやと眠っている。
ほとんど毎日、夜勤のバイトをしていると言っていた。いつも授業中に寝ているのはそのせいだと。
彼は将来、親に迷惑をかけないように今から働いてお金を貯めておくと教えてくれたけれど、私が彼の生活をしたら、確実に単位を落としていただろう。彼が産まれ持った才能が、彼自身をあんな風に苦しめているのではないのだらうか。
私はその考えをすぐに頭の中から消した。たとえ彼が教科書を見ただけで内容を理解できる能力を持ち合わせていなくても、彼は自分の身を削ってまで、努力していただろう。
彼は、そんな芯を持っている人だから。
突然数学の先生がチョークを思いきり置いて、彼の元へずかずかと歩いていった。
私は驚き、手から頭を離して、2人の状況に見入ってしまっていた。
「高嶺!なんだその態度は!」
そういえば、数学の先生は歳はいっているけれど今年から配属された人だと言っていた気がする。私の担任のことだから、高嶺君の事情を伝え忘れているというのも過言ではない。
他の生徒達も、彼らを見つめている。
高嶺君は目を擦りながら起き上がった。場違いかもしれないけれど、それすらも可愛いと思い、軽く口元がにやけてしまう。
「ふわぁ、なんですか」
欠伸をしながら返答した彼を見て、さらに先生は顔を赤くした。怒りの籠った彼の声が、先生の声と対決する。
「なんですかとはなんだ!先生に向かって!失礼だと思わんのか!」
「俺の事情も知らないで」
初めて聞く、彼の怒りのこもった低い声。
彼はいつも寝ているけれど、先生に反抗したことは1度もなかった。他の先生は彼の現状を理解していたし、彼が寝ている事に対して明らかに甘かったのもたしか。
彼は椅子を思いきりしまい、ものすごい大きな音を立てて教室を出ていった。
みんなも、彼のあんな姿を見るのが初めてだったから驚いていた。もちろん、私も。
クラスメイトは、授業の妨害をしないからという理由で今まで高嶺君がいくら寝ていてもなにも言ってこなかった。しかし今回はいつもと違う。彼が反抗し、教室を出ていったというのを目の当たりにしたのだ。
先生は先程よりも赤くなった顔を彼に向け、暴言を吐いた後授業へと戻った。
彼を追いかけたい。それでも、私自身は彼に拒まれている。どうすればいいのだろうか。
私は結局答えを出せないまま授業の終わりを迎えてしまう。6限目を終わらせた私達には、遊ぶ時間などない、文化祭の準備を始めなければならないのだ。
私は彼を引き戻すために彼の元へ向かおうとするけれど、誰かが私の足を止めた。
「美桜ちゃん」
私の名前を呼んだのは久美だった。
「どうしたの?」
私は彼を探したいという気持ちを押し殺し、彼女の問いかけを待った。
「文化祭でやるカフェについてなんだけど」
私はすでにいくつかのグループに分けていたのだ。そこで決めても争いの元になるのは目に見えていたし、仲良い子同士でやったら話しておわりになりそうだなと考えたからだ。
久美は装飾係。たしか高嶺君も同じ係だった。彼が選ばれた理由は多分、身長が高いから高いところの装飾をやりやすくするためだろうと勝手な想像を膨らませる。
久美は装飾の費用と、場所を私に相談してきて、私はそれに指示を出した。
その後もいくつかの生徒に質問されたけれど、全部手紙で確認できることなんだから、そっちで見て欲しい。私はあなた達のためにいる存在じゃないのだから。文句の言葉が、私の頭の中を駆け巡った。それでも、必ず最後には「ありがとう」とか「さすが美桜」と言われるだけで、貼り付けの笑顔を簡単に作ることができる。我ながらちょろいなと感じた。
みんなが自ら進めようとしてくれたのがありがたい。私は少し落ち着いた時間に入り、一息つくことが出来た。
私は高嶺君を探しに、彼が行きそうな場所を目指した。私が屋上に向かうと少しだけ扉が開いていたことから、彼はここにいると考え、私はドアノブを握る力を緩める。
もし、また拒まれたらどうしよう。
でも、これは文化祭に関わる大切な事だから私だろうが関係ない。仕事として、話しかけるだけだ。私は心の中で現実から逃げていた。
私は深呼吸をして、意を決してドアを開けた。
そこには、先週と同じように空を眺める彼の姿があった。
「高嶺君…」
「…来るなって言っただろ」
「そうなんだけど…文化祭についてのことで」
昔の高嶺君と話している気分だった。怖くて、怒っているような。でももう私は知っている。彼がとても優しいということを。
彼は私の名前を呼び、私の言葉を遮る。
「鈴岡」
「…なに?」
私の声が少し震えていた。彼が今から言う事が、わかってしまったから。
「もうお前と話したくない」
彼は冷たい目をこちらに向けた。その瞬間、私は身動きをとれなくなってしまった。
私の知ってる、高嶺君じゃないと思った。
私の口から、言葉が出てこなかった。
ただ震えを抑えることに全てを費やし、彼の続ける言葉に耳を傾ける。
「屋上にも来ないで欲しい」
―鈴岡がいたければ好きなだけいるといい―
そう言ったのは、そう言ってくれたのは、君なんだよ?
あの時は、まだお母さんとあんまり良くなくて、いつも成績について言われてて心が折れそうだった。
でもあなたがこの言葉をくれたから、私は前よりも、上を向いて歩けている。
今思えば、屋上が好きだったんじゃなくて、あなたといるこの時間が、とても好きだったんだと私は思う。
私の頬には、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「なんで…」
理由を教えて欲しい。私が、今までみたいにここに来てはいけない理由を。
私の涙を見た彼は、目を見開いて、少しだけ体をこちらに向けた。
でも、それ以上の言葉はなかった。
言いすぎたとか、ごめんとか、謝罪は求めていないけれど、ただ何も言わず、俯いていた。
まるで自分の体じゃないみたいに、私の体は動き出していた。屋上を飛び出し、廊下を走って、走って、走り続けた。
いつも優等生の私が、廊下を走るなんて行為をするはずがなく、心の中には小さな罪悪感が生まれた。
息が続かなくなり、立ち止まった教室は、不運なことにも美術室だった。
私は膝に手をつき、呼吸を整える。
頬の涙を袖で思いきり拭き、美術室に入った。
幸いな事に、今日は誰1人いなかった。
こんな姿を見られなくて済んだ私は、胸をなで下ろす。
里音や百合とも上手くいかず、悲しんでいた私に寄り添ってくれたのはいつも、高嶺君だった。彼は小さく、それでも太い私の心の支えだったのだと、失ってから気付いた。
大切なものは、失ってから気付くものだとよく聞くけれど、私は今、身に染みて感じた。
例を言うなら、水。これは当たり前に存在しているけれど、災害などに遭い、水すらも手に入れられない時が来たら、その人は初めて水の大切さを知るだろう。
私は席に腰を下ろし、美術室全体を観察した。
今、なにかに没頭しなければ、涙がさらに溢れ出てしまいそうだったから。
木の匂い、絵の具の香り、筆の数。
少し汚らしい感じが、私は好きだった。
机に絵の具が付いていても、これは努力の証だと思うし、筆の先がばさばさしていても、一生懸命描いたんだということが伝わるから。
そして私は、彼の絵を見つめる。
彼の目には、私達があんな風に見えていたんだと思うと、嬉しかった。なぜなら、絵の中の私達の周りには、桜の花びらが舞っているし、2人とも笑顔だから。幸せそうだったから。
そう思うだけで、私の心は救われる。だからこそ、今彼が私を嫌う理由を見つけることが出来ないのだ。
時計を確認すると、もうすでに4時を過ぎていた。私は5時から塾があったのを思い出し、急いで美術室を出た。
教室が、夕日に照らされていた。

月日が流れ、私達のクラスは文化祭の1週間前を迎えた。残り1週間と言っても、明後日から連休に入ってしまうため、準備期間は今日と明日と前日の3日間だといっても過言ではない。毎年文化祭前は休日が続くので、今日から文化祭までは、準備のために登校するという定になっているらしい。
正直に言うと、最悪な状態だった。
みんなカフェだから〜とか言って、何一つやろうとしない。
強いて言うなら、装飾係だけがしっかりやってくれていた。教室をカフェのように見せるために、色々な飾り物を作ってくれたり、とても助かっている。
意外なことに、装飾係を引っ張ってくれているのが久美だったのだ。何故だか分からないけれど、久美が最近明るくなり、前よりも楽しそうな日々を過ごしているのが見ているだけで伝わってきた。
どうしてなのか問い詰めようとするけれど、いつも誤魔化されてしまう。
そして高嶺君は、久美とよく話すようになった。同じ装飾係という事もあるけれど、それ以外でも話しているという事を久美本人から聞いていた。
私とは話さないくせに、久美とは話すんだという嫉妬や悲哀の感情が心の中を渦巻いた。
「高嶺君って、美術部なんだね〜」
眼鏡越しの彼女の目は輝きに満ちていた。
彼女は最近、高嶺君の話しかしなくなった。
それに、彼が美術部という事は、私の方が前から知っていた。そんな変なプライドを心の中で唱える。
それに、彼が美術部だということは不思議な事にあんまり知られていない。
その中で久美が彼の口から聞いたのだったら、相当仲良くなったのだろう。
私は無意識の内に爪を手のひらに食い込ませていた。刺激が足りないと思い、少しだけ強くすると、思った以上に痛くて、顔を顰める。
久美が心配してくれたが、私は偽りの笑顔を貼り付けて、大丈夫だと答えた。
てのひらを確認すると、少しだけ血が出てきてしまっていた。
私は御手洗に行くと伝え、彼女のもとを去った。あれ以上一緒にすると、罪のない久美を妬んでしまう。羨ましいと思ってしまう。そう思ったから。
久美は眼鏡をしているけれど、凄く可愛いのだ。一般的にいう可愛いとは違うかもしれないけれど、彼女が放つオーラというのだろうか、それがとても安心する。優しさに満ち溢れているから、一緒にいて落ち着くのだ。
私は手を洗って血を流し落として、久美のもとに戻ろうとした時だった。
教室に入るドアから見えた、2人の姿。
久美の机に、高嶺君が隣に立って何かを話している。恐らくだけれど、彼から久美の所へ行ったのだろう。
私がこの場から逃げようとした時に、ちょうど久美が私に気付いてしまった。
彼女には私が高嶺君のことを好きだと伝えているから、気を遣ってくれたんだと思う。
「美桜ちゃーん!」
彼女は笑顔で私に手を振ってくる。
久美の言葉に、彼が瞬時に反応して、私を見てきた。久しぶりに彼と目があった気がした。
そう思ったのも束の間、彼は目を泳がせ、すぐに逸らした。その後、久美に挨拶をしてその場から離れていってしまった。
私は泣きそうになるのを必死に抑え、彼女のもとに戻った。
好きな人から避けられるというのは、こんなにも辛いんだと、私は初めて知った。
「…ただいま」
「おかえり、美桜ちゃん」
久美は何かを察したのか、少し気まずそうにしていたけれど、意を決したのか、私に訊ねてきた。
「高嶺君と、なにかあったの?」
こんなにも避けられていて、なにもない方がおかしいと思ったけれど、彼女に心配させるわけにもいかなかったので、私は心の中で葛藤した末、言わないという方を選んだ。
「別に、なにもないよ」
「…そっか」
彼女は、少し悲しそうな顔をしながら笑った。
「あのね、美桜ちゃん」
「どうしたの?」
彼女の雰囲気からして、とても大切な事なんだというのが肌で感じた。
私は唾をごくりと飲む。
「私ね、実は」
彼女が勇気を出して言おうとした時だった。
「鈴岡ー、ちょっと来い」
この前と同様、急に現れた先生は、私は呼んで久美の話を遮ってしまった。
「ごめん久美、後ででも大丈夫?」
「うん!全然!」
私は彼女に謝罪のポーズを見せ、先生のところへ向かった。
「どうかしたんですか?」
「みんなのやる気のなさ、どうにかなんないのか?あと3日だぞ?」
先生はなにもしないくせに、文句だけを私にぶつけてきた。
だったら先生から言ってよ、という言葉が頭に過ぎる。
私は溢れ出るため息を精一杯戻しこみ、すみませんと告げた。私が悪いわけじゃないけど、謝るのが手っ取り早いというのを学んだから。
「俺の期待を裏切らないでくれよ」
先生はため息まじりの台詞を私に言った。ため息をだしたいのは私だ。そっちが勝手に期待しただけで、私はなにも裏切るという行為をしていないというのに。
それでも、優等生の私が反抗することなんてなく、ただひたすらに謝った。
先生は皆に一言も言わず、教室を後にした。
「ごめん、久美」
「おかえりなさい」
「それで、言いたい事って?」
お昼休みの今、私達は準備をせず自由に過ごしている。お昼休みじゃなくてもやらない人はいるけれど。
「…言っても、怒らない?」
「怒らないよ」
怒りたくても、怒れなくなってしまったのだ。
「私、高嶺君の事、好きになっちゃったみたいなの」
「え…?」
「ごめん、奪いたかったわけじゃないの」
ほんとに好きになるつもりはなかった、美桜ちゃんが高嶺君を好きだと聞いた時、全力で応援しようとしていたと、早口で付け加えて。
最近の久美が楽しそうながら、やっと分かった。全ての行動に合点がいった。
「今回話し始めて、美桜ちゃんが高嶺君を好きになる理由が分かったっていうか」
理由が分かったから、好きになったっていうの?
私は訳が分からなかった。
どうしてそんなに、友達の好きな人を好きになることが出来るのだろうか。
私の心の奥底に閉まっておいた記憶が、走馬灯のように駆け巡ってきた。
鮮明に覚えている、苦い思い出。
私が中学3年生の時、本当に好きな人がいた。
彼は優しくて、面白くて、でもちょっぴりドジで、そこがまた愛おしくて。
今思えば、特別じゃなかったというのは分かっている。それでもその時の私は、勘違いをして、自分が特別にされていると思ってしまっていた。彼の視線をたまに感じる時があって、勝手に期待する日もあったくらいに。
彼の事は中1の時から好きで、それは幼なじみである遥香にしか言っていなかった。私は今まで異性を好きになった事がなくて、いわゆる初恋というやつだ。最初は外見で好きになったけれど、今は内面も大好きだと言いきれた。
初めての恋に戸惑うこともあったけれど、毎日彼のために頑張ろうと思えた日々だった。
遥香も私の初恋を応援してくれていたし、私も彼女の事を信頼していた。
だからこそ、私は彼女の気持ちに気付くことが出来なかった。自分の視野がとても狭くなっていることにすら、気付けていなかったのだ。
ずっと片思いをして2年が経ち、私と遥香と、好きな人が同じクラスになった。
私は喜び、遥香も同じように喜んだ。
人間関係は作ることや保つことは大変だけれど、壊れるのは一瞬だということを、身に染みて感じた瞬間だった。
「ねぇ、美桜」
「どした?」
「実はね、私も、彼の事好きになっちゃったの。美桜が彼の事好きだって言ってくれた時から、私も意識するようになっちゃって…」
私は彼女がなにを言っているのか理解出来なかった。遥香は涙目になりながら、続けて話そうとする。泣きたいのは私だったのいうのに。
「それでね昨日、彼から告白されちゃって」
彼女の頬に涙が零れる。どうして、遥香が泣くのだろうか。
お願い、続きを言わないで。
そんな私の微かな願いは、遥香の言葉で壊された。
「付き合う事になったの」
当時の私は、その時の出来事が1本で繋がった感覚に陥った。
彼がよくこっちを見ていたのは、私でなくて遥香を見ていたという事。
遊びに誘ってくれたのも、遥香が一緒に来ることを知っていたからだという事。
私の所へ来てくれた時は、必ず傍に遥香がいたという事に。
その全ての事を悟った私は、遥香と言い争ってしまい、今も疎遠になっている。
その時から私は、大切な友達と好きな人が被った時、どうすればいいかを考えていた。
でも、私は思う。
実際、恋愛したら、そのような心の中の考えなんて忘れてしまうのではないかと。
自分が好きになって、その人と結ばれたいと思うように、もう1人の子も、そんな人と結ばれたいと思うのは、自分が1番理解出来るのではないだろうか。
被ってしまったのなら、お互いを蹴り落とすのではなくて、助け合い、報われた方を祝福すればいいと。
でもこんなのは持論に過ぎず、現実はそう上手くいかない。
昔の私の行動が、正しいとも誤っているとも思わない。
人生に正解などないのだから。
自分がその時選んだ道が誤っていると思うのなら、今後の糧にすればいい。
自分がその時選んだ道が正しいと思うのなら、その思いを忘れずに生きていけばいい。
恋愛というものは、たくさんの学びや楽しみ、辛さがある事を知った3年間だった。

誰にも話していない過去が、激流のように、鮮明に流れ込んできた。
「…美桜ちゃん?」
「あ、ああ。そっか」
私は冷静を保とうと努力するも、なかなか上手く呂律が回らない。
「それでね、提案なんだけど」
彼女の言う“提案”というものが、どんなものなのか想像つかなくて、怖かった。
「私は今、高嶺君と上手くいってて、美桜ちゃんと高嶺君は上手くいってないじゃん?」
私の知ってる久美じゃなくなっている気がした。恋というのは、こんなにも人を変えてしまうというのか。
「だから、私文化祭で告白する。美桜ちゃんには、応援してほしい」
彼女の真剣な目が、私を、私だけを捉えていた。逸らすことの許されない、恐怖の時間だった。
彼女は、私が断れない性格だというのを知っていて言っているのだろうか。
「え、っと…」
「美桜ちゃんには、報われて欲しい。だから新しい恋を探そ?」
どうして、久美にそんな事を決められなければならないのだろうか。そう、不思議でならなかった。
先に好きになったのは私だし、彼女が真似をしたというのに。
中学以来、私は友達に反抗した。
「ごめん、私も好きだから、譲れない」
「…え?」
久美は目を見開いた。彼女は、私が絶対首を縦に振ると思ったのだろう。
でも、私だって人間だ。欲求だって感じる。
「私だって、諦めたくない」
私ははっきりと、彼女の目を見てそう答えた。
「どうして?!今仲良くないんでしょ?!」
まるで別人のように、彼女は怒り狂った。
久美の声は、今まで聞いたことないくらい大きくて、教室中に響き渡り、みんなの視線が集まった。
これ、私が悪いみたいになるじゃない。
そう思った私は、久美に場所の変更を申し出た。彼女の手首を掴んで連れていこうとしたら、思いっきり振り払われてしまった。
「美桜ちゃん、なんでも持ってるくせに」
急になにを言い出すんだろう。
私は眉間にしわを寄せる。
「どうして全部もってるくせに、私の大切な人も取ろうとするの?」
私の大切な人って…。反吐が出そうになるくらい、彼女の言動は理解出来なかった。
私の方が先に好きになったというのに。
取ろうとしてるのはあなたの方じゃない。
視界の中に高嶺君がいて、こちらを見ていた。
表情までは読み取ることが出来ないけれど、自分が原因で争っているとは1ミリも思っていないだろう。
久美は周りの反応も気にせず、黙っている私を前に言葉を続ける。
「みんなからの信頼もあって、いつも輪の中心にいて、成績も良くて」
私だって、努力して手に入れた地位なんだということを分かって欲しい。
偶然に、手に入ったわけではないという事を。
でもそれは、彼女に言っても伝わらないんだろうなと私は思った。
だからこそ、私はなにも言わない。
それに、昔みたいに反抗したら、もう二度と、話す事がなくなってしまうかもしれない。こうやって言われているけれど、久美は私にとって大切な友達だ。だからこそ失いたくない。
みんなの視線の先には、私達がいる。
教室中に小さな囁き声がいくつもあった。
久美ってあんな子だったの?とか、美桜ちゃん大丈夫かなとか。
今までの信頼度的に、私が有利になってしまうのは分かりきっている事だった。
そして、私達だけだった世界の結界が、1人のクラスメイトによって壊された。
「久美ちゃん、この空気どうしてくれんの?」
呆れ顔をした一軍の女の子達。
久美は、はっと我を返したのか、少しずつ目を泳がせていく。
さっきまで強気だった彼女の肩が、どんどんと小さくなっていくのが見ていて伝わった。
一軍の女子達にはいつも宿題を見せてあげてるし、休日もたまに出かける仲だから、仲裁に入ってくれたと思いたい。
友達だから、来てくれたと素直に思えたらどんなにいいか。私の頭の隅には、里音の言葉がずっと住み着いていた。
―奴隷的な?―
頭の中でこの言葉を反芻してしまったせいか、小さな立ちくらみが起こる。
私は机に手をつき、自分の体を支えた。
「ご、ごめんなさ」
「うちらの文化祭、台無しにするつもり?」
みんな彼女達には頭が上がらない。暗黙のルールのようなものが、ここには存在していた。
たしかに、久美の言動がこのクラスの雰囲気を明らかに暗くしていた。それでも、もともとあなた達だって話しながら準備もしていなかったじゃないか。
「ち、ちが!悪いのは美桜ちゃんだもん!」
彼女の人差し指が、私の顔を指した。
リーダー的存在の愛莉が、顔を向けず、瞳だけこっちに動かした。
愛莉は大きなため息をついた。久美の肩がびくりと震えた。
「見てる限り美桜悪くなくね?あんたが勝手に怒鳴ってただけじゃん」
愛莉は、鼻で嘲笑うような顔をした。
久美は黙り込み、下唇を噛んでいた。
そして、この場の空気を負けたのか、教室を出ていってしまった。
1粒の涙と、「美桜ちゃんのこと、本当はずっとずっと嫌いだった」という言葉を残して。
私が昔、高嶺君に言ってしまった言葉が、頭の中で再生される。
あの時の私は感情に身を任していて、言っていけない事を言ってしまったと後悔した。
あの時は私が彼に言った側だったけれど、言われる側になるとこんなにも辛いのかと思った。
彼は私に悲しませないために、気にしていないふりをしていたのではないかと。
高嶺君を羨ましいと思っていた私が、彼に告げた言葉。
私を羨ましいと思っていた久美が、私に告げた言葉。
人はみな、自分には持ってないものを持ってる人間を羨ましいと思い、互いに嫉妬するのだろうと私は思った。
去っていった彼女を追いかけるべきなのか、クラスに残るべきなのか。
私の頭の中ではそんな2択を問われていた。
私も悪かった。すぐに、言ってくれてありがとうと、お互い悔いが残らないように頑張ろうねって、言えてたら。
そしたら、遥香とも違う未来が開かれていたかもしれない。
また、同じ過ちを繰り返していたのだ。
人は、次に失敗しないように1度の失敗があるというのに。
私がこの場を立ち去って追いかけようとした時、誰かが私の肩を抑え、前に出た。
「高、嶺くん」
どうして、あなたが追いかけようとするの。
久美の事、好きなの…?
あんなに必死な顔、初めて見た。
私の知らないあなたの瞳には、久美が写っているんだね。
まるで、心に大きな穴がぽっかり空いたような感覚になった。
さっきまでひそひそと話していたみんなが、今度は驚きの声を発した。
「なんで高嶺君が?!」
「高嶺君って久美ちゃんの事好きなの?」
やめて、それ以上、言わないで。
中学のトラウマが頭に蘇る。また、友達と好きな人が結ばれる未来を想像してしまった。
みんながその言葉を言う度に、それが事実と認識していく脳を、私は大きく揺さぶる。
「てかさ、美桜」
愛莉のいつもより低い声が、教室を静寂に包ませた。
「里音から聞いたんだけど、あんた里音の好きなやつ奪ったんだってね」
さっきまで、味方のように話していた彼女が、まるで悪女のように見えてしまう。
愛莉の里音は中学からの親友だと、去年里音から聞いていた。そこから私も愛莉と話すようになり、今年同じクラスになれたというわけだ。
「さっき久美ちゃんの事言ったけどさ、ほんとは両方あんたが悪いんじゃないの?」
「え…?違う!私はただ…」
ここで、高嶺君の名前を出すわけにはいかない。これ以上嫌われないためにも、迷惑をかけちゃいけないんだと、心に植え付ける。
「ただ、なに?」
愛莉は腕を組み、私に話を続けるように顎でくいっと命令してきた。
「……」
私は次の言葉が見つからず、黙り込んでしまった。これを肯定だと受け取ったのか、愛莉の顔が崩れた。
「里音悲しんでたんだからね、ほんと最低」
横にいた彼女の友達も「人の好きな人奪うとかありえな」と続けて言ってきた。
クラスのみんなも、愛莉の言葉を聞いてから、私に向ける視線の意味が変わってきた。
心配の目から、引き気味の目へと。
私の言葉が、喉の奥で詰まっていた。
反論したいけれど、声がでない。
「あんたなんか最初から友達じゃないから」
鼻で笑った彼女は、私を睨んでから教室を後にした。
残された私と、最悪な空気。
「みんなごめ」
私がみんなに謝罪をしようとしたけれど、誰も私の方を見ていなかった。
ほんの一瞬で私が空気のようになった。
頭が真っ白になり、なにも考えられなかった。
今まで、ずっと私を頼ってたじゃん。
今まで、ずっと私と仲良くしてたじゃん。
今まで、みんなが困った時助けてたじゃん。
たくさんの私の努力の積み重ねが、水の泡となった瞬間だった。
私を無視して、みんなは先程までサボっていた文化祭の準備をし始めた。
私がお願いした時、やらなかったくせに。
どうして私の人生は、小説の物語のように上手くいかないのだろうか。
私はこんなにも頑張っているというのに。
教室の雰囲気に耐えきれず、私も教室を後にした。

他のクラスの楽しそうな声が、私の耳に入ってくる。本当なら、私がもっと上手くやっていたら、みんなの思い出があんな風に楽しいものになっていたというのに。
私は1人廊下を歩く。
ローファーの踵の音が、静かな道に音を咲かせた。
どうすれば正解だったのだろうか。
中学の過ちと、今回の過ちを繰り返しても尚、正しい答えが分からないままだった。
行く宛てを考えずに歩いていた私は、徐々に人気のないところに来ていた。
生徒の声がすでに聞こえなくなっていて、私は目の前にある空き教室に入って時間潰しをしようと考えた刹那。
廊下から開ける事の出来るスモークガラスの窓に、2人の人影が映っていた。
ほとんどの生徒は文化祭準備であろうと空き教室を使わないので、幽霊かと思った私は、教室の扉をゆっくりと開けた。
そこには、私が1番見慣れている2人の姿があった。
何かを話しているけれど、会話は聞き取れなかった。
私は急いでその場を後にする。
誰も来ないであろう東棟の階段に、ずっと座っていた。高嶺君が来てくれると、久美の時と同じように追いかけてきてくれると、小さな期待を込めて。スカートに、1粒の涙が零れ落ちたのだった。