高嶺君にさよならを告げた頃には、既にもう夜の帳が降りていた。
それにしても、今日は色んな事があった。
彼と話した事や、学校で禁止とされている屋上に入ったこと。
彼はいつ帰るのだろうか。もう既に日は落ちているから、さすがにもう帰らないと親から怒られるだろうに。
いつもより時間の流れがとても早かったのは、きっと屋上が心地良かったからに決まっている。
学校から家までは歩いて15分程度。
いつもはもう少し明るくて通行人が2、3人いるが、今日は誰1人いない。
春とはいえ、寒がりである私にとって夜は肌寒い。私は自分の息で両手を温める。
耳にイヤホンを差し込み、お気に入りのリストから適当に曲をタップして流す。
帰りたくないというのが、本音。
あんな息が詰まる場所、帰りたいなんて思う方がおかしい。
いや、おかしいのは私の“家族関係”の方か。
家に帰りたい人だっているよね。
それとは反対に帰りたくない人だっている。
私が後者だっただけの話。
私は少しだけボロくなったローファーで、石ころを蹴る。永遠に出てくるため息も、この石ころのように蹴り飛ばせたらいいのに。
私の家を一言で例えるなら、私は即答で鳥籠と答えるだろう。
私のお母さんは、子供への束縛と勉学に激しい。
まるで操り人形のように私を操作する。
私と母を繋げている糸は、とても強力で、切る事が難しい。
それでも反抗出来ず、いい子を演じている私は、足を止める方法を知らないまま、家の前へと辿り着いてしまった。
「…ただいま」
「ちょっと美桜、いつもより遅いじゃない、遅くなる時は連絡してっていつも言ってるでしょ」
まったくと言ってお母さんはため息を零した。
「ごめんなさい」
いつもこうだ。何かと文句を言って私を謝らせる。反抗したとしても「親に対してなんて言葉を使うの!」と、親と特権であるセリフを使うだろう。だからこそ、私はなにも言い返したりせずに謝って済ませる。それが一番の有効な手段だから。
「夕飯はもうテーブルに置いてあるから。食べ終わったら他の食器も洗っといてちょうだい」
お母さんは服を着替えながら、私なんて見る気もせずに淡々と告げた。
「ねぇお母さん、私ね小テストで」
「後にしてくれる?お母さん忙しいの」
「…わかった」
私は学校と同じ偽りの笑顔をお母さんに向けた。迷惑がかからない完璧な“娘”でいなくちゃ。私のお姉ちゃんは高校卒業してから一人暮らしを始めた。そこから大学に通っていて、とても入ることが難しい偏差値の高い大学に受かったから、親戚からもたくさん褒められているのを見てきた。勉強も出来て、お母さんから貰った綺麗な目と鼻、お父さんからもらった身長の高い綺麗なスタイル。妹からみても自慢の姉だし、私にも優しくしてくれる、大好きなお姉ちゃん。それでもね、やっぱり、比べられるのは辛い。私だって頑張ってるのに、お姉ちゃんはさらに上の成績をとるから、私が頑張っていないみたいになってしまう。
いつもパートで忙しいのもわかる。家事もやってくれて、仕事もしてくれて、私が安心して暮らしているのは、お母さんの存在が大きいのだって、分かってる。
それでもね、私はただ、褒められたいだけなんだよ。この小テスト、クラスで2人しか満点じゃなかったんだよ、凄いでしょ?
「ちゃんと勉強しとくのよ、行ってきます」
「…うん、行ってらっしゃい」
気をつけてねと言おうとした私の言葉は、お母さんが閉めた扉の音によって遮られた。
私は部屋に荷物を置いて、制服から部屋着に着替えた後、お母さんが作り置きしてくれたご飯を電子レンジに入れた。
テレビの音だけが、私を包んでいる。
黙々とご飯を食べ、流れ続けているニュースを右から左へと流し通す。
「ご馳走様でした」
誰にも聞こえていなくとも、挨拶や礼儀は欠かさず丁寧に想いを込めて。
私のお父さんが良く言っていた言葉だ。この家族の中で唯一穏やかな雰囲気を身に纏っていたお父さん。自由奔放なお姉ちゃんに、いつも忙しそうなお母さん、そんなお母さんから褒められるために全てに一生懸命な私。
幼い時の記憶しかないけれど、曖昧な思い出でも優しさが伝わってくる笑顔を向けてくれているお父さん。
私もお父さんみたいな、本当の笑顔を誰かに向けられる日は来るのかな。
家族全員分の食器を片付けた後、自分の部屋に閉じこもり、引き出しから日記を取り出す。
やっぱり、ここは息苦しい。
私が小学校にあがると同時に、お父さんとお母さんが離婚して、お父さんが出ていく形になった。随分と長い間会っていない。残っているのは、昔みんなで行った動物園での集合写真。
私はこれを胸の前へと持っていき、目を瞑った。どうかもう一度、この家族がひとつになりますように、そう願って。
ベッドに寝っ転がりたい気分だったが、日記は1度でもさぼると続かなくなるから、疲労を担っている重たい体を動かして椅子に座る。
「えーと、今日は…」
高嶺君と初めてきちんと話したこと。
高嶺君が絵を描いていること。
高嶺君がみんなが言うほど怖い人じゃなかったということ。
高嶺君の事が、嫌いから苦手に変わったこと。
これからも屋上で、一緒に過ごせるようになったこと。
私は、今日あった出来事を書いていった。全て書き終わって伸びをする。背中の骨が少しだけ音を鳴らした。ふーっと深呼吸をして、横にある鏡で自分の顔を見てみたら、自然の笑みが出来ていて、自分でも驚いた。
心の底から、本当の笑顔を見せたのは、いつぶりだろう。
どうして自分が今、笑えていられているのか分からなかった。
彼のことを少しだけ知ることが出来たからだろうか。
どんなに考えても答えを出すことが出来ないと思った私は、体をベッドの上へと放り投げる。
いつも変化ない日々を送っていた私にとって、今日の出来事は衝撃すぎたため、体も疲れていたらしく、私はすぐ眠りに落ちる事ができた。
車のタイヤが急ブレーキを踏んだのか、とても甲高い音が、静かな空間に響き渡った。
あれ、私、なんで。
道路に叩きつけられたはずなのに、なぜか体に痛みを感じていなかった。
そして、誰かが私を包んで守ってくれた事がわかった。
私を守ってくれた女性。顔に靄がかかっていて、誰なのかわからないけれど、どんどん温もりが消えていくのが肌に伝わってきた。
どうしよう、どうしよう。
私が、私さえいなければ。
この人は死ななかったのに。
私が、殺しちゃったんだ。
その途端、私の周りの世界が崩れ落ち、暗闇へと変わった。
「どうか、あの子の事、よろしくね」
あの子って、誰の事ですか。
その子にとってあなたは、とても大切な人なんですよね、でも、私が奪ってしまった。
「そうだね、でも私がしたくてした事だから」
でも、私がいなかったら、あなたはその子との未来があったんですよね。
「あれが私の運命だったんだよ」
どうして、そんなにも簡単に“死”を受け入れられるんですか。
「……」
私を助けてくれた女性はなにも言わず、でも、少しだけ微笑んだ気がした。
私は思いきり起き上がった。
夢だった事に一安心し、安堵の息をもらす。
まだ太陽の光がカーテンの隙間から入り込んでいなかった。時間を確認すると、午前4時。
最近寝不足だったから、今日こそゆっくり眠れると思っていた私にとって、憂鬱な朝を迎えてしまった。
2度寝すると次に起きる時気分が悪くなってしまうのを分かっていたので、私はゆっくりと体を起こし、リビングへと向かった。
みんなまだ寝ていて、物音をたてないようにゆっくりと動き、毎日の習慣である白湯を飲んだ。
早起きも案外悪くないかもしれない。今日はちょっと早すぎたけれど。
私はマグカップを濯ぎ、部屋へ戻った後、今日見た夢について考えた。
あの女性は、一体誰だったのだろう。
夢にしては、現実味がありすぎていた。
あの夢自体、どういったものだったのかすら理解しがたい。
最近の私には、わからないものがありすぎている。頭がパンクしてしまいそうだ。
そう思っていると、カーテンの隙間から光が入り込んできた。
私は急いでカーテンを開け、ベランダへ飛び出す。そこには、さっきまで青く広がっていた世界に、オレンジ色のペンキを垂れ流したみたいな、そんな世界があった。
「綺麗…」
日の出を見たのは久しぶりだ。
確か前は、お父さんがいた時。みんなで温泉に行って、早く起きてしまった私に、お父さんが日の出を見せに連れて行ってくれた。
今は何をしているのかも、どこにいるのかも知らない私のお父さん。
いつも夜遅くまで起きてなにか作業をしていたが、今日は早く寝て早く起きれたので、いつもとは違う世界を知ることが出来た。
私は朝の清々しい空気を肺へと流し込み、使い古した二酸化炭素を流し出した。
なんだが気分まですっきりして、とても気持ち良い。
私は部屋に戻り、昨日解くことを忘れていた数学の問題にとりかかった。
それにしても、今日は色んな事があった。
彼と話した事や、学校で禁止とされている屋上に入ったこと。
彼はいつ帰るのだろうか。もう既に日は落ちているから、さすがにもう帰らないと親から怒られるだろうに。
いつもより時間の流れがとても早かったのは、きっと屋上が心地良かったからに決まっている。
学校から家までは歩いて15分程度。
いつもはもう少し明るくて通行人が2、3人いるが、今日は誰1人いない。
春とはいえ、寒がりである私にとって夜は肌寒い。私は自分の息で両手を温める。
耳にイヤホンを差し込み、お気に入りのリストから適当に曲をタップして流す。
帰りたくないというのが、本音。
あんな息が詰まる場所、帰りたいなんて思う方がおかしい。
いや、おかしいのは私の“家族関係”の方か。
家に帰りたい人だっているよね。
それとは反対に帰りたくない人だっている。
私が後者だっただけの話。
私は少しだけボロくなったローファーで、石ころを蹴る。永遠に出てくるため息も、この石ころのように蹴り飛ばせたらいいのに。
私の家を一言で例えるなら、私は即答で鳥籠と答えるだろう。
私のお母さんは、子供への束縛と勉学に激しい。
まるで操り人形のように私を操作する。
私と母を繋げている糸は、とても強力で、切る事が難しい。
それでも反抗出来ず、いい子を演じている私は、足を止める方法を知らないまま、家の前へと辿り着いてしまった。
「…ただいま」
「ちょっと美桜、いつもより遅いじゃない、遅くなる時は連絡してっていつも言ってるでしょ」
まったくと言ってお母さんはため息を零した。
「ごめんなさい」
いつもこうだ。何かと文句を言って私を謝らせる。反抗したとしても「親に対してなんて言葉を使うの!」と、親と特権であるセリフを使うだろう。だからこそ、私はなにも言い返したりせずに謝って済ませる。それが一番の有効な手段だから。
「夕飯はもうテーブルに置いてあるから。食べ終わったら他の食器も洗っといてちょうだい」
お母さんは服を着替えながら、私なんて見る気もせずに淡々と告げた。
「ねぇお母さん、私ね小テストで」
「後にしてくれる?お母さん忙しいの」
「…わかった」
私は学校と同じ偽りの笑顔をお母さんに向けた。迷惑がかからない完璧な“娘”でいなくちゃ。私のお姉ちゃんは高校卒業してから一人暮らしを始めた。そこから大学に通っていて、とても入ることが難しい偏差値の高い大学に受かったから、親戚からもたくさん褒められているのを見てきた。勉強も出来て、お母さんから貰った綺麗な目と鼻、お父さんからもらった身長の高い綺麗なスタイル。妹からみても自慢の姉だし、私にも優しくしてくれる、大好きなお姉ちゃん。それでもね、やっぱり、比べられるのは辛い。私だって頑張ってるのに、お姉ちゃんはさらに上の成績をとるから、私が頑張っていないみたいになってしまう。
いつもパートで忙しいのもわかる。家事もやってくれて、仕事もしてくれて、私が安心して暮らしているのは、お母さんの存在が大きいのだって、分かってる。
それでもね、私はただ、褒められたいだけなんだよ。この小テスト、クラスで2人しか満点じゃなかったんだよ、凄いでしょ?
「ちゃんと勉強しとくのよ、行ってきます」
「…うん、行ってらっしゃい」
気をつけてねと言おうとした私の言葉は、お母さんが閉めた扉の音によって遮られた。
私は部屋に荷物を置いて、制服から部屋着に着替えた後、お母さんが作り置きしてくれたご飯を電子レンジに入れた。
テレビの音だけが、私を包んでいる。
黙々とご飯を食べ、流れ続けているニュースを右から左へと流し通す。
「ご馳走様でした」
誰にも聞こえていなくとも、挨拶や礼儀は欠かさず丁寧に想いを込めて。
私のお父さんが良く言っていた言葉だ。この家族の中で唯一穏やかな雰囲気を身に纏っていたお父さん。自由奔放なお姉ちゃんに、いつも忙しそうなお母さん、そんなお母さんから褒められるために全てに一生懸命な私。
幼い時の記憶しかないけれど、曖昧な思い出でも優しさが伝わってくる笑顔を向けてくれているお父さん。
私もお父さんみたいな、本当の笑顔を誰かに向けられる日は来るのかな。
家族全員分の食器を片付けた後、自分の部屋に閉じこもり、引き出しから日記を取り出す。
やっぱり、ここは息苦しい。
私が小学校にあがると同時に、お父さんとお母さんが離婚して、お父さんが出ていく形になった。随分と長い間会っていない。残っているのは、昔みんなで行った動物園での集合写真。
私はこれを胸の前へと持っていき、目を瞑った。どうかもう一度、この家族がひとつになりますように、そう願って。
ベッドに寝っ転がりたい気分だったが、日記は1度でもさぼると続かなくなるから、疲労を担っている重たい体を動かして椅子に座る。
「えーと、今日は…」
高嶺君と初めてきちんと話したこと。
高嶺君が絵を描いていること。
高嶺君がみんなが言うほど怖い人じゃなかったということ。
高嶺君の事が、嫌いから苦手に変わったこと。
これからも屋上で、一緒に過ごせるようになったこと。
私は、今日あった出来事を書いていった。全て書き終わって伸びをする。背中の骨が少しだけ音を鳴らした。ふーっと深呼吸をして、横にある鏡で自分の顔を見てみたら、自然の笑みが出来ていて、自分でも驚いた。
心の底から、本当の笑顔を見せたのは、いつぶりだろう。
どうして自分が今、笑えていられているのか分からなかった。
彼のことを少しだけ知ることが出来たからだろうか。
どんなに考えても答えを出すことが出来ないと思った私は、体をベッドの上へと放り投げる。
いつも変化ない日々を送っていた私にとって、今日の出来事は衝撃すぎたため、体も疲れていたらしく、私はすぐ眠りに落ちる事ができた。
車のタイヤが急ブレーキを踏んだのか、とても甲高い音が、静かな空間に響き渡った。
あれ、私、なんで。
道路に叩きつけられたはずなのに、なぜか体に痛みを感じていなかった。
そして、誰かが私を包んで守ってくれた事がわかった。
私を守ってくれた女性。顔に靄がかかっていて、誰なのかわからないけれど、どんどん温もりが消えていくのが肌に伝わってきた。
どうしよう、どうしよう。
私が、私さえいなければ。
この人は死ななかったのに。
私が、殺しちゃったんだ。
その途端、私の周りの世界が崩れ落ち、暗闇へと変わった。
「どうか、あの子の事、よろしくね」
あの子って、誰の事ですか。
その子にとってあなたは、とても大切な人なんですよね、でも、私が奪ってしまった。
「そうだね、でも私がしたくてした事だから」
でも、私がいなかったら、あなたはその子との未来があったんですよね。
「あれが私の運命だったんだよ」
どうして、そんなにも簡単に“死”を受け入れられるんですか。
「……」
私を助けてくれた女性はなにも言わず、でも、少しだけ微笑んだ気がした。
私は思いきり起き上がった。
夢だった事に一安心し、安堵の息をもらす。
まだ太陽の光がカーテンの隙間から入り込んでいなかった。時間を確認すると、午前4時。
最近寝不足だったから、今日こそゆっくり眠れると思っていた私にとって、憂鬱な朝を迎えてしまった。
2度寝すると次に起きる時気分が悪くなってしまうのを分かっていたので、私はゆっくりと体を起こし、リビングへと向かった。
みんなまだ寝ていて、物音をたてないようにゆっくりと動き、毎日の習慣である白湯を飲んだ。
早起きも案外悪くないかもしれない。今日はちょっと早すぎたけれど。
私はマグカップを濯ぎ、部屋へ戻った後、今日見た夢について考えた。
あの女性は、一体誰だったのだろう。
夢にしては、現実味がありすぎていた。
あの夢自体、どういったものだったのかすら理解しがたい。
最近の私には、わからないものがありすぎている。頭がパンクしてしまいそうだ。
そう思っていると、カーテンの隙間から光が入り込んできた。
私は急いでカーテンを開け、ベランダへ飛び出す。そこには、さっきまで青く広がっていた世界に、オレンジ色のペンキを垂れ流したみたいな、そんな世界があった。
「綺麗…」
日の出を見たのは久しぶりだ。
確か前は、お父さんがいた時。みんなで温泉に行って、早く起きてしまった私に、お父さんが日の出を見せに連れて行ってくれた。
今は何をしているのかも、どこにいるのかも知らない私のお父さん。
いつも夜遅くまで起きてなにか作業をしていたが、今日は早く寝て早く起きれたので、いつもとは違う世界を知ることが出来た。
私は朝の清々しい空気を肺へと流し込み、使い古した二酸化炭素を流し出した。
なんだが気分まですっきりして、とても気持ち良い。
私は部屋に戻り、昨日解くことを忘れていた数学の問題にとりかかった。