翌日、朝起きた私の目は腫れていて、顔も浮腫んでいた。
そんなことも気にせずに、私はお母さんに挨拶もせず、家を出て学校に向かった。
本当は昨日の事を言いたかったけれど、口を聞いてくれるのか分からなかったから、無視されるくらいならこっちから話しかけないようにしようと考えてしまったのだ。
いつから私はこんなにも酷い人間になってしまったのだろうか。
人間は自分が気付かぬ間に、どんどん成長していってるのかもしれない。
学校に着き、教室の扉を開くと、そこには誰も居なかった。
当たり前だ、まだ時刻は7時。生徒がいる方がおかしいだろう。
私は荷物を置いて、久しぶりに屋上に行こうと考えた。
文化祭後、高嶺君とは1度も話していない。
相手が私を避けているというのは、明白だった。
文化祭前は目が合ったりしたけれど、最近は目すら合わなくなってしまった。
まるで、私が存在している事を知らないかのように。
すれ違うことすら少なくなったのだ。
だから私は諦めた。もともとこういう人生なのだと認めるかのように、私の心は次第に小さく、脆く、弱くなっていたのだ。
こんな早くに彼はいないだろうと踏んだ私の考えは当たっていて、屋上にはただ青い空が広がっていた。雲ひとつない、晴れ渡った空が。
昔高嶺君と2人で座っていた椅子に腰を下ろした。
青空に顔を向け、私は目を瞑った。
今までの楽しかった思い出が、走馬灯のように、頭の中に流れ込んできた。
あの時が幸せすぎたから、今があるのかな。
辛い事が起きたら、次は幸せが訪れるって言うけれど、逆もまた然り。
私は立ち上がり、屋上に設置してあるフェンスに手を置いた。
フェンスは私の胸くらいの高さまであって、本当に意味があるのかと思ってしまう。
そういえば、屋上は元々立ち入り禁止だったという事を思い出した。
屋上から見える景色がとても綺麗で、思わず涙を零してしまいそうだった。
どうして、私の人生はこんなにも上手くいかないのだろうか。
人間というのはどうして物語の主人公みたいに、ずっと楽しい日々を過ごせないのだろう。
私はフェンスに顔を乗り出し、地面を確認した。
そこには大きな花壇が広がっていて、赤いシクラメンが咲き誇っていた。
赤いシクラメンの花言葉はたしか“嫉妬”。
この世界は嫉妬に満ちている。
誰しもが、自分にとっての憧れの存在を持ち、嫉妬へと変わっていく。
私も、高嶺君に嫉妬していた。
いつも相手の顔色を窺って生活している私にのって理解出来ない存在だった。けれど、彼には人望がある、なんでも素直に答えてしまうくせに、きつい言い方をするくせに、彼はみんなから眼差しを受けていた。
だから私は彼が羨ましいと思っていたのだ。
辛い事が続いている、いつになったら私にもう一度幸せが訪れるのだろう。
いっその事、もうここから飛び降りてしまいたい。そんな最悪な考えが頭を過ぎった。
でも、このまま死ねば、お母さんから見捨てられた事も、友達に裏切られた事も、高嶺君に嫌われてしまった事も、全部忘れられる。
彼に嫌われるくらいなら、最初から出会わなければよかったのに、なんて最低な事を思い浮かべる。
私の心はもうすでに死んでいたのかもしれない。身も心も、全てを終わらせることが出来るなら、私は楽になれるのだろうか。絶望の中を生きるくらいなら、いっその事。
フェンスに足をかけて、反対側に行こうとした時、後ろの扉が勢いよく開く音が鳴り響いた。
私は思い切り振り返り、人物を確認した。
彼は目を見開き、噴火してしまいそうなくらい顔を赤くして、私の元へズカズカと近付いてきた。誰が見ても、彼が怒っているというのは明らかだった。
「何してんだよ、鈴岡」
久しぶりに聞いた、彼の声。
怒りに身を任せている彼は、今まで見た事がないくらい怖かった。
初めて話した時の怖さとは違う、誰かを思って怒っている姿だった。
「な、にって…」
私はフェンスにかけている足をゆっくりと下ろした。
「なんで自分から死のうとしてんだ!」
知ったような口、聞かないで欲しい。
そうさせようとしてるのは、君のせいなのに。
君が避けるから私は辛くて仕方なかったのに。
それでも、彼にこれを伝えてしまえば、彼はきっととても傷つくだろう。だから、私は残り僅かな自我を保って、言わなかった。
「何もかも、辛いの…もう、消えてしまいたいくらいに…」
瞳に涙がたまって、視界がぼやけている。
彼の表情を見ることが出来なかった。
「だからって…だからって死のうとするな!自分から命を捨てるな!」
彼は私の肩を力強く掴み、訴えかけた。
彼が話す度、私の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「死にたくなくて死んだ人間もいるのに…どうして自ら死ぬのを選択するんだよ。まだ少ししか生きてない人生で終わらせようとすんじゃねぇ!」
彼の言葉が、私の心を刺激していく。
弱くなった私の心を、支えようとしてくれている。
「鈴岡が死んで、悲しむ人間がたくさんいるんだよ。辛い事ばかりを考えるな、楽しいことだってあっただろ?忘れないでくれよ…」
彼の声が次第に悲しみの声へと変わっていく。
「どんなに辛くても、消えようなんて思わないでくれ…」
彼の声が、手が震えていた。
視界がぼやけていたけれど、高嶺君が泣いているというのが伝わってきた。
「どうか、もうこれ以上…俺を1人にしないでくれ…」
彼がこんなにも心細く感じたのは、初めての事だった。まるで、前に誰かを失ったことがあるかのようだった。
彼の悲しい声を聞いた私も、さらに泣きそうになってしまう。でもここで泣いたら今までと同じだ。今度は、私が彼を支える番になりたい。
「高嶺君、落ち着いて」
「……」
「私はここにいるよ、大丈夫だよ」
「……すまん、取り乱した」
彼は袖で涙を拭い、赤くなった瞼をこちらに向けた。彼に猫耳があったら、今はしょんぼりとして垂れていただろう。
「どうして、来てくれたの」
私達はいつものベンチに座り、桜の木を眺めながら、久しぶりの会話をする。
あんなに綺麗に咲いていた桜が、今はもう寂しい普通の木となってしまった。また彼と、あの絵のような時間を過ごせたらいいなと思う。
「さすがにもう区切りをつけなきゃと思っていた時に、美術室から見えてな」
「そう、なんだね」
区切り、という言葉が、良い方なのか悪い方なのか分からなかった私は、歯切れの悪い返事をした。
「本当は話さないで欲しいと言われたんだけどな」
誰に何を言わないでと頼まれたのだろうか。
「誰に?」
「鈴岡のお母さんに」
「私の、お母さん?」
「ああ、文化祭の時話してただろ?」
カフェで2人が話していたときの状況を思い浮かべる。結局、何を話していたのか教えてくれなかったのだけれど。
「俺の母さんと、鈴岡の関係について」
でも、俺の母さんのためにも向き合って欲しいと、彼は綺麗な瞳をこちらに向けてそう言った。
「高嶺君のお母さんと私…」
彼のお母さんに会った事はない。行事にも来ていなかったと思うし、会う機会がなかったから。
「俺の母さんは、10年前に亡くなってる」
彼は口をきゅっと強く結ぶ。
あんまり自分の事を話してくれない彼が、少しづつ、私に扉を開けてくれた。
「轢かれそうになっていた女の子を助けて、そのまま亡くなったんだ」
10年前。轢かれそうになった女の子。
女性が亡くなっていること。
そして、私を見つめる彼の揺らぐ瞳。
全てが、ひとつの線で繋がった瞬間だった。
私は手で口を抑え、目を見開き、息を呑んだ。
「もしかして、高嶺君のお母さんが助けた女の子って…」
彼は悲しそうにしながらも、現実だけを私にたたきつけた。
「ああ、鈴岡だ」
喪失していた記憶が、どんどんと蘇ってくる。
彼を見ることが出来ない。私が彼の大切な人を奪ってしまった。
そして、命を懸けて助けてくれた彼女の命を無駄にしようとしていた。
怒らないはずがない。自分の親が命を捧げてまで助けた女の子が、自ら死のうとしていたのだから。
「嘘…私…わ、たし…」
涙を止める方法を教えて欲しい。
拭っても拭っても溢れてくる、この悲しみの雫を。
「ごめ、ごめんなさ」
「謝らないでくれ、母さんはきっと、謝って欲しくてやったわけじゃない」
夢に出てきた女性の顔に漂っていた霧が、徐々に消えていった。
高嶺君の姿に、その女性が重なって見えた。
「鈴岡のお母さんは、本当に鈴岡の事心配していた。他人の気持ちを読み取るのが苦手な俺でも、大切にしてるんだなっていうのが伝わってきたよ」
彼の綺麗な瞳だけが私の方を向いて、少しだけ口角を上げて笑う。
「俺の事を覚えていてくれたんだ、葬式の時に話したと言っていた。あの時の俺はずっと泣いていたからあんまり記憶にないんだがな」
「…うん、うん」
私は涙を拭いながら、振り絞った声で相槌を打った。彼にひとりじゃないよと、分かって欲しかったから。
「俺は当時、鈴岡と母さんを恨んだ。なんで事故に遭うような行動をしたんだと、どうして俺より、見ず知らずの他人を優先したんだと」
思い出した記憶の中で、私が事故に遭う時、車は居眠り運転をしていた。私はそれに気付かず、高嶺君のお母さんと一緒に信号を渡っていたのだ。
「2人が事故に遭った日、病院で母さんは最後の力を振り絞って目を覚ました。そして、“私が助けた女の子をずっと守ってね、託したよ、瞬。あなたは、私の自慢の子だもの”と言って…」
高嶺君の頬に、一筋の涙が伝った。
冬の風に彼の茶髪が靡いて、綺麗だった。
「俺と鈴岡は、ずっと前に会ってるんだよ。覚えてるか?」
「うん、全部思い出したよ」
私達は、高嶺君のお母さんが亡くなった病院で会っていたんだ。当時の私は、彼が私を助けてくれた人の息子だと知らず、泣いている彼を励まし続けていた。本当に、最低な事をしていたと思う。謝っても許される事じゃない罪。
「俺はあの時、母さんが助けた女の子が鈴岡だと知らなくて、お前がずっと俺の背中を摩ってくれた、それだけが唯一の救いだったんだ」
「ううん、私は、私は本当に最低な事してた。本当にごめんなさい」
私のせいで彼が泣いていたというのに。
私は深々と頭を下げる。今の私には、こうすることしか、謝罪の念を表すことが出来なかったから。
「父さんは、母さんが死んでからずっと、仕事を広げて、世界の色んな場所を回った」
今ほど忙しくはなかったけれど、それでも人並み以上には働いていた。だから俺には、母さんしかいなかったのだと、彼は告げた。お盆の時に会った男性は、高嶺君のお父さんだったと、合点がいった。
そして私が、彼を1人にしてしまったのだ。
「だから俺は、1人になってからもずっと、絵を描き続けた。絵だけが、俺と母さんを繋いでくれていると思っていたから」
彼の綺麗な瞳は、とても遠くを眺めているみたいだった。まるで、遠くにいるお母さんと見つめ合っているかのように。
「でもそれは違った。絵なんかじゃない、大事なのは気持ちなんだと、今になって気付いたんだ。亡くなった人が生きていける場所は、誰かの心の中だけだから」
なんて素敵な言葉なのだろうと、私は思った。
亡くなっても、誰かの心の中で生きていける。誰かがその人を覚えている限り、その人は生き続ける事が出来る。大切な人の心の中で。
「高嶺君は、ずっと私の事を知ってて、話してくれていたの?」
もしずっと知っていて、私のわがままで話していてくれたのなら、辛かっただろうと思った。どんな返事が来ても、私は向き合わなければならないと覚悟を決める。
「母さんが助けた女の子が鈴岡だと知ったのは、今年のお盆の時だ」


蝉の声が、俺の感情を高ぶらせる。苛立ちの思いが上昇していくも、それをぶつける場所を知らない俺は、心の中に留めることしか出来なかった。最近寝不足というのも原因だろう。気分が悪く、体温計で温度を測ると、発熱くらいの数字が表示された。
「瞬、ただいま」
久しぶりに聞く、父さんの声。
前よりも少しだけ、声が枯れていた。
1年も経てば、人は変わる。その過程をお互い見ることが出来ないのは悲しいと俺は思う。
どうして、俺のために日本に残ってくれないんだろうと思うけれど、自分がこうして何不自由なく生活出来ているのは彼のおかげだから、俺は口を閉じた。
なんでも言ってしまう俺が、唯一素直になれない相手。
「…おかえり」
「今から母さんを迎えに行くけど、お前も来るか?」
「ごめん、ちょっと体調悪くて」
「大丈夫か?なにか欲しい物ある?」
「…いらない」
俺は少しぶっきらぼうに返事をした。
本当は、1人は寂しいということを、分かって欲しかったから。
けれど父さんはそんな事を気付けず、悲しそうに笑って、そうかという返事をした。
違う、そんな顔させたいんじゃない。
自分だって人の感情を読み取ることができないのに、人には求めるんだという、心の悪魔の声が俺の体を支配する。
「…じゃあ、行ってきます」
「ああ、気を付けて」
母さんを亡くした日から、“気を付けて”という言葉は必ず言っている。
気を付けていても、なにも出来ない状況はあるけれど、俺はただ無事を願うことしか出来ないのだから。
扉をゆっくりと閉じ、パタンという小さな音が、俺しかいない大きな家に消えていった。
階段を登って自分の部屋に籠る。
久しぶりに話した父さんは、前よりも窶れていて、疲れが溜まっているというのが目に見えて伝わった。
だから俺は、学校に許可をもらい、バイトをしている。本当は良い大学に入って、良い就職をするのが1番だけれど、自分の夢だけは諦めたくなかった。母さんと約束したんだ、俺も母さんのような、俺が描いた絵を見た人が幸せになれる絵を描くんだと。
母さんはまだ幼い自分の夢を笑う事なく、俺の頭をくしゃくしゃとかき乱し、“瞬ならできる!大丈夫だよ”と、満面の笑みで言ってくれた。誰かに言われる大丈夫だという言葉にはあんまり信憑性を感じないけれど、母さんの言葉だけは素直に信じる事が出来た。
昔の出来事を思い出していた俺は睡魔に襲われ、いつの間にか寝てしまっていた。

朝から開けっ放しにしていたカーテンから日光が、俺の顔を照らした。
眩しさに目をぎゅっと瞑る。目を擦り、時計を確認する。
時刻は昼過ぎを指していた。
父さんが帰ってきているだろうと思い、俺は急いでリビングに向かった。
案の定、父さんは電気も付けず、ただひっそりと、母さんの仏壇の前で手を合わせ、瞼を閉じていた。
床の音が鳴ってしまい、父さんの耳がそれを捉えた。ゆっくりと瞼を開け、こちらを向いた彼の姿は、とても小さく見えて、悲しみの思いを身に纏っていた。
俺達は、ずっと母さんに囚われている。
俺達の心の時計は、ずっと止まっている。
「おかえり、父さん」
いつの間にか発熱は治っていて、体が軽くなった気がした。
「ただいま、瞬」
父さんは毎年、お盆の4日間だけ日本に帰ってくる。他の日はずっと海外で仕事をしているらしい。寂しいと感じるけれど、俺は父さんを誇りに思っている。これは勝手な考えだけど、父さんは無理やりにでも仕事をしていないと、母さんを思い出してしまうから、無理に自分の体を追い込んでいるんだろうと思う。
「お昼、作るね」
沈黙に耐えられなくなった俺は、この場を後にするための口実を作った。
「頼んだよ」
父さんはスーツを脱ぎながら、俺に優しく微笑んだ。無理に笑っているというのが伝わってきたから、余計に辛くなる。
俺の前だけでは無理しなくていいって、素直に言えたらいいのに。
俺はそんな思いを心に残して、台所に向かい、食材を確認する。
麺類が入っている棚を見たら、そうめんがあったため、俺はそれを取り出して茹でた。
作り終えたそうめんをお皿に盛り付け、リビングに運んだ。男2人だからという理由で作りすぎてしまったけれど、朝ご飯を食べていない俺にとってはちょうどいい量だった。
「いただきます」
2人の声が重なり、同時にそうめんを啜る。
「…うん、美味い」
父さんが口をもぐもぐとしながらそう言ってくれた。お世辞でも本音でも、なんでもいい、ただひたすらに嬉しかった。
「まさか、瞬がこんなに料理が出来るとはね」
「そうめんなんて、茹でるだけだし」
「それでもいいんだよ、僕に作ってくれたっていう事実だけで、嬉しいよ」
「…あっそ」
素直に褒められたことに恥ずかしくなり、俺は一気にめんを啜った。
冷たいそうめんが、体の芯から涼しくしていく。今の季節にちょうどいい。
「そういえば」
「ん?」
「今日お墓でね、とある親子にあったんだ」
とある親子、というなんとも言えない単語がつっかかり、俺は聞き返した。
「とある親子って、誰」
「母さんが昔助けた女の子と、そのお母さん」
「…は?」
俺はめんを掴んでいた箸を置き、食べるのをやめる。食べながら聞く話じゃないと思ったから。自然と、姿勢を正していた。
「大きくなってたよ、親御さんに聞いたら瞬と同い年だって」
「名前は…?」
父さんは女の子の名前を知っている、昔から。
でも俺には教えてくれなかった。多分、母さんの死の辛さをもう一度味わわせたくないと思ったんだろう。
でも、俺はもうそんな現実を受け止められないほど子供じゃない。
ちゃんと、本当の事を聞きたい。
「鈴岡、美桜ちゃんというんだ」
彼の口から出た名前が衝撃すぎて、口をぽかんと開けてしまう。
は…?鈴岡?
聞き間違いだ。きっと、違うに決まってる。
俺の驚いた表情を見て、父さんは本当だとでも言うように、大きく頷いて見せた。
「鈴岡さんと、知り合いなのか?」
「…ああ」
知り合いどころじゃない。あいつは俺を救ってくれたんだ。ずっとひとりで孤独だった時、鈴岡が俺に光をくれた。
鈴岡は俺にとって大切な人で、好きな人なんだ。
俺が恨んでいた相手が、好きな人だなんて、どうして神様はこんなにも俺に厳しいのだろうか。こんな残酷な世界は、誰のためになるのだろうか。
「彼女は当時の記憶を失くしているらしい。だから、本当の事を話すかは、お前次第だ」
瞬の人生なんだから、自分で決めていいんだよと、優しい声で微笑む。その笑顔にはやっぱり、疲れが滲み出ていた。
なにが、正解なのだろう。
俺には分からない、分からないんだ。
もう俺は、何度も失敗を繰り返している。
「どうすればいいんだよ、俺は…」
「どんな結果になろうとも、僕は瞬の見方だからね、それだけは忘れないでくれ」
「でも俺は、母さんに酷い事を言ってしまったんだ。自分の選択で誰かを失うくらいなら、誰かに委ねたい」
俺はあの日、一生忘れる事のない過ちを犯してしまった。
母さんが事故に遭った当日、あの日は俺の誕生日だった。父さんはまだ今ほど忙しくなくて、一緒に誕生日パーティーをするほど、俺の家族は仲が良かった。
でもこの日、父さんに急な仕事が入って、パーティーは父さん抜きですることになったんだ。
まだ幼かった俺は、それが不服だった。
この気持ちをぶつける場所がなかった俺は、母さんに怒りをぶつけてしまった。
「どうして父さんがいないの!」
いつもはホールのケーキが、今年はカットされている小さなケーキだったという些細なことですら、俺には許せなかった。
「ごめんね、瞬。お父さんはお仕事やらなきゃいけないんだって」
「ケーキも、おっきいのがいい!」
「ケーキ、買ってくるから、お家で大人しくしてるのよ」
「みんなみんな、大っ嫌い!どうせ僕の事大切じゃないんだ!」
お母さんは苦笑しながら、急いで家を出る準備をしてくれた。その笑顔の裏には、嫌いと言われて悲しんでいる母さんの姿があったことに、当時の俺は気付けなかった。
俺は、この時、この発言をしてしまった自分を、一生許せないだろう。
たかがケーキ如きで、俺の大切な人が遠い場所へと行ってしまったんだから。
もう二度と会うことの出来ない場所へ行ってしまったのだから。
そして、お父さんが頑張って早く仕事を終わらせてくれて、時間が経っても帰ってこないお母さんを心配しながら、俺達は家で静かに待っていた。
静寂の家に、家の電話の着信音だけが響き渡った。なんだか嫌な予感がして、心臓が脈立つ。父さんがゆっくりと立ち上がり、電話に出た。
俺はただそれを見守り、父さんが蒼白な顔になるのを眺めていた。
「瞬…!今すぐ病院に向かうぞ!急いで準備しなさい」
あんなに必死な父さんを見るのは、あの時が最初で最後だろう。本当に、見たことがなかった父さんの姿だったから、今の事態の重大さが、まだ幼い俺にもわかった。
「…うん」
そうして、母さんの死を迎えた。
最後、母さんに素直になれなかった俺は、この日から自分の気持ちを素直に伝えるようにした。また、伝えられず後悔しないように。
昔の事を思い出していたからか、心の中は後悔や悲しみの感情が渦巻いていた。
「瞬、それは違うよ。誰かに選択を委ねたいなんて、ただの逃げだ。その時失敗した時、自分の罪から逃れるためのね」
「逃れたい、のかもしれない。俺はもう、自分のせいで誰かを失いたくないんだ」
「母さんはな、お前のせいで死んだわけじゃない。自分を責めたら、それこそ母さんが悲しんでしまうよ」
そんなこと、分かってる。
母さんは鈴岡のように、他人のために生きていたから。あの2人はとても似ている。
だからまた、母さんみたいに鈴岡を失うのではないかと思ってしまうんだ。
雨が降り注ぐこの世界は、まるで俺と父さんの涙のようだった。

「そんな事が、あったんだね」
私はごしごしと涙を拭い、鼻水を啜る。
あんなに幼い男の子に、こんな試練を与える神様のことが、少しだけ嫌いになってしまう。
「ああ、俺は正直受け止めることが出来なくて、どうすればいいのか分からなかった。だから、鈴岡とは距離を置かなきゃ答えを出すことができないと思ったんだ」
嫌われていたわけじゃないということに安心する。それでも、もしさっき私が飛び降りることを躊躇なくしていたら、この答えを知ることなく、心残りを持って死んでいたんだと考えると、ひとつの選択でこんなにも変わってしまうんだということに驚いた。
人生は選択の毎日だ。その中で色んな事が起こる。それでも、引き返すことなど出来ないのが現実なのだから、それを受け止めて前に進むしかないんだ。時間は、自分のために止まってくれたり、巻き戻ったりしてくれないのだから。
「でもやっぱり、向き合わなければならないと思った。でも文化祭の日、鈴岡のお母さんから“娘と仲良くしないでほしい、もう娘にこれ以上悲しんで欲しくないから”って言われたよ」
彼はまるで、それを笑い話のようにすらすらと話した。
「俺は断ったよ」
「え…?」
「鈴岡と話せなくなるのは、これ以上耐えられなかったから」
それって、どういう意味なのだろうか。
期待して、いいのかな。
私の頬が、どんどんと熱くなっていく。
今度こそは、夕日のせいに出来ない。
「鈴岡」
「なに?」
「俺、鈴岡の事、好きなんだ。昔からずっと、鈴岡だけが好きだった」
彼の真剣な瞳が、私だけを写している。
朝日に照らされている彼の髪が、さらさらと風に揺れ、透明のように見える。
嬉しいという気持ちが溢れ出てきて、私の口角が上がっていく。
好きな人と結ばれる。それは誰しもが憧れること。たくさんの奇跡が積み重なって完成される幸せの形。
私の瞳から、喜びの涙がこぼれ落ちた。
「うん…!私も、大好きだよ…!」
やっと、伝える事が出来た。そして、彼に本当の笑顔を見せた瞬間だった。
今まで行き場を探していた好きという思いを、1番伝えたい相手に届ける事が出来たんだ。
彼は目を見開き、途端に三日月のような形に目を細めて笑った。
大好きな人が幸せだと、こんなにも自分も幸せになるんだということを初めて知った。
彼からは、たくさんの初めてをもらっている。
全てを返せることは出来ないかもしれないけれど、私は彼と、これからもずっと一緒に生きていきたい。
命は有限で、いつ自分がこの世界からいなくなってしまうのかも分からない。
それでも人は、頑張って生きているんだ。
いつもすれ違う知らない人にも、その人の人生があって、それは永遠と続いていく。
別々だった人生が繋がり、ひとつのものとなっていく。
「最初は、高嶺君のこと、嫌いだった」
「俺も、なんでこいつは自分の気持ちを押し殺すんだろうと不快だった」
「どうして素直なくせに、みんなから人気あるんだろうなって羨ましかったの」
「俺もだ」
「でもね、今はそんな正直な所も、本当はとても優しい所も、意外と自分の気持ちが表情に出ちゃう所も、全部好きだよ」
彼は手を顔に被せ、天を仰いだ。
「なんでそんな、急に素直になるかな…」
彼の耳が、徐々に赤く染まっていく。
こうして、まだ知らない彼の姿をこれからも隣で見ていけるという事実が、とても嬉しくて幸せだった。
「私も高嶺君を見習おうと思ってね」
彼は優しく微笑んだ。そんな笑顔が、愛おしくて仕方なかった。
彼の手が、私の手を包み込む。
大きな彼の手が、私を安心させてくれた。
大きな試練を乗り越えた私達は、辛い日々を過ごしながらも、前を向いて歩いていくんだ。
君に出逢えたという奇跡は、私の人生の宝物。
真っ直ぐな飛行機雲が伸びている青空の下、私達は、精一杯に生きている。