夕飯のそうめんを食べ終えて、お風呂に入り、自分の部屋のベッドに横になる。
 しっかりと冷やしたはずなのに、まだヒリヒリと腕の皮膚が痛んでいる。壁に掛けた時計を見上げると、21時過ぎだった。今日の分の課題は特にないし、眠るのにはまだ早い。
 私はベッドに寝転んだまま、机に置いていたスマホとワイヤレスイヤホンに腕を伸ばした。イヤホンを片耳に装着し、misizukuさんの動画をタップして再生する。流れ込んでくる歌声に、瞼を閉じて聴き入った。
 低いとも高いとも言えない、不思議な声。柔らかく耳朶に染み込んで、聴いていると、小さな炎が灯ったかのように胸があたたかくなる。もう何十回も聴いたけど、歌詞も、メロディーも、声も、雰囲気も全部好きだ。何度聴いても全く飽きない。飽きないのだけれど。
「早く新曲ききたいな……」
 動画の投稿日時が四年前になっているのを見て、つい口に出してしまった。
 misizukuさんのチャンネルは、四年前で更新が止まっている。
 一度音楽を再生するのをやめて、彼のプロフィール欄を開いた。そこには、「音大生。趣味で音楽やってます」という簡素な自己紹介文が載っているだけで、ツイッターやインスタに飛べるリンクなどは貼られていない。
 きょう、電車で助けてくれたお兄さん――深見さんのことが頭をよぎる。
 深見さんはスーツを着ていたし、今は会社勤めをしているみたいだった。でも容姿を見る限り、20代なのは確実だと思う。今から四年前までは大学生だったとしてもおかしくない。
 どっちなんだろう。深見さんはmisizukuさんなのか、違うのか。似た腕時計を着けていたから、私の中で疑惑は消えないでいた。
 いっそ、もう直接確認してみようかな……。そうしたほうが手っ取り早いかも。いや、でも身バレするの嫌なタイプだったりしたら、迷惑かな。偶然、電車で助けた女子高生が、自分のファンだったなんて知ったら、人によっては恥ずかしいかもしれないし。
 どうすべきか。ここは大人になって何も知らないふりをするか。それとも勇気をだして尋ねてみるか。
 ベッドでスマホ片手に懊悩していると、ふいに画面の中から軽快な音が鳴った。心臓が跳ねる。見ると、深見さんからメッセージが届いていた。

『大丈夫? 帰りは変な人に会ったりしなかった?』

 通知を開いて、驚いた。
 や、優しい……!
 もしかしたら憧れのmisizukuさんかもしれない深見さん。そんな人に気遣われたんだと思ったら嬉しくなってしまった。
 なんて返そうか数分ほど悩んで、「大丈夫です」、と返信をした。でも、これだけじゃそっけないかなと思い、「今朝は助けてくれてありがとうございました」と打つ。そして、「よかったら、お礼させてください。なんでもします」とも打って、送信した。
 すぐに既読がついて、ドキドキと心臓が脈打った。十秒ほどした後に、深見さんからのメッセージが届く。

『そっか。それならよかった。ちょっと心配だったから安心した。お礼とかは気にしないで。本当に』

 どこまでも謙虚な言葉が返ってくる。「でも、それじゃ私の気がおさまらないんです」とメッセージを送った。またすぐに既読がついて返信が来る。

『僕そういうつもりで助けたわけじゃないんだし、本当に気にしないでいいんだよ。ていうか、けさ知り合ったばかりの僕に『なんでもお礼します』って言うのは危ないよ。もし、僕が怖い大人だったらどうするの』

 その文章を見てハッとした。
 でも、深見さんは悪い大人ではないと思う。けさ知り合ったばかりだけど。勘だけど。
 だけど、本当に彼はお礼を受ける気がないのだとわかって、なんだか私は焦ってしまった。
 この人は、私とこれ以上連絡をとる気がないのではないかと思ったのだ。
 けど、それは「迷惑だから」というより、「気を遣わせたくない」という気持ちゆえの行動という気がした。かといって、このままじゃもう深見さんとは連絡がつかなくなってしまうかもしれない。
 この人の正体は、もしかしたらmisizukuさんかもしれないのに。私の心を癒す曲をつくった本人かもしれないというのに。もう二度と、こんな出会いは起こらないだろうに。
 ――どうにかして、この人を繋ぎ止めたい。
 強くそう思った時、指は自然と動いて、気づけば深見さんにメッセージを送っていた。


『深見さんって、misizukuさんだったりしますか?』


 我に返ったときにはもう遅かった。私が送ったメッセージにはすでに既読がついていた。
 お、送っちゃった……っ!
 こんなに勢いに任せて行動してしまったことなんて初めてで、正直、自分で一番びっくりした。ベッドの上で頭をかかえる。
 ど、どうしよう、これでおしまいにしたくないからってこんなこと送っちゃった。しかももう読まれてしまった。もし違ったらどうしよう? ていうか、メッセージを送るにしてもここまでストレートに訊くことなかったんじゃ……!?
 ちょっと後悔していると、スマホから軽快な音楽が流れ始めた。肩が跳ねる。こわごわと画面を確認すると、深見さんが通話をかけてきていた。
 ごくりと唾を飲み込んで、応答をタップする。
「もしもし……?」
「な、なんで知ってるの!?」
 画面越しに、あわてた声が炸裂した。
 えっ、「なんで知ってるの」って言うってことは……。
「え、えっと……あの、深見さんはやっぱりmisizukuさんってことですか……?」
 ひかえめに質問すると、少しの間をあけて返答があった。
「……うん」
 羞恥をこらえるような、微かに震えた声で肯定される。
 その言葉を直接耳にした途端、胸の奥から熱がこみあげてきた。
 やっぱり、この人が……!
 うすうすそうなんじゃないかと思ってはいたけど、実際そうだったと分かると何だかとても高揚した。
「あ、あのっ、私、misizukuさんの曲すごい好きで、いつも聴いてて……っ」
「え、えっ? そ、そうなの!?」
 ファンだということを伝えると、思ってもみない展開だったのか彼は狼狽している様子だった。
「電車の中とか、学校にいるときとか、寝る前とか、暇さえあればずっと聴いてます……! まだ三週間くらい前にハマったばっかりなんですけど、でもmisizukuさんの曲って、どれもすごい雰囲気が優しくて、聴いてると、なにがあっても、『この歌があるから大丈夫』って思えるっていうか、安心できるんです……っ!」
「…………えっと」
 通話相手は少しの間、沈黙してしまった。
 我に返る。
 まずい。あまり息継ぎもせず、熱く語りすぎた。引かれたかも……。
「ありがとう」
 だけど、画面の奥からは感謝の言葉が返ってきた。
「まさか、そんなふうに聴いてくれる人がいると思ってなくて。ちょっと感動しちゃった。ありがとね」
「いえ、本当のことですから……! あの、やっぱりお礼させてもらえませんか?」
「え? いや、いいよそんな……!」
「私、misizukuさんの歌がすごく好きなんです。あんなに良い歌をたくさんつくってくれているのに、そのうえ痴漢からも助けてもらっちゃって……。だから、恩をめちゃくちゃ感じてるっていうか……、ぜひお礼がしたいです……! どうしてもしたいんです、させてください……!」
「……そっかぁ……どうしてもしたいかお礼……。なるほど……」
 うーん、と彼は電話越しにしばらく唸っていた。
「ちなみに、その水月さんのなかではお礼ってどういう感じの概念なの? 肩たたきとか雑用をするつもりでいるのか、それとも金銭が絡んできちゃうのか……」
「なんでもします」
 私は食い気味に答えた。misizukuさんのためなら、火の中水の中だ。
 けれど彼は、「なんでもするとか簡単に言っちゃダメだよ……?」とちょっと当惑している感じである。
 でも、私はこの人のためなら何でもしたかった。曲を聴いて泣いたのは初めてだったから。あんなに同じ歌を繰り返し何度も聴いたのも全部、misizukuさんの曲が初めてだ。私の毎年恒例の窮屈で退屈な夏の生活に、潤いを与えてくれて、さらに今朝は痴漢からも守ってくれたのだ、この人は。
 私が引き下がらないことを悟ったのか、やがて彼は言った。
「じゃあ、あのさ、もしよかったらなんだけど……僕と会ってお茶してくれないかな?」
 そう言われたとき、世界から音が消えた。
 一瞬ほんとにそう思ったくらい、そのくらいの衝撃を私は受けた。
 ……深見さんと……え? misizukuさんとお茶? 私が?
「あっ、あ、でも水月さんが嫌なら断っても……」
「行きたいです!!」
 思わず、食い気味にそんなことを口にしていた。
「そ、そう? 大丈夫?」
 あまりの勢いの良さにびっくりしているらしい深見さん。
「もちろんです、はい」
 相手には見えていないと言うのに、私は自分の部屋で一人、何度も頷いた。頬が熱かった。
「ありがとう。僕、自分の曲をそこまで熱心に聴いてくれる人に今まで会ったことなくて……。よかったら、また会いたいなって。水月さんがいいんなら、お茶でもしながらゆっくり曲の感想とか聞かせてほしいんだけど……」
 それがお礼ってことじゃだめかな? と言われる。
 だめじゃない。むしろご褒美。彼とまた直接会えるなんて……!
「だ、だめじゃないです。それがお礼ってことで大丈夫です……!」
「そう? よかった。じゃあ、いつがいいとかある? 僕は平日の18時半以降と、土日はだいたい予定あいてるんだけど」
「えっと私は……!」
 そう言いかけて、とんでもないことに気がついた。
 私は夏休みの間は家から出ることができない。そして、学校がある平日も余計な寄り道はしないでまっすぐ帰ってくることとお母さんに言われている。ふらふら外を出歩いて熱中症になったら大変だから、と。
 もしも、約束を破ったらまた……。
 腕の火傷がひりひりと痛んだ。
「水月さん?」
「あ……、えっと、ちょっとまだ予定がどうなるかがわかんなくて……また後で、連絡します……」
「そっか。わかった。曲きいてくれてありがとう」
 優しい声で、深見さんはおやすみと言い、通話を切った。
 おやすみ、というたった四文字の言葉なのに、胸があたたかくなった。
「でも、どうしよう……」
 困った私はベッドに横になって、つぶやいた。
 正直、めちゃくちゃ会いたい。
 でも、夏の間は学校以外の用事で外出するなんてこと、できない。学校に行く日ですら、日傘を差すのを忘れるとお仕置きがあるのに。知らない男の人と二人で会ってきたら、どんな目に遭わされることだろう。
 そう思うと、とても怖い。
 でも、会いたい。
 二つの気持ちがせめぎあって、ベッドで悶々としているうちに、いつのまにか眠りに落ちていた。