「ただいま……」
 その日の夕方。無事に一日を終えて帰宅し、つぶやくような声量で言って、玄関の扉を開けた。キッチンからお母さんの「おかえりなさい」という明るめの声が飛んでくる。
 私は玄関の上がり框に腰を下ろして、ぼんやりとローファーを脱いだ。
 今日は、ずっとうわの空だった。misizukuさんと深見さんのことが気になって、まともに授業の内容も頭に入ってこなかった。
「水月ちゃん、おやつにアイスが……あら」
 玄関に出てきたお母さんは私を一目見て、訝しむような顔つきになった。
「なに?」
「水月ちゃん……、日傘は?」
「え? あっ!」
 しまった。
 ぼんやりしていて、うっかり学校に置いて帰ってきたことに気づいた。夏の間は、登下校の際にいつも差している傘だったのに、それを忘れてくるなんて……今日の私はどれだけボーっとしていたのだろう。
 私が日傘を差すのを忘れて帰ってきたと知るなり、お母さんの目が、どんどん剣を帯びていった。
「ねえ……水月ちゃんに、なにかあったら心配だから、お母さん傘さして行ってって言ったよね?」
「ご、ごめんなさい。考えごとしてて、うっかり……」
「朝、『傘さしていって』って言ったとき、水月ちゃん、『わかった』って言ったよね? なのに、どうして約束やぶっちゃったの?」
 無表情になったお母さんが一歩ずつ距離を詰めてくる。背筋が凍りつきそうだった。
「また、お仕置きしないと分からないみたいね」
 恐怖で動けない私の腕を、お母さんが乱暴につかむ。これから何をされるかは、去年も同じことをされたからよく覚えている。
 私はフローリングの床をほとんど引きずられるかのようにして、キッチンの流しへと連れて行かれた。私の腕の上で、お母さんが勢いよく蛇口のレバーを上げる。真水だったそれは、途端に温度を上げ、熱湯が容赦なく腕に降り注いできた。思わず息を呑む。
「あっ、熱……ッ! お母さんっ、お母さんやめてっ!」
 抵抗しようとしても、後ろから私の腕をつかむお母さんは、とんでもない馬鹿力でとても敵わない。
「熱中症になったら、これより熱いんだよ!? これより痛いんだよ!? これよりも、ずっと、苦しいんだよ!? ねえ、ちゃんと分かってるの!?」
 顔を見ると、お母さんは血走った目で私に向かってまくしたてていた。あまりにも恐ろしくて、抵抗をする気も失せてしまう。ただただ腕が焼けるように熱い。
「ごっ、ごめんなさい……っ!! ごめんなさい!!」
 何度も謝罪を口にしたが、お母さんの指の力が緩むことはない。数分ほど、私の腕を熱湯にさらしつづけると、ようやくお母さんは解放してくれた。腕は真っ赤になっていて、熱と痛みで痺れていた。
 私は肩で息をしながら、食器棚に背をつけたまま床に座り込む。お母さんが無言で、蛇口のレバーを下ろして熱湯を止めた。その視線は私の腕へと注がれている。
「早く冷やさないと火傷になるわね」
 また、腕を引かれる。今度は手荒い感じではなく、迷子の子どもをインフォメーションセンターへ案内するかのような穏やかさがあった。
 私は浴室へと連れていかれた。お母さんは、タライに水を張ると、そこに私の腕を沈めた。冷たさで体が凍てつくようだ。幹部に、鋭く水が染みた。思わず顔を歪めると、お母さんが甘い声で言った。
「お母さんだって、水月ちゃんの体に傷をつけたいわけじゃないし、苦しませたいわけじゃないよ。でも水月ちゃん、熱中症になったら苦しくて辛いってこと、まだよくわかってないみたいだったから、わからせてあげようとしただけ」
 浴室に妙に響くその声を、泣きたいような気持ちで聞いた。
 火傷の痛みと、熱中症の苦しみはまた別のものだろうに、どうして私はこんな目に遭わされないといけないんだろうか……。
 夏の間のお母さんと分かり合うことは諦めているくせに、仕方ないことだと割り切ろうとしているくせに、そんなことを考えてしまう。私の腕は熱でひりついて、心は悲しみに焼かれていた。
「ね、水月ちゃん。今度からはちゃんと傘さして行けるよね? 熱中症になっちゃったら、すっごくつらいってこと、もう今のでよーくわかったもんね?」
 浴室の入口に立つお母さんは、こちらを見下ろしていた。まるで、聖母のような微笑みで。娘の腕を熱湯に晒したり、氷水に突っ込んだり、今さっきまで悪魔のようなことをしていたというのに。
 けれど、私は無感情に「はい。ごめんなさい」と小さな声で呟いた。「わかればいいの」とお母さんは嬉しそうに言い、夕食の支度をしにキッチンへと姿を消す。
 火傷した腕を一人で冷やしながら、まだ明るい風呂場でゆっくりと息を吐く。
 ……大丈夫。
 お母さんがおかしくなるのは、夏の間だけなんだから。今日みたいに言いつけを破ったりしない限りは、こんなふうに手を下されることはない。私が言うことさえ聞いていれば、平和でいられるんだ。次からはちゃんと日傘を差すのを忘れないで気をつければいいだけの話。私が、今だけ我慢してればいい。
「なあ、聞いて聞いて! 今年の夏休みさ、俺んち、父ちゃんがキャンプしに連れてってくれるんだぜ!」
「まじ!? いいなあ、うちは海に連れてってくれるって言ってたけど、俺もキャンプいきたいって、親に頼んでみよっかなー」
 開けていた風呂場の窓から、近所の小学生がはしゃぐ声がうっすらと聞こえてきた。
 あんなに小さい子供たちですらちゃんとした夏休みの予定があるというのに、私の夏休みには何の予定もない。キャンプや海なんて論外。それどころか夏休みは、コンビニへ出かけるようなちょっとした外出さえ、許されていない。
 外では小学生たちが「じゃあ、もう翔太も一緒にキャンプいこーぜ」、「いいの!?」、「いいって、うちの母ちゃん翔太のこといっつも褒めてるし! 絶対いいって言ってくれるって!」、と会話を弾ませていた。
 ふと、今日、教室で「夏休み、海に遊びに行かない?」と誘いを持ちかけてくれた子の顔が思い浮かんだ。
「いいな……」
 本当は、私だって海とか行ってみたかった。
 でも、そんなのは今の生活からしたら、どだい無理な話だ。私の高校時代の夏休みは、きっと三年間、色褪せたまま終わるだろう。
 ひぐらしの鳴く声を聞きながら、私は火傷した腕を、しばらく水に浸し続けていた。そこに涙が数滴だけ混入した。制服から伸びた腕で目元をぬぐう。
 早くmisizukuさんの歌が聴きたいと、それだけしか考えられなかった。