駅にたどり着くと、私は日傘を畳んで、改札をくぐった。
 ホームではスーツ姿の会社員や、同じ学校の制服の子、他校の制服を着た男子生徒が電車を待っていた。反対の路線で「人身事故が起こったため、電車に遅れがしょうじております」という駅員のアナウンスが響いている。私は、近くの列の後ろに並んだ。
 やがて、電車がホームに到着し、私は降りてくる人たちの間を縫って電車に乗り込んだ。毎朝のことだけど、車内は人でごった返している。私はいつもドアの近くに立つことにしていた。席が空いているところなんて、ほとんど見たことがないし、それに、水筒を入れているせいで膨らんだリュックや、荷物になる日傘を「邪魔だな」と言いたげな疎ましそうな目で見られることも多いから。
 電車が走り出し、スカートのポケットに入れていたスマホとワイヤレスイヤホンを取り出した。学校へはここから電車で二駅ほどの距離で、15分くらいかかる。そこまで長い時間ではないけど、少しでもいいから聴きたいものがあった。
 パスコードを入れてスマホのロックを解除すると、昨日の晩まで聴いていた「misizuku」さんの動画が画面に表示される。
 電車のなかだというのに、うっかり顔がにやけそうになってしまう。
 misizukuさんは、オリジナルの曲をつくっている男の人だ。といっても、プロのアーティストとか、有名なシンガーソングライターというわけじゃない。プロフィール欄には「音大生。趣味で音楽やってます」と短く記載されているし、チャンネル登録者数も100人にも満たない。再生数も、平均して500回くらい。無料で誰でも見れる動画投稿サイトに、自身の楽曲を弾き語りしている動画を10本ほど投稿している人。
 初めて彼の曲を聴いたのは三週間ほど前のことだった。自分の部屋で何となく動画サイトを見ていて、アコースティックギターを引いている手元しか映っていないサムネの動画を見つけた。左手首には、銀色で凝ったデザインの腕時計を着けているけど、顔出しはしていないようだ。457回という少ない再生数といい、「君に嘘はいわない」という平凡なタイトルといい、たいして期待もせずに、何となくその動画を再生して、私は軽く衝撃を受けた。
 とても、いい曲だった。
 この世のどんな悪人をも包み込んでくれそうな優しい声で、切ない愛を歌っていた。
 その2分強の曲を最後まで聴き終えたとき、気がつくと私の頬には涙が流れていた。
 歌を聴いて泣いたのは、あれが初めてだった。それから、私はmisizukuさんのつくった歌を毎日狂ったように聴いている。
 昨日の夜もずっと聴いていた。最近じゃ、この人の声を聞かないと眠れないくらいだ。中毒になっているかも、と自分でも思う。
 でも、この人はもっと評価されるべきだ。私は、一件しかコメントがないコメント欄を眺める。
 『もっと、有名になってほしい』という、前に私が勇気を振り絞って書き込んだコメントには、何の反応もなかった。
 misizukuさんが最後に曲を投稿したのは、四年前。もしかしたら、もう曲をつくる気はないのかもしれない。でも、この人の新曲を聴ける可能性があるんだったら、私は何年でも待つ。投稿されている曲を何度でも何度でも聴きなおして、待ってみせる。
 顔も本名も知らないけど、きっと私はこの世でいちばん彼のファンだと思う。
 イヤホンをつけたまま、私は気に入ってる曲のうちの一つを再生した。そうしてmisizukuさんの歌声に酔いしれていると、ふと、体に違和感を覚えた。スカートのあたりに。
 痴漢になんてあったことがなかったので、自分が今されていることが何なのか理解するのに少し時間がかかった。
 けど、それが痴漢だということを悟ってから、ゾッと全身に鳥肌が立った。身体中から一斉に冷や汗が噴き出してくる。心臓がバクバクと音を立てて、足が震えそうだった。
 どこかで見聞きした、「痴漢にあったら、まず振り向いて相手の顔を確認する」、とか、「相手の足を踏む」、「手首をつかむ」、「相手の手をつよくつねる」などの方法が脳内をかけめぐった。
 けど、内心パニックになってしまった私には、どれもができる気がしなかった。さわがれたくないし、大ごとになったら恥ずかしい。
 いつもは癒されるmisizukuさんの歌声も、全然頭に入ってこなかった。
 どうしよう。どうしよう……。
 学校の最寄り駅に着くまでまだあと八分はある。車内は人でぎゅうぎゅうになっていて、「この人、痴漢です」なんて声を上げたらこの車両全員から注目されてしまう。そう思うと勇気はどんどん萎んでしまった。
 最寄り駅まであと八分しかないんだから、私があと少し我慢すればいい。そう思ったそのときだった。
 私と、痴漢の間に、誰かが割って入ってきてくれた。体の違和感がなくなる。
 少し遠くから、小さく舌打ちのようなものが聞こえてきて、痴漢かはわからないけど作業着を着たおじさんが別の車両へと移動していくのが視界の端に見えた。
 もしかして、だれか助けてくれた……?
 そっと、後ろに割って入ってきてくれた人を見ると、スーツを着た若い男の人がいた。私の視線に気づくそぶりなどなく、素知らぬ表情で窓の外をまっすぐに眺めていた。
 たぶん、私が困っているのを察して、大ごとにならないようにさりげなく助けてくれたのだ。
 助かった……。
 ホッとしてしまった。
 その後も、そのお兄さんは、ずっと私の後ろに立っていてくれた。嫌な思いもすることなく、私は学校の最寄り駅までたどりついた。ドアが開いて、ホームに降りる。後ろの彼もここが目的地だったのか、降りた。
「あ、あの」
 思わず私は振り向いて声をかけていた。お礼を言おうと思ったのだ。
 でも、いつもの駅に着いたことでホッとして、なんだか胸が詰まって。
 情けないことに私はホームで泣きそうになってしまっていた。ただ一言、ありがとうございました、って言えばいいのに声が上手くでてこない。
「ちょっとおいで」
 見かねたのか、やがてお兄さんは優しく言った。顔を上げると、困ったような顔で笑っていた。
 そのまま、ホームのベンチに案内される。そこに腰を下ろすと、「ちょっと待ってて」と言い残し、彼は近くにあった自販機に向かっていく。そして、ペットボトルの水を一本買って私の元へと戻っ――。
「あっ」
 ――戻ってこようとして、彼はなにもないところで盛大に転んでしまった。電車から降りてきたおじさんに二度見されている。遠くで女子高生に指差されているのが見えた。
 なんとか起き上がって、こちらへ戻ってきたお兄さんは、「はい……」とペットボトルの水を差し出してくれた。うけとりながら私は、「だ、大丈夫ですか?」と尋ねてしまう。彼は「僕、よくドジとか抜けてるとかって言われるんだよね……」とはにかんでいた。
 ドジっ子なのかな。大人なのに。
「で、君のほうは大丈夫?」
 かがんで目線の高さを合わせてくれた。痴漢に遭ったことを言っているのだと思った。
「だ、大丈夫です……」
「ああいうのによくあうんだったら、乗る時間帯とか変えるといいらしいよ。……ていうか、さっき僕があの痴漢つかまえて、駅員さんとかに引き渡したほうがよかったかな。ごめん、なんか、中途半端な感じで助けたみたいになっちゃって」
「そんなことないです……! むしろ、大ごとになるの嫌だったので、助かったっていうか……。ありがとうございました」
 顔の前で両手を合わせていたお兄さんに、私はバタバタと手を振ってそう答える。
 お兄さんは、「どうする? これから。学校いけそう? それとも家の人に迎えに来てもらう?」と心配そうに訊いてきた。
「いえ……、平気です。お兄さんが、助けてくれたので。あの時、すごくホッとしました……」
「あはは。よかった。でも僕も内心、心臓バクバクだったんだよあのとき。余計なお世話だったらどうしようとか」
 彼は苦笑いしながらあのときの心境を明かした。あのとき彼はまっすぐに窓の向こうの景色を見ていたように思えたけど、それは緊張で表情がこわばっていたからだったのかもしれない。気が強いわけじゃないだろうに、それでも私のことを助けてくれたんだ……。そう思うと少しキュンとしてしまった。
「あっ、ついててあげれなくて悪いけど僕そろそろ行かないと会社に遅刻しちゃうから。行くね」
 じゃあ、とお兄さんは笑って立ち去ろうとした。
 自分でもどうしてだかわからないけど、このまま別れたらあとで後悔するような気がした。気がつくと、私はベンチから立ち上がっていた。
「あっ、あの……!」
 お兄さんが振り向いた。
「お礼がしたいので、連絡先を教えてください……!」
 たぶん、こんなに勇気をだしたのは生まれて初めてだったと思う。彼は一瞬ぽかんとして、その後、驚いたように目を見開いた。
「えっ!? いや、いやいやいいよ僕が年上だからってそんな気を遣わなくても……!」
「私の気が済まないんです……!」
「ええ? でも、本当に僕そんなつもりで助けたわけじゃ……」
 お兄さんは、ちょっと当惑している様子だった。でも、せっかく助けてくれたんだ。それ相応のお礼はしたい。
「おっ、お願いします……!」
「ええ、でも……」
「連絡先だけでもいいので!」
「……うーん、じゃあ、連絡先だけね?」
 これ以上引き留められてしまえば、遅刻は免れないと思ったのか、お兄さんは案外素直に応じてくれた。
 スマホでLIMEを交換する。コーヒーカップのアイコンに「hukami」という名前のアカウントが登録された。
「ふかみ……さん?」
「うん。深見(ふかみ)。君は水月さんって言うんだね」
「あ、はい。水月です」
 私は本名のまま登録していた。
「でも、べつにお礼とか本当気にしなくていいからね。それじゃあ」
「転ばないでくださいね」
「うん、気をつける。じゃあ」
 お兄さんは軽く手を振って、去って行った。私も手を振りかえす。深見さんの手首に装着したシルバーの腕時計が、陽光に鈍く反射した。
 思わず息を呑んだ。
 電車の中にいた時は気がつかなかった。
 お兄さんの手首に、misizukuさんが着けていたのと同じ腕時計があることに。
 ……え? あれって……。
 深見さんが階段を登っていって、姿が見えなくなった後。私はぺたんと、ベンチに腰を落とした。蝉の鳴き声がじわじわ響いている。
 う、嘘……?
 駅員さんがやってきて、「すみません、顔が赤いですけど、体調が悪いんですか?」と真面目に心配されてしまった。